雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

悲しみは薄れない

2010-04-19 10:18:52 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


長生きすれば恥多し、とか言うけれど、本当だねえ。
子供らにも迷惑掛けるし、自分ではしっかりしているつもりなのに、みんながいろいろ言うところをみると、頼りなくなってしまっているんだねぇ。


まあ、恥はともかく、長生きするのも考えものだよ。
楽しいことや嬉しいことがないわけではないが、そんなものは一時のことだよ。すぐ忘れてしまうわけではないが、いつまでも残るものは少ないなあ。


苦しいこともそうかもしれない。苦しかったときのことは、いつまでたっても忘れないけれど、苦しさは薄れて 懐かしさに変わる。
苦しい思い出は そう悪いものでもない。


ただ、悲しい思い出だけは そうはいかないなあ。
いつまでたっても悲しいし、時間とともに薄れていくようにも思うんだが、突然に 前よりもっと悲しくなって思いだされることがある。
長生きするということは、悲しい経験をたくさんしなければならないことだし、時間がたつほど増してくる悲しみもあるしねぇ。


長生きするのも考えものだというのは本当だと思うが、さて、自分でどうすることもできないし・・・。

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学童疎開

2010-04-19 10:18:01 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


学童疎開などといっても、今の若い人には分からないわなあ。


戦争中に、都会が敵の飛行機で爆撃されるようになり、安全のため子供を田舎に疎開させたのよ。小学校の高学年の子で、多分、学校単位だったのかなあ。


わたしのところでも、一番上の子がしばらく行った。初めて子供を手放すので、そりゃあ心配だった。さあ、二、三か月は行ってたのと違うかな。
その間に、必要な物などを学校を通して送ってくれるのよ。着替えや手拭などの他、当時としては貴重品だった羊羹とか煎餅や飴玉などもね。


でも、後で子供に聞いた話が本当だとすれば、果たしてどれだけのものが子供に届いていたのかなあ。
戦争に負けた後は苦しい生活が続いたけれど、終戦前でも、かなりひどいことになっていたという話を聞いたことがある。今でも、災害などの支援物資が、うまく配られないという話があるよね。大体は外国の話かもしれないけれど。

いつの世でも、泣きを見るのは弱い者なんだから、まあ、仕方がないけれどね・・・。

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うどんを打つ

2010-04-19 10:17:22 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


結局、わたしは一度も蕎麦を打ったことがないままできてしもたが、うどんは時々打った。


戦後の食べ物の無い頃、近くの山を借りて小さな畑を作っていたが、お父さんと二人で麦や芋などを作った。その小麦を石臼で挽いて粉にし、主に団子汁にしたが、時々はうどんを打った。


その時は、兄嫁さんが蕎麦を打っていた手順を思いだしながらしたけれど、あまり良い出来ではなかったみたいだった。
団子とあまり味が変わらなかったが、食べるものが無い時代だったから、子供たちは美味しいといってくれた。
本当は、美味しいとか不味いとかなど言う余裕がなかった時代だったものねぇ・・・。

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梨の思い出

2010-04-19 10:15:24 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


梨を見ると、いつもあの時のことを思いだすんだよ、ね。


二番目の子が、そう まだ小学校の三、四年の頃じゃなかったかな。
姉さんの所に用事があり、わたしが行けないものだから、あの子を行かせたのよ。電車に乗らなければいけないが、あの子が一人で乗るのは初めてだった。


姉さんの家へは無事に行けて、帰りには梨を二つだか三つだか持たせてくれたのよ。
その頃は、何もかもが配給で、梨なんて貴重品ですよ。それを姉さんは「みんなで分けて食べるのよ」と言って、おみやげにくれたわけ。


ところが、あの子は帰りの電車を間違えて急行に乗ってしまったんだねぇ。降りる駅の二つも三つも先の駅へ行ってしまって、心細いのに必死になって駅員さんにどうしたらいいか尋ねたらしい。
幸い親切な駅員さんで、次の電車で戻りなさいと教えてくれて、そのまま降りられるように切符に書いてくれたらしい。


やっとの思いで帰ってきたあの子は、真っ赤な顔をしていたがわたしの顔を見ると泣きだして、「この梨は、誰にもやらへん」と言うと押し入れに入ってしまって、泣きながら梨を食べ始め、いくら声をかけても出てこないの。
そのうち静かになったと思ったら、寝入ってしまっていた。


よっぽど心細かったんだろうと、かわいそうやら、おかしいやらで、本当に一人で梨を全部食べてしまっていたけれど、あの時だけは叱るわけにもいかなかったねぇ。


 

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裂かれた鯉のぼり

2010-04-19 10:14:26 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


うちの子供が、まだ小さい頃のことだが、押し入れに不思議な模様の風呂敷があった。
本当の風呂敷ではなく、使わない着物などを包んで押し入れに仕舞っておくのに使っていた布地なんだけれどね。


押し入れの戸を開けると、大きな目玉が睨んでいるように見えるのが怖かったと男の子がよく言っていた。
それもそのはず、その目玉のような模様は、鯉のぼりの目玉そのものだったんだからね。


わたしは たくさんの子供に恵まれたけれど、最初は女の子ばかりで、四人目で初めて男の子が生まれたの。その時、義兄がお祝いに大きな鯉のぼりをくれたんです。
まだ、物がそれほど不足していなかった頃で、それはそれは、真鯉と緋鯉が対の立派なものでした。


戦後になって、値打ちのある着物などは、みんな食べ物に変わってしまったけれど、いくら立派なものでも、鯉のぼりを引き取ってくれる人はいなかった。
結局、家で裂いてしまって、使えるところは、袋や一部は上着やモンペにもしたのと違うかな。でも、頭の部分はさすがに使い道がなく、大きな風呂敷にしていたんだね。
子供たちが怖がっていたのは、真鯉の目玉だったのだよ、ね。


子供が大きくなってから、あの目玉の包みを思いだしては、子供の大切な祝いの鯉のぼりを裂くときは辛かったんだろうなあ、と よく言ってくれていたよ。
そうねえ、もう それほどはっきり覚えているわけではないけれど、子供のものを手放すのは辛かったし、鯉のぼりを裂くのも、楽しいはずはないわねえ。


ただね、鯉のぼりを裂いたところで、たいして役に立つわけでもなく、むしろ、まさか自分が生きている間に、ふたたび鯉のぼりを飾るような時代が来るとは思いもしなかったんだよ、ね。

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えらい人や

2010-04-19 10:13:08 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


お父さん (夫のこと) は、早くに母親に死に別れた。十五、六の頃じゃないかな。
お祖父さんはお金に無頓着な人だったので、母親が持っていたお金などは全部お父さんが受け取ったらしい。かなりの額だったようだねぇ。


もともと一人息子だったから、お父さんは否定するけれど、散々甘やかされていたうえに、若くに大金を持ったものだから、さらに自分勝手なところはあった。
山に広い土地を買って移ったのも、わたしはほとんど相談なんかされていないもの。


そのお父さんが、戦争が終わった時には、子供は多いし まだ働ける年でもなかったから、そりゃあ苦労はした。それに、一生食べて行くには困らないと思っていた貯金や保険も、戦争で紙切れ同然になってしまった。
まあ、日本人の誰も彼もが苦労をしたといえば、それまでだけれどね。


好き勝手な生活ができていただけに、戦後の生活は お父さんも辛かったと思うけれど、あまり泣きごとを言わなかったねぇ。
お酒も煙草もぷっつりと止めてしまって、配給などで手に入ると、米や麦に交換してくれていた。着物類でも、わたしのものも無くなってしまったが、お父さんは亡くなった母親にたくさん作ってもらっていたけれど、みんな芋や麦に変わってしまったし、山の広い土地も家も全部食べてしまったけれど、そのことで愚痴など言わなかったょ。
つくづく、えらい人だと思う。


それでもねえ、定年後は結構入院したりして、わたしもよく世話をさせてもらったと思うんだけれど、あのことはもう忘れてしまったらしい。
亡くなって何年にもなるのに、未だにわたしを迎えに来ないところをみると、世話したことなんか忘れてしまってるのだろうねぇ、きっと。

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