雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

トランプ坊や

2019-02-10 19:16:33 | 日々これ好日
        『 トランプ坊や 』

     先日行われた 米大統領による一般教書演説
     招待されたトランプ少年
     1時間20分にも及ぶ演説に 堪えかねてか 爆睡
     その姿が 米国内のみならず 世界中で話題に
     わが国の報道でいえば 大統領の演説内容より
     トランプ少年の爆睡姿の方が 上回っている感じ
     天真爛漫な姿には かの大統領とて 勝てないようですなあ

                     ☆☆☆
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今昔物語 巻第三 ご案内

2019-02-10 15:10:18 | 今昔物語拾い読み ・ その1
     今昔物語 巻第三 ご案内

「巻第三」は、全体の位置付けから見れば、「天竺」にあたります。
「天竺」に関する作品は、巻第一から巻第五までに収められていて、「巻第三」には釈迦生前から入滅の頃までの説話を中心に構成されています。
本巻も、特に仏教関連の事項に関しては筆者には難解であり、原作そのものにもいくつかの錯誤があると多くの研究者が指摘しているようです。実歴としての史料価値も少なくないと思われますが、本稿では、釈迦にまつわる説話集として楽しんでいただきたいと思います。

     ☆   ☆   ☆
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法を聞く功徳 ・ 今昔物語 ( 3 - 1 )

2019-02-10 15:09:00 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          法を聞く功徳 ・ 今昔物語 ( 1 - 3 ))

今は昔、
天竺の毘舎離城(ビシャリジョゥ・古代インド十六大国の一つ。ここで釈迦入滅後の第二回経典結集が行われた。)の中に浄名居士(ジョゥミョウコジ・居士は、在俗の仏道修業者の称。)という翁がいらっしゃった。
この人が生活されている部屋は、一丈四方(およそ3m四方)であった。ところが、この狭い部屋に、十方(ジュッポウ・・四方(東・西・南・北)と四隅(北東・北西・南東・南西)と上・下を指すが、ここでは、あらゆる世界といった意味。)の諸仏がやって来て集まり、この人のために法をお説きになった。それぞれの仏は数知れないほどの菩薩や聖者を連れて来られて、この方丈の室内をたいそう美しく立派に飾り立てた座席を設けて、三万二千の仏がそれぞれ座席に着かれて法をお説きになった。数多くの聖者もそれぞれ従っており、また、浄名居士も同席されて法をお聞きになった。
それでもなお、室内は十分に余裕があった。これは、浄名居士の不思議な神通力によるものである。それゆえ、釈迦仏は、浄名居士の方丈の部屋を、「十方世界のあらゆる浄土に優る、甚深(ジンジン・奥深く優れていて人知の及ばないさま)不思議の浄土である」とお説きになられた。

また、この居士は、いつも病気で病床に臥しておられた。
すると、文殊菩薩が居士の部屋においでになって、「私が聞くところによると、居士は常に病床に臥していてお苦しみとのこと。いったい、どういう病なのでしょうか」と居士に尋ねると、居士は、「私の病は、すべての衆生たちが煩悩に苦しんでいるのを、わが病としているためです。私には、これ以外の病はありません」と答えた。
文殊菩薩はその答えを聞いて、歓喜してお帰りになった。

また、居士が八十歳余りとなり、歩行が困難になられたが、「仏(釈迦)が法をお説きになる所に参ろう」と思ってお出かけになった。その道のりは四十里(諸説あるが、現在の「里」よりは短い。)である。居士はようやく仏の御許に歩いて詣でて、仏に申し上げた。「私は老いてしまい、歩行も満足に出来なくなりましたが、法を聞くために四十里の道を歩いて参りました。その功徳はどれほどのものでしょうか」と。
仏は居士にお答えになった。「そなたは法を聞くためにやって来た。その功徳は無辺無量(計り知れないほど広大なさま)である。そなたが歩いてきた足跡の土を取って塵となして、その塵の数に相応して、一つの塵に対して一劫(コウ・時間の単位で果てしないほどの時間。)の間、その罪が消滅する。また、命の永きことはその塵と同じである。また、成仏することも疑いない。すなわち、この功徳は量り切れないほどのものである」とお説きになったので、居士は歓喜して帰って行った。
法を聞くために詣でる功徳はこのようなものである、
となむ語り伝へたると也。

     ☆   ☆   ☆


* 最後の部分が、「や」が「也」になっているが、特別な意味はなさそうである。

     ☆   ☆   ☆
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文殊菩薩の誕生 ・ 今昔物語 ( 3 - 2 )

2019-02-10 15:08:06 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          文殊菩薩の誕生・ 今昔物語 ( 3 - 2 )

今は昔、
文殊(モンジュ)は中天竺(チュウテンジク・古代インドの中枢部にあたる)の舎衛国の多羅聚落(タラジュラク・多羅村落といった意味。)の梵徳婆羅門(ボンドクバラモン)という人の子である。その母の右脇からお生れになった。
お生れになった時には、その家ならびに門は、すべて蓮華に満ち溢れた。お体の色は金色にして、天上の童子のようであった。七宝の天蓋で覆われていた。
庭の中には十種の吉祥(キチジョウ・めでたい現象)が現れた。その第一は、天降りて覆へり(意味不詳)。第二は、地中より財宝が湧き出た。第三は、金(コガネ)変じて粟と成る(なぜ吉祥か不詳)。第四は、庭に蓮華が現れた。第五は、光が家の中に満ち溢れた。第六は、鶏が鳳凰を生んだ。第七は、馬が麒麟を生んだ。(鳳凰も麒麟も霊獣として尊ばれた。)第八は、牛が「白ダ」を生んだ(「ダ」は火災の前兆となる凶獣なので、意味不詳)。第九は、猪が豚を生んだ(これもよく分からない)。第十は、牙のある象が現れた(これも意味するところが分からない)。このような瑞相によって、名を文殊と申された。(この部分も、吉祥あるいは瑞相が「文殊」という名前にどう繋がったのかよく分からない。)

やがて、釈迦仏の御弟子となって、全世界の諸仏の力、あらゆる如来の知恵ならびに神通力を修得された。

文殊は釈迦仏にとって九代の師であられる。(過去世において、釈迦の師であったという仏典があるらしいが、筆者未熟でうまく説明できない。)そうとはいえ、釈迦仏が世に出現され、世に二仏が並び立つことはないので、菩薩となって出現なされて、釈迦仏を補佐なさって、無数の衆生を仏道に導かれたのである。
釈迦仏は、末世の衆生の為に宿曜経(スクヨウキョウ)をお説きになって、文殊に後事を託された。文殊はそれをお聞きになって、釈迦入滅された百五十年後に、高山の頂において、その所の仙人のために釈迦仏の教えをお説きになった。
多くの内外典(仏教からの見方で、仏典を内典、それ以外を外典という。)を世に広め、末世の衆生に善悪の因果応報を教えたのは、この文殊菩薩のお力である、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 本話には、難解というより、意味不明な部分が多く見られる。おそらく、混入・誤伝・思い違いなどから来ていると推定されるが、それは、今昔物語に収録される時点ですでにその状態にあったらしい。

* 「九代の師」云々という部分であるが、過去世において、文殊が釈迦を導いたという経典があるようで、そのことから、「文殊を諸仏の師」とする経説がある。

     ☆   ☆   ☆
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神通第一の目連 ・ 今昔物語 ( 3 - 3 )

2019-02-10 15:07:14 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          神通第一の目連 ・ 今昔物語 ( 3 - 3 )

今は昔、
仏(釈迦)の御弟子目連尊者(モクレンソンジャ・尊者は仏弟子に対する尊称。)は、神通第一(神通力に最も長じていたという意味。)の御弟子である。
仏の大勢の弟子の比丘に、目連は、「我らの師である仏の御声は、どこでお聞きしても常に同じように、すぐお近くでお聞きしているように聞こえる。そこで私は、神通の力を用いて遥か遠くに行き、仏の時には高く時には低い御声を聞いてみようと思う」と言って、三千大千世界(後述)を飛び過ぎて、さらに西方の、無量無辺不可思議那由他恒河沙(後述)の国土を過ぎてお聞きしたところ、仏の御声は、まったく同じように、すぐお側でお聞きするようであった。

その時、目連は飛び疲れて落ちてしまった。そこは、仏の世界(光明王仏の国土)であった。その仏の弟子の比丘たちが、座って食事の接待を受けていたが、目連はその鉢のふちに飛んできて、しばらく休んでいたが、食事をしていた弟子たちは目連を見て、「この鉢のふちに沙門に似た虫がいますぞ。どういう虫が僧衣を着けて落ちてきたのだろう」と言って、集まっている比丘たちは嘲り笑った。

すると、その国の能化(ノウゲ・師として人を教化する者)の仏は、その様子を見て御弟子の比丘たちに申された。
「お前たちは、愚痴(グチ・仏教語で、愚かで正しい道理を理解できないこと。)なるが故に知らないのだ。この鉢のふちにいるのは虫ではない。ここから東方に向かって、無量無辺の仏の国を過ぎた先に一つの国がある。娑婆世界という。その国に、仏が出現なさった。釈迦牟尼仏(シャカムニブツ・釈迦の尊称)と申される。そこに居るのは、その仏の神通第一の弟子である。名前を目連という。師である釈迦如来の声を聞くに、遠くても近くても同じように聞こえるので、それを疑って、遥かに無量無辺の世界を過ぎてこの国にやって来たのである」とお説きになった。
御弟子たちはこれを聞いて皆歓喜した。目連も、これを聞いて歓喜して本土(娑婆世界を指す)に帰った。
そして、仏の御声の不思議なることを、ますます信仰申し上げ、頂礼(チョウライ・古代インドの最高の敬礼法。尊貴な相手の足もとにひれ伏して、額を地面に付けて礼拝すること。)し奉った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 「三千大千世界(サンゼンダイセンセカイ)」について。ここでは、単に「とてつもなく遠い距離」として受け取れば十分ですが、本来の意味が興味深いので述べておきます。
「古代インドの宇宙観に基づくもので、須弥山を中心に日・月・四大海・四大州・欲界の六天・色界の梵天を含めた広大な範囲を一単位世界とし、それを千集めたものを一小千世界、小千世界を千集めたものを一中千世界、一中千世界を千集めたものを一大千世界とし、それらを総称して、『三千大千世界』という」そうです。要は、想像も及ばない話といえます。

* 「無量無辺不可思議那由他恒河沙」について。これも上記と同様で、とてつもなく長い距離を示しています。
つまり、「無量」も「無辺」も「不可思議那由他」も「恒河沙」のいずれも無限大に近いものとされていて、それらを重ねて強調していることになります。
なお、「不可思議那由他」は、古代インドで無限大を表す那由他(ナユタ)に不可思議を加えて強調しているもので、「恒河沙(ゴウガシャ)」はガンジス川の砂のことで、やはり果てしない数を表しています。

* また、目連が虫のように見られた部分については、目連の身長は一丈三尺(4m程か?)とされているが、この国の仏(光明王仏)の身長は40里、弟子たちの身長は20里あったそうであるから、当時の一里がどの程度であったかはよく分からないが、目連が虫に見えたのも当然といえます。

     ☆   ☆   ☆

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舎利弗の肥満 ・ 今昔物語 ( 3 - 4 )

2019-02-10 15:06:22 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          舎利弗の肥満 ・ 今昔物語 ( 3 - 4 )

今は昔、
天竺の仏の御弟子たちが、あちらこちらで行っていた安吾(アンゴ・インドの雨期である春から夏にかけての約三か月間、僧が一ヶ所で集団生活を送り、外出を控えて修業に専念する行事。)が終わり、仏(釈迦)の御前にお集まりになった時、舎利弗(シャリホツ)と羅睺羅(ラゴラ)も御前に参って左右にお座りになった。
仏は羅睺羅にお尋ねになった。「わが弟子の中では、誰を以って上座(ジョウザ・教団での席次を意味する)とするのだろう」と。羅睺羅はお答えした。「舎利弗を以って上座と致します」と。

すると仏は、この二人をご覧になられたが、舎利弗は肥えていて色が白くて宿徳(シュクトク・修行の年功を積んだ高徳の僧。)であり、羅睺羅は痩せていて色が黒く骨が浮き出ている。
仏は二人を見て仰せられた。「どういうわけで、わが弟子の中で舎利弗は肥えているのか」と。
羅睺羅はお答えになった。「舎利弗は智恵が優れていて、国じゅうの貴きも賤しきもこの人を師としています。それで、美味で珍しい食べ物を持ってきます。それゆえに肥えているのです。しかし、羅睺羅はそうではありません。それゆえに痩せているのです」と。
仏は仰せになられた。「我が法(戒律)の中には蘇油(ソユ・チーズ状の食べ物らしい。大変美味とされた。)を食べることを許していない。どうして、舎利弗は肥えたのか」と。
舎利弗はこれを聞いて、心穏やかにはいられなくなり、身を隠した。

その後、国王・大臣・長者・諸官などが舎利弗の所に参って贈り物をしようとしたが、どうしても受け取ろうとしない。そこで、国王・大臣・長者・諸官たちが挙って仏の御許に参って申し上げた。「仏よ、願わくば舎利弗をお召しになって、『我らの招待を受けるように』とご指導してください。どうしてかと申しますと、大師(釈迦に対する尊称)は我らの招待はお受けになられません。その上、舎利弗まで我らの招待を受けないとなれば、我らは、誰をもって師として仏事を勤めればよいのでしょうか」と。

仏は、集まった人たちに仰せられた。「舎利弗は、前世において毒蛇であった。そのため、前世の習性が残っているので、今、私が言うことを聞いて反抗しているのだろう」と。そして、すぐに舎利弗を召して、「お前は、速やかに人々の招待を受けて、仏道のための師となるのだ」と仰せになられた。
そこで舎利弗は、仏の教えに従って、国じゅうの諸々の人の招きを受け入れて仏事を行うことを、以前のようになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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神通力を競う ・ 今昔物語 ( 3 - 5 )

2019-02-10 15:05:39 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          神通力を競う ・ 今昔物語 ( 3 - 5 )

今は昔、
仏(釈迦)が祇園精舎においでになられた時、多くの御弟子たちがお集まりになったが、舎利弗(シャリホツ)は未だおいでなっていなかった。
その時、仏は目連(モクレン)に仰せになられた。「目連よ、速やかに舎利弗の所に行って、連れてきなさい」と。
目連は仏の仰せに従って、舎利弗の所に行き仏の御言葉を告げたが、舎利弗は僧衣を繕っていた。帯を解いて地面に置いていた。

舎利弗は目連に言った。「お前は神通第一の人である。地面に置いてある私の帯を動かせてみよ」と。
そこで目連は、神通力を奮ってこの帯を動かそうとしたが、ほんの少しも動かない。須弥山は震え大地は振動したが、どうしてもこの帯は動かないままであった。
また、舎利弗は目連に言った。「お前は速やかに先に行きなさい。私は後から参るので」と。
そこで目連は、仏の御許に帰参したが、そこには舎利弗が威儀を正して仏の御前に伺候していたのである。目連は不思議なことだと思いながらも、特に問い質すことはなかった。
これによって目連は、「自分は神通第一と言われているが、舎利弗の方が勝っているのだ」ということを知った。
然れば、智恵第一といわれる舎利弗は、智恵・神通ともに第一の人なのである。

仏の御弟子たちも、このように競い合いをされたのである。まして。仏法が衰退した末世においては、僧などが智恵や験力を競い合うのは当然のことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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阿難のたくらみ ・ 今昔物語 ( 3 - 6 )

2019-02-10 15:04:52 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          阿難のたくらみ ・ 今昔物語 ( 3 - 6 )

今は昔、
天竺に仏(釈迦)の御弟子たちが大勢いらっしょったが、舎利弗(シャリホツ)は智恵第一の人であり、阿難(アナン・高弟の一人で、釈迦の従弟にあたる。)は有学(ウガク・無学に対する言葉であるが、なお学んで修行する段階にある人を指す。)の人で智恵はまだ浅い。そのため、舎利弗はいつも阿難を軽んじていた。

阿難は、「何とかして舎利弗に勝ちたい」と思って、風邪だと仮病をよそおって寝ていた。枕元には、粥を盛って置いていた。
舎利弗はこれを見舞うために阿難の所においでになったが、白衣(ビャクエ・俗人が着る白地の衣服)姿で法服(僧衣)を着用していなかった。
阿難は、その時まだ粥に手を付けていなかったので、舎利弗に差し上げた。舎利弗はその粥をお食べになった。
すると阿難は、莚(ムシロ・寝具用)の下より草を一本取り出して、舎利弗に渡して言った。「これを、速やかに大師(釈迦)の御許に持って行ってください」と。舎利弗はその草を受け取って、阿難の依頼通りに仏の御許に向かったが、その途中で自分の手足の爪を見ると、みな牛の爪になっていた。

そのため舎利弗は驚き怪しんで、仏の御許に急いで参上し、こうなったことをお尋ねになった。
仏は仰せになった。「お前の身体はすでに牛になっている。持ってきた草はお前の食べ物である。ただ、このようになった理由を私は知らない。速やかに阿難の所に返って、尋ねるがよい」と。
舎利弗は仏が仰せになることを聞いて驚き、阿難の所に走って行き、こうなったことを阿難に伝えた。阿難は、「あなたは思い知るべきである。袈裟を身に付けず、呪願(シュガン・祈りの呪文)を行うことなく布施を受ける比丘(ビク・僧)は、畜生となる報いを受けるものである。その上、罪を犯していることにさえ気付かず私の布施を受けたではないか。だから、その報いを受けたのである」と言った。
そこで舎利弗は、真心をこめて懺悔して、畜生となる報いを転じて人界への報いを受けたので、爪もなおってもとのようになった。

この事によって思うことは、「比丘は必ず袈裟を着て人の供養を受けるべきである」こと。また、「人の供養を受けた時には、必ず呪願すべきである」ということである。
されば、末代(末世)の比丘たちは、この事を聞いて、必ず袈裟を着て人の布施を受けるべし。また、当然呪願すべきである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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悪竜となる ・ 今昔物語 ( 3 - 7 )

2019-02-10 15:04:06 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          悪竜となる ・ 今昔物語 ( 3 - 7 )

今は昔、
天竺の大雪山(ダイセツセン・ヒマラヤ山脈)の頂に一つの池があった。その池に一頭の竜が住んでいた。
その頃、ひとりの羅漢の比丘(ラカンのビク・阿羅漢果{原始仏教による最高の修業階位}を修得した僧。)がいた。その羅漢の比丘は、この竜(水神であったらしい)の招きを受けて、供養を受けるために、縄床(ジョウショウ・縄製の折り畳み出来る椅子)にいながら、空を飛んで毎日竜の棲み処に行った。

ところで、この羅漢の弟子にひとりの小沙弥(ショウシャミ・見習いの小坊主)がいたが、師の羅漢がこのように竜の宮殿に行くのを見て師に頼んだ。「私も一緒に連れて行ってください」と。
師は、「お前はまだ悟りを得ていない者である。竜の所に行けば、必ず悪い事が起きる。だから連れて行くわけにはいかない」と言って連れて行かなかった。するとこの小沙弥は、師が竜の所に行く時に、密かに師がいつもいる縄床の下につかまって、隠れてついて行った。師は竜の所に着いたあとで、弟子の小沙弥がいるのを見て呆れてしまった。

竜は羅漢を供養するのにかぐわしい味わいの美食を準備した。弟子の小沙弥には普通の人間が食べている物を与えた。
小沙弥はその食事を食べ、「師が供養された物も同じ食べ物だろう」と思って食べたが、師が使った器を洗う時、その器に着いていた粒状の物を取って食べてみると、味がとてもすばらしく、全く自分が食べた物とは違っていた。そこで、小沙弥はたちまち悪心を起こして、師をたいそう恨んだ。さらに竜をも憎んで、「自分は悪竜となってこの竜の命を断って、この場所に住んで王と成ろう」思って、願を立ておえてから、師に従って本の所に帰った。

帰った後、考え直したうえでもなお悪心は変わらず、「悪竜と成ろう」と願ったところ、その夜のうちに死んでしまった。そして、願い通りに、即座に悪竜に生まれ変わった。そこで、その悪竜は本の竜の棲み処に行って、兼ねて考えていたように制圧して、その場所を棲み処とした。
師の羅漢は、この事を見て嘆き悲しみ、その国の大王カニシカ王(クシャーナ王朝の第三代王。中央アジアから北インドにまたがる広大な地域を支配した。当初仏教を弾圧したが、後に外護者となった。ガンダーラ美術の興隆期にもあたる。)の御許に行って事の次第を申し上げた。大王はそれを聞いて大変驚き、たちまちのうちに、その池を埋めてしまった。
その時、悪竜は大暴れし、砂や小石を雲のように振り撒き、暴風は樹木を吹き抜き、雲霧が降り覆って闇夜のようになった。
すると、大王は大いに怒り、二つの眉から膨大な量の煙や炎を吹き出した。さすがに悪竜も、怖れをなしてたちまち静まった。

このようにして、大王はこの池の跡に寺院を建てた。
しかし、悪竜はなお怨みの心が消えておらず、その寺院を焼いてしまった。大王は再び寺院を建てた。塔・卒塔婆(塔と卒塔婆は同意語)を建て、その中に仏の骨肉舎利一升を安置し奉った。すると、悪竜は婆羅門(古代インドの四姓制度の最上位の階層。)の姿になって大王の御許にやって来て、「我は悪心を止めて、これよりは以前のような恨みの心ではありません」と言った。そして、寺院において楗椎(ケンツイ・寺院で時刻を知らせるために叩く銅製や木製の打器。)を打つと、竜はその音を聞いて、「悪心は止めました」と言った。
しかしながら、ともすれば雲気(竜の怒りの念が黒雲となる、という表現)が常にその辺りに現れた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 

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御影を残す ・ 今昔物語 ( 3 - 8 )

2019-02-10 15:03:15 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          御影を残す ・ 今昔物語 ( 3 - 8 )

今は昔、
天竺に一人の牛飼人がいた。国王に乳酪(ニュウノカユ・乳の粥。蘇{チーズ状の食品}に至る前段階の乳製品。)を奉るのを任務にしていた。
ある時、乳酪が絶えた時があって、心ならずも乳酪を奉ることを欠かしてしまった。すると国王は、大いに怒り、侍者をその牛飼人のもとに行かせて、激しく責めた。この牛飼人は、あまりに激しい責めに堪え難く、大いに怨みの心を抱いて、金の銭で花を買って、卒塔婆(仏塔)にお供えして 誓いを立てた。「私は罪もないのに責めを受け堪えることが出来ません。私は悪竜となって、国を滅ぼし国王を殺害したい」と誓って、巌の高い所に昇って、身を投げて死んだ。

そして、願いの通りに悪竜となって、[ 欠字あり。寺院名が入るが不詳。]寺の南西に深い谷があり、けわしい断崖がある大変恐ろしい所である。その谷の東の崖に壁を塗ったような断崖絶壁があり、その巌に大きな洞穴がある。洞穴の入り口は狭く、中は真っ暗で、いつも湿っていて水が滴っていた。
この大竜は、その洞穴を棲み処にした。竜は、本来の悪願を遂げるために、「この国を滅ぼし、国王を殺害しよう」と思った。

この時、釈迦如来は、神通の力を以て遥か遠くよりこの竜の心をお知りになって、中天竺(天竺の中部地域といった意味か?)よりこの洞穴にやって来られた。
竜は、仏を見奉って毒の心(害意)がたちまち止んで、不殺生戒(殺生戒と同意)を受けて、「永く法を護ります」と誓った。
竜は仏に向かい奉って申し上げた。「仏よ、願わくば、常にこの洞穴にいてください。また、多くの御弟子の比丘にお勧めいただき、私の供養を受けさせてください」と。
仏は竜に告げた。「私は久しからずして涅槃(ネハン・入滅)に入ろうとしている。汝のために私の影像をこの洞穴に残しておく。また、五人の羅漢(ラカン・阿羅漢の略。ここでは悟りを得た僧といった意味か。)を遣わして、常に汝の供養を受けさせよう。汝は決して供養を怠ってはならない。もし汝が以前のような毒心が起こるような時があれば、私がここに留め置く影像を見るがよい。そうすれば、その毒心は自然におさまるだろう。また、これより後、この世に出現される仏も汝を哀れみなさるだろう」と約束されて、お帰りになった。

されば、その洞穴の仏の御影(ミエイ)は、今も失われることなく存在している。その竜の名をクバラ竜という。(クバラは牛飼いの意味らしい。)
唐の玄奘三蔵(ゲンジョウサンゾウ・三蔵法師)が天竺に渡って、この洞穴に行ってその影像を見奉ったと記している、
となむ語り伝へたるとや。

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