浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2020-09-10 00:48:59 | 明来闇去

添付のお写真は大阪講演会で浄心庵へ伺った際、恩師より直接頂いたお釈迦様の
涅槃像のお顔の部分をカメラに収めたものですが、ご覧のようにお釈迦様の目が
半眼に開いております。
これは恩師が涅槃像にお祈りをしておられた時、閉じておられた目が半眼に開かれたそうです。
涅槃像ですから、目は閉じている状態で造られるものです。
目が開かれた奇跡はこれ以外にも恩師がタイかどこかで石仏に祈られた時も同様の奇跡が
起こっています。この時はこの旅で同行された数人の方々がご覧になられています。
その時のことがビデオにも録音され、話しが記録されています。


恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第一章、 或る愚か者の生涯

   ◆父母の後ろ姿から学んだ奉仕と布施の実践◆


先の続き・・・

収穫した葡萄からは、腐った粒や成長していないうらなりの粒を、
先の尖ったハサミで摘んで除き(「サビを取る」と言います)、
良質なものだけを箱に詰めて出荷します。
この選り分けの作業を庭先で行うのですが、
母は決まって玄関口の敷居のところに座って、
表を通るかかる人々に「ひとつ食べていっておくんなはれ」と、
いつも見も知らぬ人たちにさしあげておりました。
私の父が偉かったのは、
一年もかけてやっと育てた大切な作物をそのように通りすがりの
見も知らぬ人にあげてしまう母に対して、
いっさい何も言わなかったことです。

ふつうならば、「もういい加減にせい」とでも言いそうなものです。
私の母は自分のところに食べるものがなくても、人には施してしまう、
そういう人でした。
その後ろ姿を見て育ってきたために、私は人に施すものだと、
ごく自然に思ってきました。
親から受けた感化と言えます。
しかし、これは母からばかりではありません。
父の行いからも私は教えられるところが多々ありました。
父からは無償の奉仕の実践を学びました。
いつしか当然のごとく、
布施と奉仕の実践をするという心が親の代から子の代へと
受け継がれ養われてきました。

昔の道は今と違って舗装されていない土の道でした。
リヤカーや荷車が通れば、その轍ができ、雨が降ればぬかるみとなって、
轍はますます深く掘られ、そこの水が溜まります。
父は畑に行く途中でも、デコボコになっている箇所を見つければ、
必ず道直しをしておりました。
道とはみんなが使う公共のものです。
雨が降れば山道でも上から流れ下ってきた水が道を掘り返し、
通りにくくなります。
それを頼まれもしないのに、
なぜ自分の父親だけが一人汗を流して直しているんだろう。
私は子供ながらに不思議に思っていました。
しかし、
それは奉仕の心と実践とを身をもって教えられていました。