りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
ありふれた日常 4/8 UP
ありふれた日常 5/30 UP

指先の記憶‐42

2008-09-07 10:53:38 | 指先の記憶 第一章

「好美ちゃん?ねぇ、ちょっと。」
私の肩を掴んだカレンさんは、力を入れて、そして力を抜く。
正直、少し痛かった。
力が強いと思った。
カレンさんが本気になれば、私の体を突き飛ばす事も簡単だろうと思った。
でも、カレンさんは凄く遠慮気味に私の肩に手を置く。
「姫野。」
背後からの声に、振り向く必要などなく、それが誰なのか分かる。
「カレンさん。10分なんて、とっくに過ぎてるけど?」
「あー、っと、えぇっと、康太。分かってる、分かってるわよ。ねぇ、好美ちゃん、ちょっと落ち着きましょう?」
「嫌。」
「あのねぇ、好美ちゃん。さっきの話の続きが残っているのよ?ほら、康太も戻ってきたし。」
「さっきの話って、何?」
「須賀君、帰ったんじゃないの?」
嫌な沈黙が続く。
「ほらほら、2人とも。ちゃんと話し合わないと。康太、話って金銭的なことよ?好美ちゃんは康太にお願いしたいって。良かったわね。好美ちゃんが一番信頼しているのは康太よ。」
“一番信頼している”という事をカレンさんに言われてしまって、私は余計に振り向くのが嫌だった。
「お金の事?それだったら志望校を決める時に終わってるだろ?高校三年間に必要な金額とか、大学進学の場合とか。高校三年間の生活費は今よりも多く必要だろうから、そう考えて計算してるよ。別に、誰が管理するとか必要ないだろ?姫野は無駄遣いしないし。」
淡々とした口調が冷たく感じた。
「高校生になるんだから、姫野は自分で出来るよ。それに、しなくちゃいけないだろ?」
どうして、そんな事を言うの?
俺に任せれば良い、そう言ってくれると思ったのに。
「カレンさん。」
私はカレンさんの背中に更に腕を回す。
「姫野?」
「好美ちゃん?」
カレンさんが困っているのが分かる。
少しだけ、私が躊躇したのも事実だ。
カレンさんの香水の奥に、いつもは感じない、感じた事ない、男の人の香りを感じた。
でも、それは嫌な感じではなくて、なんとなく穏やかな気持ちにしてくれた。
それを求めてしまうのは、ダメだと感じながらも、私は身を委ねてしまう。
「姫野。」
須賀君が私の肩に触れようとしたのが分かって、私は更にカレンさんに身を寄せる。
「離れろ。カレンさんから。」
「…嫌。」
「姫野!」
「須賀君に関係ないもん。」
「だから!カレンさんは男なんだって。そんな格好をしていてもカレンは本名じゃないし」
「関係ないもん。カレンさんが、本当は男の人でも、そんな事、関係ない。」
私は下唇を噛んだ。
そうしないと涙が流れそうだった。
カレンさんがいなくなることで、須賀君に頼ろうとした自分を情けなく思った。
須賀君は、私と信頼関係を築くつもりなど、ないのだ。
胸の奥というか胃の辺りというか、どすんとした塊を感じた。
須賀君に見放された気がした。
「姫野。」
須賀君の手が私の手首に触れて、驚いた私は彼の手を振り払った。
「あのねぇ、2人とも。やめなさい。」
自分の体の周りで繰り広げられる私と須賀君のやり取りに、カレンさんが困っている。
「姫野。カレンさんに行って欲しくない気持ちは分かるけど、ちゃんと自立しないと。」
須賀君は、カレンさんがいなくなって平気なの?
寂しくないの?
私は、どうしてこんなに混乱しているのだろう?
どうして、突き放すの?
エアコンの掃除をするなと言ったのは須賀君なのに。
塾に行くなと、俺が教えるからと言ったのは須賀君なのに。
「ねぇ、好美ちゃん。」
溜息を出して、私はようやくカレンさんから離れた。
「時々、遊びに来てね。康太も…嫌でも来るのよ。」
須賀君には少し厳しい口調でカレンさんが言う。
「カレンさんに会うだけだったら行くけど。」
「まぁ…いいわ。最初は。じゃ…明日は朝からお願いね、康太。」
カレンさんは立ち上がると、部屋の隅に置いてある鞄から鍵を取り出した。
「はい。合鍵。不必要な物は捨てて良いわよ。」
「…俺が処分する、わけ?」
須賀君は、とても不機嫌そうに合鍵を受け取った。


指先の記憶‐41

2008-09-06 20:05:05 | 指先の記憶 第一章

「カレンさんは大丈夫?」
カレンさんの両手を包むと、少し複雑な気持ちになった。
骨格は、やはり男性。
細くて綺麗な指で綺麗な爪だけど、私の指に感じるのは、ゴツゴツとした硬い印象だった。
「なにが?」
「引越し…カレンさんが須賀君と離れて、大丈夫なのかな、と思って。」
「そうねぇ、気になるわね。でも、お互いに自分の道を進まないと。」
カレンさんの微笑みは寂しそうだった。
「私が原因だって須賀君は言ったけれど、須賀君の卒業だって関係してるよね?」
カレンさんは須賀君の事を想っているのに、カレンさんを引き止めたのが私だと言い切られた事が悔しかった。
「好美ちゃんが原因とか、そんな理由じゃないのよ。ただ、この家のお金の事、私がしている、でしょ?」
肝心な事を私は忘れていた。
「そうよね…ごめんなさい。」
おばあちゃんが亡くなった後の色々な事を、カレンさんが引き受けてくれていた。
「ねぇ、好美ちゃん。どうする?これから。前に康太が言ったように、好美ちゃんの白無垢になるように、お金を無駄遣いしないほうがいいとは思うけれど。高校生だと、今以上にお小遣いも必要になると思うの。」
「アルバイト、するよ?」
「でも、康太が許すかしら?」
「どうして須賀君の了承が必要なの?」
私の口調は少し厳しかったようで、カレンさんは少し驚いた顔をした。
「だって、好美ちゃん勉強大丈夫?」
その問いに答えることは難しい。
「康太に管理してもらう?」
「え?」
「康太は既に把握しているし、それは…2人の信頼関係の問題だけど。」
「信頼関係?」
須賀君に対して信頼を持っていると言うのは、おかしいような気がした。
大人であるカレンさんを信頼していて、金銭的な管理をお願いしているのは、不思議ではないかもしれない。
でも、それを私と同じ未成年である須賀君に頼むのは、なにか、おかしい。
「迷惑、かな?」
私が須賀君を頼るのは彼にとって、迷惑なのかな?
「変だと思ってる?須賀君に頼ろうとするのは、変?」
「変じゃないわ。」
カレンさんが微笑む。
「康太、喜ぶと思う。」
でも、カレンさんの微笑が崩れてきて、そして笑い出す。
「ちょっとぉ?カレンさん?笑わないで。」
とても、凄く、お子様だと思われている気がする。
「ごめんね。でも、ほんと…可愛くって。」
褒められているのだろうか?
「好美ちゃん。」
離れてしまうから。
遠くに行ってしまうから。
「カレンさん!」
両腕を広げてくれたカレンさんに飛びつくと、私の体を支えてくれたカレンさんの体が倒れる。
「えぇ?好美ちゃん?」
驚いたカレンさんの声と共に、私はカレンさんの腕に包まれていた。
体勢を崩したのに、私を支えたまま、無理な状態から体勢を戻したカレンさんは、もしかすると腹筋とか凄いのかもしれない。
やっぱり男の人だと感じながらも、私は離れたくなかった。
「驚いたわ。」
私の耳元にカレンさんの溜息が流れる。
背中をトントンと叩かれて、その指も、やはり少し硬いように思った。
私の頬を撫でていた杏依ちゃんの指とは、全く違う。
「カレンさん。」
行かないで欲しい。

ずっと傍にいて欲しい。
祖母の事を知っている人が、近くにいて欲しい。
仏壇に手を合わせて、綺麗な花を供えてくれて。
一緒に水羊羹を食べて欲しい。
祖母が入院した時も、亡くなった時も、色んな雑務はカレンさんがしてくれて、そして、私を支えてくれた人。
泣く事さえ出来なかった私の変わりに、祖母の亡骸に涙を落としてくれた人。
「カレンさん。」
その期間、カレンさんが自分の全てを犠牲にしていたのは事実で。
気付きたくなかった。
知りたくなかった。
何も知らずに、何も分からずに、そんな私の傍に、ずっといて欲しかった。
「好美ちゃん、ちょ、ちょっと」
私を引き離そうとするカレンさんに抵抗していると、玄関からガラガラと大きな音が聞こえた。


指先の記憶‐40

2008-09-04 11:28:23 | 指先の記憶 第一章

私は自分が文字を覚え始めた頃を思い出してみた。
父や祖母が褒めてくれて、間違えると丁寧に教えてくれて、そして祖父が凄く綺麗な字を書く人だった事を思い出す。
「康太は、とても転校が多かったの。康太から父親の事、聞いている?」
「うん…亡くなったって…。離婚したって…。」
カレンさんは手に取った湯飲みを、飲まずにテーブルに戻した。
「母親が住む場所を何度も変えたから、康太は日本全国を、北海道も沖縄も住んでいるわ。」
「へぇ…凄いね。」
カレンさんが笑う。
「そこで感心されるとは思わなかったわね。」
「ごめんなさい…須賀君は大変、だったよね?」
「そうね…。1年以上、同じ土地に住む事はなかったから。だから、康太は、家で勉強している方が多くて。新しい学校の勉強に合わせるのは大変で、自分でするのがベストだと思ったみたい。例えば康太の“太”を習う時に、前の学校では習っていないのに、でも次の学校では既に授業が終わっている、とか、そんな事ばかりでね。」
祖母の看病の為に学校を欠席した経験がある私は、授業内容が分からない、ということは何度も経験している。
だから、須賀君の気持ちが分かる気がした。
「だから、小学校に通った日数って少ないのよね。中学になってからよ。きちんと通学できるようになったのは。」
「…え?」
私とは状況が、違う?
「学校、行ってなかったの?」
「うーん…大袈裟に言うと、そうなるけれど。学校の勉強にはあまり期待していなかった、というか。転校の前後は、空白が出来ちゃうし。でも不思議な事に友達は多かったのよ。」
「へぇ…。ちょっと、意外。」
「そう?」
「うん。だって須賀君って、同級生の間でも、ちょっと一歩引いている感じ、だし。」
「まぁ、そりゃぁ…ねぇ…。」
「妙に落ち着いていたりして、オジサンで。」
「落ち着くわよ。あの子、小さい時から。そうだから。」
「小さい時、から?」
「そうよ。母親よりも、しっかりしてたわ。」 
ようやく、カレンさんが緑茶を飲んだ。
「母親の事は、聞いている?」
私は頷く事を戸惑った。
「いいわよ好美ちゃん、答えなくても。康太が母親に対して複雑な感情を持っているのは分かっているから。彼女が別れた夫を想っているのは、息子である康太は喜んで良い事よね?でも、母親の幸せを雅司君の幸せを考えると、康太の母親が新しい人生を歩む事が必要になる。それは、康太だって分かっているの。」
「あのね。カレンさん。やっぱり私が聞くのは…ダメだよ。だって、私、須賀君の小学生の時とか、そんな話、知らなかったから。」
「でも、私が話さないと。康太は話さない。自分の話をしない。父親と母親の事を話しても、自分の事は話さない。」
私は気持ちが混乱していた。
須賀君の事を知りたい気持ちはある。
でも、彼の家族の事を知る必要があるとは思えない。
「康太が母親から雅司君を引き離したかもしれないけれど、そうでもしないと、家族みんなの心が壊れそうだったのよ。それは、康太の両親も同じ。」
私はカレンさんの話す内容が分からなくなってくる。
「どうして、日本全国を移り住んだと思う?」
私は首を横に振った。
その理由を考える事など、拒否したかった。
「逃げたの。」
「え?」
「康太の母親は、息子を連れて逃げたの。康太を護る為に、愛する夫と離婚した。」
「どうして?」

「父親の親族が康太を引き取りたいと言い始めたからよ。」
カレンさんは少し不機嫌な口調だった。
緑茶を飲もうとして、湯飲みが空になっている事に気付いたカレンさんは、長い髪を面倒そうに束ねる。
「あ、あの。カレンさん。やっぱり…。須賀君は私がカレンさんと話すの、怒っていたし。私は、カレンさんが遠くに行っちゃうことが嫌、というか、悲しいというか。その話、だよね?」
「そうよ。私がいなくなるから、好美ちゃんに話しているの。康太は…自分で決められる年齢になってきている。状況が変わったの。康太が自分の意思で自分の為に決めるのなら、私は何も言わない。」
カレンさんが私の手を取った。
「好美ちゃんに康太の傍にいて欲しいの。正しい道を選べるように。」
カレンさんの瞳を見て、私は須賀君に対するカレンさんの深い愛情を感じた。


指先の記憶‐39

2008-09-03 22:00:14 | 指先の記憶 第一章

心配そうに私を見ていたカレンさんが、頬を緩めた。
「康太と喧嘩でも、したの?」
「あれって、喧嘩になるのかな?」
言い争いとか感情を投げつけるとか、そんな経験は少なくて、何が喧嘩なのか私には分からない。
「そうねぇ…あれは別に喧嘩とかじゃないと思うけれど。私が言っているのは今日の事じゃなく、最近の事。」
「最近?」
「最近、好美ちゃん、少し康太の事を嫌っている…という表現も違うけど。なんて言うのか、ほら、さっきみたいに、顔を背けたり。」
私は気まずくなって俯いた。
「もしかして意識しちゃうとか?康太の事?」
「え?」
驚いて顔を上げると、カレンさんは楽しそうに笑っていた。
「康太が男の子だって理解し始めた?」
「そんな事、前から分かってる…」
カレンさんが贈ってくれた腕時計。
須賀君と同じ腕時計。
それを触って、私は溜息を出した。
「好美ちゃん、好きな人は?」
「え?」

また、驚いてカレンさんを見る。
「好美ちゃんに好きな人ができたんだなぁ、と思った事があるけれど。その後、どうなの?」
「どうなのって…。」
カレンさんが一年以上前の事を話していると分かるが、私は答えに困った。
「…時々、会うの?」
カレンさんが少し遠慮気味に問う。
「一年ぐらい、会ってない、かも。」
“会う”という表現は違うと、自分で分かっていた。
私が彼の姿を探すだけで、向こうは何も気付いていない。
「一年も?」
驚くカレンさんの声に、私は頷いた。
「だって…1つ上の先輩だったの。去年卒業してからは学校では会わないし…。」
「そう…先輩だったの。今も…会いたい?」
私は首を傾げた。
「分からない、かな…。どうしているのかなって考える時はあるけれど、それって普通に小さい時の友達にも感じる事でしょ?」
高校に入学して、弘先輩の姿を見てしまったら、私は自分の気持ちがどんな風に動くのか、全く想像できない。
「カレンさんが遠くに行っちゃう方が…私は寂しいと思う。どうしているのかって考えるだけじゃ終わらないと思う。気になるし心配だし…私が心配するのは変だけど、でも…。」
「好美ちゃん。」
気持ちが昂っていく私の耳にカレンさんの落ち着いた声が届く。
「でも、それは恋じゃないわよね?」
「え?だって…。」
カレンさんに恋?
そんな突拍子もない状況に驚いて私はカレンさんを見た。
綺麗な女性に見えるけれど、本当は男性だという事を思い出す。
「あ、そっか…私がカレンさんを好きになっても変じゃないんだ…。」
妙に納得して頷く私を、カレンさんが笑う。
「変よ、変。何を言っているの?」
確かに、とても綺麗な人。
でも、絵里さんに対して綺麗だと思う事と、何かが違うけれど。
「でも、好美ちゃんが私の事を好きだと言ってくれるのなら、好美ちゃんの為に男に戻るのも、良いかもね。」
カレンさんは、とても軽い口調で、そう言った。
「どっちでも良いよ。私は。」
私はカレンさんの綺麗に手入れされている髪を掌に乗せた。
「カレンさんが男性の姿でも、綺麗なおねえさんでも、カレンさんはカレンさんだもの。」
少しカレンさんの表情が厳しくなって、そして盛大な溜息。
「まったく…あなた達は。似ているわね。」
「え?」
私の掌から、カレンさんの髪が落ちる。
私は誰に似ているのだろう?
結局、杏依ちゃんから聞く事は出来なかった。
「康太も…同じ事を言ったのよ。」
「須賀、君が?」
カレンさんが、急須に茶葉を入れる。
「好美ちゃん。これから私が話す事、忘れないで。あなたには知っておいて欲しい事だから。」
湯飲みの緑茶は綺麗な緑色。
ケーキの甘さを洗い流すように、緑茶が私の体に入ってくる。
「家族で暮らす事を誰よりも一番望んでいるのは、康太だと思う。」
カレンさんの綺麗な指が、湯飲みを包む。
綺麗に手入れされているネイルを見て、自分の爪を見て、私は少し恥ずかしくなった。
「ひらがな、カタカナ、漢字。」
カレンさんが湯飲みをテーブルの上に置く。
「康太に文字を教えたのは、私なの。」
懐かしそうに、カレンさんは目を細めた。


指先の記憶‐38

2008-09-02 01:22:57 | 指先の記憶 第一章

「私の…為、に?」
「違うのよ、好美ちゃん。ちょっと状況が悪かっただけ。きちんと従業員の教育を出来なかった私が」
「だから、引き止めるな。」
カレンさんの言葉を遮った須賀君の声は厳しかった。
「そろそろ…カレンさんが自分の仕事に集中しても」
「康太。好美ちゃんと2人だけで話をしたいの。」
今度は、カレンさんが須賀君の言葉を遮った。
「私が好美ちゃんに、きちんと話をしたいの。説明したいの。」
「何を?説明って?そんな必要ない。」
須賀君はカレンさんから視線を逸らさない。
そして、カレンさんも須賀君から視線を逸らさない。
「康太。」
再びカレンさんが名前を呼び、須賀君の肩から力が抜ける。
須賀君はカレンさんが贈ってくれた腕時計を手首につけた。
「5分。」
そして、私の腕時計を箱から取り出すと、私の手首につけてくれる。
「5分だけだから。カレンさん。」
「5分?少ないわ。」
カレンさんが抗議した。
どうして、私とカレンさんが会話をするのに、須賀君の許可が必要なの?
「康太。10分ぐらい、いいでしょ?」
どうして、カレンさんは須賀君に尋ねるの?
「10分も何の話をする訳?」
「だーかーらー…。私は好美ちゃんに、ちゃんと説明したいの。」
「だから、何を?」
「私の仕事の事とか、これからの事とか。」
「カレンさんは仕事で引越す。それだけ。姫野にカレンさんの仕事は関係ない。」
「須賀君も関係ないでしょ!」
突然の私の叫び声に、須賀君が驚いた視線を私に向けた。
「私がカレンさんと話をしたいの。その事に須賀君は関係ないでしょ?5分とか10分とか、どうして時間を決められなきゃいけないの?話したいだけ話しちゃ、ダメなの?須賀君は帰れば?」
「ちょ、ちょっと。好美ちゃん。」
カレンさんが私を落ち着かせようと、声を出す。
「姫野と話してもカレンさんは引越すし、その事について話し合う必要なんてないだろ?どうせ、行って欲しくないとか自分の感情だけで引き止めるんだよ。そんなのカレンさんには迷惑だ。」
私は何も言い返せない。
話を聞いても、どんな理由があっても、その事に関して納得したとしても、私はカレンさんに遠くに行って欲しくない。
その気持ちに変わりはないし、引き止めてしまう言葉を言ってしまうだろう。
「迷惑?大歓迎よ。」
動揺している私と違って、カレンさんの声は落ち着いていた。

「好美ちゃんに、どんな言葉を言われても、どんなに引き止められても、私の意志は変わらないから。引き止めて我が侭を言ってくれてもいいわよ。その望みには答えられないけれど、ね。結果的に今まで行かない事を決めたのは、私自身。私が好美ちゃんの傍にいたかったから。その好美ちゃんが私を引き止めてくれるのなら、大歓迎。」
「カレンさん…」
カレンさんが両腕を大きく広げてくれて、その胸に飛び込もうと思ったのに。

「ちょっと?康太!」
須賀君がカレンさんの両方の手首を掴んでいた。
「痛いでしょ?」
カレンさんが抗議しても、須賀君は動かない。
「康太。私は康太とは違う。成人した大人なの。自分で判断して自分で決めて、自分の責任で生きている大人なの。大人の都合で振り回されて犠牲になる子どもじゃないのよ。」
カレンさんの声は少し低くなっていた。
「康太だって、自分で決められるようになる。今は無理でも」
「どうして、“今”じゃないんだよ?俺の周りにいる大人達が正しいとは、思えない。」
須賀君の力が弱まり、カレンさんの両腕が自由になった。
ゆっくりと立ち上がった須賀君を、私は見上げた。
彼の指が動く。
指先が私の頬に触れそうになって、私は思わず顔を背けた。
「好美、ちゃん?」
カレンさんの声が戸惑っている。
「俺…帰るから。カレンさん、ありがとう腕時計。大切に使うよ。」
須賀君が和室から出て行くのが分かっても、私は顔を上げられなかった。
玄関のドアが開く音がして、そして閉まる。

「好美ちゃん。」
カレンさんに呼ばれて、私はゆっくりと顔を上げた。