添付のお写真は恩師「長尾弘」のご講演を法友がカメラに収めたものですが、
ご覧の様に幽体離脱(肉体離脱)から復帰されたようなお写真になっています。
恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第一章 或る愚か者の生涯
◆父母の後ろ姿から学んだ奉仕と布施の実践◆
先の続き・・・
山道は草を刈らないでいれば、ぼうぼうに生い茂ってきて
両側から道を覆ってしまいます。
そこを通る人は自分の畑に野良仕事に行く父の他にも
少なからずいることでしょう。
そのままでは通行が困難になります。
そこで、父は一人で草刈りをします。
足下の歩くところだけでいいのにと幼い私は思うのですが、
周囲から草がはびこり生え重なってくれば、
また歩きにくくなってしまいますから、
ある程度まで幅を持たせて、
広い範囲にわたって草を刈らなくてはなりません。
こんな余計なことまでしなければいけないのか、と私は思いつつも、
父から「こうせなあかんのやで」と教えられるままに嫌々ながら
手伝って草刈りをしたものでした。
よその人も通るのだから、よその人も手伝えばいいのに、と思うものですが、
そんなことはおかまいなしに父はひたすら奉仕の実践をしていました。
そんな心を私は小さい時より、両親からその姿を通して教えこまれていました。
両親ともだからといって、特に宗教団体に属していたというわけではなく、
私の兄が出征兵士として戦地に赴けば、
無事の帰還を願って神社やお寺にお参りするなどということがあった程度です。
母は富田林にあるお不動さんに月に一回お参りし、
父は高野山の弘法大師を信仰しておりました。
先祖代々の墓のある菩提寺は、融通大念仏といって河内と大和一円に門徒を抱え、
阿倍野に大本山を持つ融通念仏宗のお寺です。
今でもお盆の頃の風習を思いだします。
寺にご先祖をお迎えにまいり、家で三日間おまつりして、
その間は毎晩御詠歌をあげます。
そして、盆明けのみたま送りの時には、送り火を炊きます。
さんだらぼっちともいって米俵の両端に当てる丸いわらの蓋である桟俵の上に、
野菜や果物を供えて、薄い木札に長尾家先祖代々の文字を書いてみたま代とし、
蝋燭と線香を立てて、大念仏の門徒の用いる鉦をたたきながら、
家族そろって大和川までお送りします。
この融通念仏宗はもともと平安時代の永久五年(1117)に
良忍という方によって始められたものです。
華厳経・華経を第一とし、浄土三部経を第二のよりどころとするものだそうです。
一人往生すれば衆生往生するというのが宗旨です。
この融通というのは、「必要な物や金を都合する」という意味ですから、
融通念仏の意味も、もし自分が念仏を唱えればそれが他人のためにもなり、
他人が唱えればそれが自分のためにもなるというように互いに
融通し合うことができるところから来ているようです。
円融念仏とか大念仏とも呼びます。
父母や祖母の布施の実践、奉仕の実践、自分のものと他人のものとの区別なく、
とにかくみんなにとって少しでも役に立つことを率先してやるという心も、
このあたりと相通するものがあると思います。