雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

三人の姉

2010-04-19 19:36:50 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


わたしには三人の姉がいたが、みんなにずいぶんと世話になった。


一番上の姉は、当時大阪南部に住んでいて、わたしが里を離れるときに連れて行ってもらった人。後に和歌山に住み着いたので「和歌山の姉さん」と呼ぶようになる。


二番目の姉は、終戦直前まで神戸に住んでいたが、戦後は主人の実家である里の近くに移った。この姉さんにも一方ならぬ世話になった。


三番目の姉は、大阪に住んでいた。つれあいの人は建築関係の人で、よく稼いだそうだが姉さんは苦労もさせられたようだ。
この姉さんには、戦後の苦しいときにずいぶん助けてもらったよ。


わたしは おとんぼだから、誰の力にもなれなかったなあ。あっちの姉さんに子供が生まれるとなると、そこへ手伝いに行き、子供が病気だといっては呼ばれていた。
まあ、子守りか女中みたいなことをさせられていたが、食べさせてもらっていたし、ちょっとした着るものを買ってもらったり、小遣いももらっていた。


みんな それぞれに可愛がってくれたが、誰もいなくなってしまったよ。

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最初の仕事は織工

2010-04-19 19:36:04 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


大阪に出たわたしは、その頃結婚したばかりの長姉の家にしばらく世話になり、その後 泉南にたくさんあった紡績工場の一つに就職し寄宿舎に入った。
勤め先は 家を離れるときから決まっていたもので、長姉も勤めていた会社だった。


里の辺りへは、小学校を卒業した子供を中心に 大阪や神戸から就職の勧誘があった。
もちろん 職業安定所なんかない時代のことだから、まあ 人買いに近いものだったかもしれんなあ。里の近くの子供でも、おいしい話に誘われて えらい目にあったという話が時々噂されていたよ。
泉南辺りの紡績工場へは、あの村からかなりの子供が行っており、その点安心だったのよ。


でも、何といっても まだ十四歳で、満年齢では十二歳なんだから、そりゃあ心細かったよ、ねぇ。

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寄宿舎生活

2010-04-19 19:35:22 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


一番上の姉に連れられて故郷を離れたわたしは、五日ほど姉の家で世話になったあと、勤めることになっていた紡績会社の寄宿舎に入った。
わたしは ここで四年ほど世話になった。


仕事は まあ 機械の番みたいなもんだったなあ。紡績会社だというので、ギッコンパっタンと機を織るのかと思っていたが、自動で織っていく機械がたくさんあって、それに糸を補充していくのが主な仕事だった。
仕事時間? そうねぇ、大体は朝の八時から夕方六時までだったのと違うかな。仕事の都合では夜の八時か九時になることもあったが、その時は 握り飯か団子が出るのよ。それが楽しみだった。


休み時間などなかったな。お昼ご飯はあるけれど、その間も機械は動いているから、交替で食事をしたり、トイレへ行ったりだった。
慣れてくるに従って、トイレの時間がだんだん長くなっていって、一人で何台もの機械を受け持っているので、注意はしているのだけれど時々糸が切れて滅茶苦茶になることがあった。すぐに機械を止めなければいけないのに、それ、長いトイレの途中で遅れてしまい、班長さんによく叱られたよ。


たまには お腹が痛かったからで通じていたが、班長さんも そうそうは 騙されませんわなあ。

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夕方は辛い

2010-04-19 14:49:14 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


紡績会社の寄宿舎に入って、最初のひと月くらいは夢中だった。
辛いとか苦しいとか考えている暇もなかったなあ。
それに、この会社へは姉が最近まで勤めていたので、わたしはあまりいじめられなかった。中には 意地悪な人もいて、新しく入ってきた子が泣かされることもよくあったよ。
まだ 数え年で十四や十五の子をいじめるなんてね。


ひと月ほど経って、少し慣れた頃が一番さみしかった。
夕飯が終わって、やっと自由な時間になると、途端に淋しくなってくるのよ。
寝床の中で里のことなど思い浮かべて泣くこともよくあったけれど、わたしは 夕日を見るときが一番悲しかった。
仕事の途中でトイレに立ったときなど、窓から 沈んでゆくお陽さんが見えるのよ、西の方にね・・・。ちょうど、里の方向なのよ。


そりゃあ、いま思えば、中学に入ったばかりの年なんだもの、無理もないとは思うけど、何もかも投げ出して、里へ逃げて帰ろうと思ったことが何度もあったよ。
里で それほど良い生活をしていたわけでもないはずだのに、あの懐かしさは 何だろうねぇ。

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お給料

2010-04-19 14:48:03 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


紡績工場の給料かい? 


よく覚えていないけれど、数え年十四の子供が働くのだから多いはずはないわねぇ。
食事や部屋代などは払わなかったし、毎月 あれは強制というわけではないんだろうが 貯金分を差し引かれて、月末に残りをもらっていた。


さあ、何に使っていたのかなあ、日用品や たまには駄菓子も買ったのは覚えているが、着物を作るほどは残らなかったなあ。
着物は、ほとんど姉さんたちに作ってもらったものだよ。


貯金かい、それは ほとんどを里の親に送ってくれるのよ、会社がね。みんなが そうしていたのと違うかな。
ほんの少しのお金だったが、親はありがたがって全く手をつけなかったみたいだよ。
わたしが所帯を持つときに、全額をお祝いとしてくれたんだもの・・・。

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白いご飯

2010-04-19 14:46:46 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


小学校を出ると、里の辺りでは町へ働きに行くことをしきりに勧める人がいた。
わたしもその人の話も聞いたが、姉さんが自分が勤めている会社を勧めてくれていたので、勤め先を決めるのはあまり迷わなかったよ。


村の子供たちに勤め先を勧める人は、人買いだなんて悪口を言う大人もいたが、それほど悪い人ではなかったと思うが、調子の良いことは言っていたなあ。


その一つに、寄宿舎の食事は毎日白い飯だ、というのがあった。
わたしの里でのご飯は麦飯で、それもほとんどが麦で 米は一割程しか入っていなかった。白い飯など 年に何度も食べられなかった。


寄宿舎生活の食事は、そんな里の食事より もっとひどかったなあ。
ただ、毎日白い飯というのは まんざら嘘ではなく、白い飯というには少し黄色がかっていたと思うが、全部が米のご飯だった。
だけど、米といっても 何とかいう外国からの米らしく、ほとんどが麦の 里のご飯の方がおいしかったなあ。


みんな 食事がまずいと文句を言っていたが、寄宿舎に入るということは そんな食事で生活することだと わたしは思っていたので、食事についてあまり不満はなかったなあ。

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おとんぼは泣き虫

2010-04-19 14:46:07 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


寄宿舎生活が それほど辛かったわけではないが、たまの休みの日に姉さんの家に遊びに行くと 無性に里が恋しくなってなあ。
里へ帰ると よく駄々をこねたらしい。


「ああ、帰りかったら帰りなはれ。やっぱり おとんぼは 辛抱ができん、と里のあねさんに笑われるわ」
と、長姉によく言われたことを覚えている。


姉さんたちや兄嫁さんなどに、これでも結構気を使って辛抱していたと思うんやが、やっぱり おとんぼは泣き虫なんかのう。

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優しい人

2010-04-19 14:43:49 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


数え年の十四歳で里を離れ、紡績工場の寄宿舎に入り、そこで四年ほど世話になった。
近くに長姉が所帯を持って住んでいたし、勤めている会社には長姉のことを知っている人もいたので、わたしは割合いじめられなかった。


それでもなあ、やっぱり辛かったことも多かったよ。
長姉の知り合いの人に親切にされると、その分 別の人にそのことで ちくちく悪さをされたりしたり、やっとの思いで買った とってもいい香りがする石鹸を盗られてしまったり・・・、ねぇ。布団にもぐり込んで泣いたことも 一度や二度ではなかったよ。


そんな時などに、いつも優しくしてくれる人がいたのよ。
わたしより三つほど年上の人で、わたしがいじめられたり、しょんぼりしていたりすると、必ず声をかけてくれたんだよ、ねぇ。
もう 名前も忘れてしまったけれど、あの人がいなかったら、あの寄宿舎に四年も居られなかった・・・。ほんとうに 優しい人だったなあ。

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出会い

2010-04-19 14:43:09 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


わたしが お父さん (夫のこと) と一緒になったのは、神戸にいた姉さんの所へ手伝いに行っていたとき、むかえにお父さんが住んでいたことからです。


寄宿舎で四年ほど生活したあと、大阪の姉さんに子供ができたことから手伝うように言われ、そちらに移った。
大阪の姉さんは 夫の仕事の手伝いもあり、まあ、子守りか女中の代わりみたいなものだったけれど、ちょうど寄宿舎の生活や紡績工場の仕事が嫌になっていたので、わたしにとって 良い話だった。


他の姉たちも、今のままでは習い事もできないのだから、大阪の姉さんの所で世話になる方がいいと言ってくれた。
大阪の姉さんの所で世話になりながら、しばらく勤めにも出た。薬品会社で、アンプルの中にゴミが入っていないか検査する仕事だったが、わたしは目が良かったらしく、仕事は優秀だったらしいよ。


でも、勤めは短い期間で、神戸に住んでいた姉さんが出産だということで、手伝いのためそちらへ移ったのよ。
そこで、お父さんとこのお祖父さんと姉さんが親しかったことから、わたしたちが所帯を持つことになったのだけれど、縁というものは不思議なものだと思う。


お父さんは、わたしより一つ歳が下だし、わたしは特別小さいのにお父さんは大きい人でしょ。話があったときは嫌だったけれど、姉さんが間違いない人だから決めなさいと強引にまとめてしまったのよ。
結局、お父さんが亡くなるまで、そう、六十年・・・、いえ、七十年だよね、何だかんだ言いながら一緒に生活したのだから、きっと、縁があったんだろうねぇ。

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不思議な子

2010-04-19 14:42:24 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


姉さんとこの あの男の子は不思議な子だった。


わたしの結婚の世話をしてくれた姉さんとは、結婚後も向かい合わせのような近い所に住んでいたが、その後わたしらは山の方へ引っ越しした。一時間ほどはかかる所だったねえ


その後も姉さんとことは、しょっちゅう行き来をしていたが、そこの男の子は不思議な子だった。小さい頃はそうでもなかったが、学校を出た頃からよく寝込むようになってねぇ。
その子がね、時々不思議なことを言うんだよ。田舎の小父さんが出てくるとか、和歌山の姉さんが寝込んでいるとか、ね。
そして、それがみんな当たっとるのよね。


私が出産間近なとき、その男の子が姉さんに、「山の家に男の子が生まれるからお祝いに行ってやれ」と言ったそうだ。
姉さんが、「あそこは女の子ばかりだけれど、今度は男の子かね」と冗談のように応えると、「そう、男の子だよ。人手がいるから早く行ってやれ」と強い口調で繰り返したとか。


姉さんは、生まれれば何か知らせてくるとは思いながらも、そう遠い所でもないからわたしとこへ向かったのよ。今なら電話で済むが、その頃は、朝早くから、とことこ歩いて、電車に乗って・・・。
そうしたら、姉さんがうちの家に着いたとき、ちょうど産湯を使っているところだった。
本当に男の子だったねぇ、姉さんは驚いていた。


あの男の子、その後まもなく亡くなってしまったんだ・・・、優しい子だったが、なあ。

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