日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

クルマの中で聞く音楽

2006-08-31 | 音楽
我が家の子どもたちは、ドラクエのサントラでの
教育(洗脳?)が効いたのか、オーケストラ好きです。
と言ってもウケがいいのと悪いのがありますが…

ウケがいいのは、「カッコいい系」。
ドラマティックだったり、物語性を感じさせるものですね。
ベタですが、
ドヴォルザーク「新世界より」とか、
リムスキー=コルサコフ「シェエラザード」とか。
そうそう、ホルストの「惑星」も好きです。
冥王星騒ぎで今「旬」ですしね
それに対して、ウケがイマイチなのは「印象派」「古典派」
あたりですね。オペラも人気がない…
友人が「リュートのための古風な舞曲とアリア」(レスピーギ)が
いいよ~♪と勧めてくれて、これがまたイイ曲!なのだけど、
果たして子どもはわかってくれるか…??

何にしても、私がこのところクラシックに回帰しつつあるもので、
ウチのクルマに乗ったら特に不満を表明しない限りは
私の好みのクラシックを聞かされることになるんですけどね(笑)

ところで…ダンナは私とは音楽の好みがゼンゼン違うんですよね。
日本のフォーク・ニューミュージックがメインです。
(であってるよね?>ダンナ)
でも、クルマの中では聴いたことがありません
理由は深くは追求しないように…

でも、思ったんだけど…
移動中に聞く音楽って、どんな種類の音楽でも違和感なく溶け込むような
気がするんだよね。
クラシックでも、フォークやニューミュージックでも、
はたまた演歌でも…(ま、聞きたいとは思わないけど^^;)
でも、聞いている音楽によって景色の雰囲気まで違って見えて
きそうなのが不思議だよね

何のための署名活動?

2006-08-29 | 今日の出来事。(社会編)

全日本民医連というところが「看護師を増やしてください」と国会に訴える署名活動をしているようですが…
思わず浮かんだ素朴な疑問。

看護師になるには国家試験に合格しなければならない。
そして試験の合格者を増やすためには、単純に考えて

a.試験を簡単にして合格者を増やす。(点数による選抜の場合)
b.試験はそのままに、合格者枠を広げる。(人数枠による選抜の場合)

の、いずれかの選択肢しかないはず。
(肝心の看護師試験がどんな選抜法を採っているのかは知らないのですが^^;スイマセン…m(_ _)m)

つまり、看護師の人数を増やす以上は、
ある程度の質の低下には甘んじなければならない、っていうことだよね?
そのへんの対策は何か考えているのでしょうか??
「数が増えればいい」ってものじゃないと思うんだけど…

それとも
「看護師がすぐに辞めないようにしてくれ」と言いたいのか?
で、国にどうしてほしいと?

もちろん、国にできることはいろいろあるでしょう。
法律で、病院に職場環境の更なる整備を義務付けたり
(その代わり病院の数が減ることは免れないでしょうね…)
その気になれば「看護師は最低5年は辞めるべからず」?!などと
定めることもできます。
(看護師の志願者数はますます減るでしょうね…その結果
ますます質の低下を招くことに…)

さあどうしましょう?

要するにどこをどう改革すべきだと
考えているのかがサッパリ見えないんですよね。
改革のやり方は国が考えろ、ですか?
その結果が悪ければまた文句を言いそうな気が…


この団体、トップページに医療とはおよそ関係のない政治的イデオロギーの強い主張を並べているところを見ると、「普通の」団体ではないと見てよさそうだな…

☆今日のギモン☆
具体的な提案を掲げていない署名運動に何の意味があるの?
たとえ主旨は賛同できるものでも、署名したところで大した成果は
期待できないのは明らかでしょう。


想像を絶する悲しみの前には…

2006-08-28 | 今日の出来事。(私事編)
福岡・車転落3人死亡 飲酒、追突の市職員逮捕  (産経新聞) - goo ニュース

私事を含め、他にも感想を書きたいニュースがいろいろあったこの週末だが、
やはりこのニュースには胸のつぶれる思いだった。
かわいい盛りの子どもを、理不尽な事故でいきなり3人とも奪われてしまう
なんて…両親の悲しみはいかばかりだろう。

ずっと若い頃…私はなぜかある日突然、
「人の痛みが自分のことのように感じられる、やさしい人になろう」
と決心した。
そして実際にそんな人を目指してきたつもりだった。
しかし、今は思う。私はなんと傲慢だったことか…と。

少し前にドラマ「ER」の中で、
ノア・ワイリー演ずるDr.ジョン・カーターが、死産した恋人に
付き添うシーンを見たときに、あらためてそれを身にしみて感じた。

もちろん死産した本人の悲しみは察するに余りある。
(流産でもあれほど悲しかったのだから筆舌に尽くしがたいだろう…)
しかし私を泣かせたのは、寄り添って涙を流し続けるカーター医師の
表情だった。

もちろんわが子を失ったことは、母親同様に悲しいと思う。
しかし、彼の表情は
「愛するものがこんなにも嘆き苦しんでいるときに、何もしてあげられない」
という苦しみを、痛いほどに伝えていた。

「人は、他人の悲しみを本当の意味で同じように感じたり、
減らしてあげたりすることはできない」
という厳然たる事実…
これに向き合うほうが死産の悲しみよりましだとも、誰にも言えないだろう…彼の悲しみもまた、誰とも分かち合えないものだから。

我が子三人を失った親の悲しみを、自分のことのように感じようとする
(そうできると思う)なんて、おこがましいにも程がある。
私には、その悲しみが文字通り「想像を絶する」ものであることに
愕然とするしかない。
安易に「他人の気持ちになって」なんて“他人事”なセリフは、誰にも
言えないだろう。


こんなときは愛だの思いやりだのでさえ無力に思える。
もしかしたら、こんなときこそ「宗教」の出番かもしれない。
彼らに笑顔が戻る日が一日も早く訪れることを、ただただ祈るだけだ。…

うれしい!!

2006-08-26 | 今日の出来事。(私事編)
昨日の小学校の懇親会で、思いがけない方とご一緒することができました!
それは「県議会議員Fさん」のエントリでご紹介した、藤本正人氏です!
「“藤本正人通信”、いつも楽しみに読ませていただいてます!」
から始まって、お互いのブログのことなど、楽しくお話させていただきました。

ちなみにHPは↓コチラ
ガッツフジモト・ドット・コム
…ここの「Tea Time」の中のコラム「寝つけぬ夜」にはジ~ンとしました。

そしてブログは↓コチラ
ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき
…おお!早速昨日のことを書いてくださっています!感激~

夏休みの宿題、追い込み中^^;

2006-08-24 | 今日の出来事。(私事編)
息子作「ゴールドサウルス(もちろん架空の恐竜)」
(左には娘の習字もちょこっと写ってます^^;)

「自由研究、工作にしたら?」と言ったら、「え~めんどくさいよ~…(`ε´)」とボヤいていたのだが、出来上がってみるとまんざらでもない様子だったのがおかしかった
(*^-^*) ヾ(^-^;)


先祖の話

2006-08-21 | 堅めの話
帰省先から無事帰宅。
今年は祖母と叔父の初盆だったこともあって、これまでにも増して印象深い里帰りとなった。

その理由の一つが、母から我が家のルーツの話をゆっくり聞けたことだ。
祖母の遺品の中に古い戸籍謄本を見つけたこともあって、それをもとにちょっとした家系図を作ってみたりした。といっても、曾祖母の父母の名前までが限界だったが…

少し前までの私は、「地球人」「国際人」(笑)を気取っており、自分の祖先の話になんて何の興味も起きなかった。自分が日本人であるという事実なんて、“足枷”以外の何者でもなかったから…

それと今回もう一つ、私がルーツをたどることに今一つ積極的になれなかった理由があったことに気づいた。
それは、祖母が「我が家が士族の出である」ということを、常日頃から誇らしげに語っていたことだ。
おかしな「国民皆平等思想」に染まっていた私は、「人間はみんな平等なんだから、そんなことを誇りに思うのはおかしい」と、逆にそれが恥であるかのように思っていた。
お城で過ごした夏の記憶だとか、やさしい女中さんの話だとかのたわいのない祖母や母の思い出話を含め、“祖先を誇りに思う”関係の話には、ことごとく耳をふさいでいた。

でも、それは間違っていた。自分の祖先を祭り上げる必要はもちろんないが、殊更に卑下する必要もなかったのだ。
確かに明治維新で「四民平等」にはなった。しかし私はおかしな“平等感覚”で、自分の両親や祖父母、曽祖父母の思い出まで捨て去ってしまうところだった。
先祖がどこの誰であろうと、誇りに思ってよかったのだ。
名もない町民・農民の子孫は祖先を誇りに思ってよいのに、武士の子孫にはそれが許されない、なんておかしな話はないだろう。

奇しくも小泉首相は8月15日、現職首相として21年ぶりに靖国に参拝した。
メディアは賛否両論かまびすしかったが(…というよりメディアだけが突出してかまびすしかったようだが^^;)小泉さんの行動は、最近の私の心境の変化ともマッチして、大いに拍手を送りたい気分だった。

偉人であろうと、犯罪者として裁かれようと、
今の自分があるのは「先祖」あってこそ。
そして、先祖を誇りに思うことは、自分の存在そのものを誇りに思うことともつながる。
一神教の名のもと、正義の押し付けに走るのと比べて、なんと平和的な思想だろうか…日本人は「先祖を敬う」という思想を、もっと誇りに思っていいと思う。

「場」の芸術

2006-08-13 | ヤワラカメの話
「音楽」も「美術」も同じ芸術活動なのだから、そこには通じるものがある…
と長年思っていた。
しかし最近では、「そんなものでもないようだ…」と思い始めている。

美術は「オリジナリティ」が勝負の世界だ。
「自分」をいかに表現するか、が全てだと言ってもいい。
制作活動の中では、他人とことさらに交わる必要もないだろう。もちろん「外」からインスピレーションを受けることはあるだろうが、その表現基準はどこまでいっても「自分=個」ではないだろうか。
「美術屋さん」にマイペース人間が多いような気がするのは、このためだろうか…

これに対して音楽は、他と「関わる」こと抜きでは成立しない。
(「音楽屋さん」に、否応なく人と関わろうとするタイプ=ワガママ?!が多いのもむべなるかな…^^;)
音楽は「個」では完結できないのだ。
音楽の醍醐味は、作曲家・演奏家・聴衆全てを巻き込む、二度とは出現しない空間に身を浸す…ここにこそあるという気がする。
それはもはや、「人」ではなく「場」に帰属する性格の芸術活動と言ってもいいかもしれない。

同じ芸術と言いながら、「美術屋さん」と「音楽屋さん」の間には、本質的に相容れない感覚の違いがあるような気がするのは、このためかもしれない…


「場の芸術」という意味では、音楽は美術よりはまだ「スポーツ」のほうに近いものがある
…と、「音楽屋」である私は思う。

たとえばサッカー。
「神がかり的な一刹那」とでも言うのだろうか、まるで後ろに目があるかのようなパス回しなどに見る、「自」と「他」との感覚が溶け合ったかのような瞬間は、息の合った演奏中に訪れるものと同じだと思う。
本当に誇張でなく「鳥肌が立つ」瞬間だ。

ところで「音楽」と「スポーツ」と言えば、ゼンゼン違う話になるが…
音楽をやる人なら、無味乾燥?な基礎練習(「ハノン」とか「テクニック」とか「バイエル」とか…)を続けることの大変さ、そしてその重要性をよく知っていることと思う。
これなどまさにスポーツにおける「基礎練」そのものではないか。
何度練習してもテクニックが向上せず、泣きながらピアノに向かったという人も、少なからずいるのではないかと思う。
これも、どちらかというとスポーツをやっている人と話が合いそうな経験談だ。
(…美術作品の製作中にそんな経験をしたという人は、あまりいないんじゃないかな…?と思う^^;)


※追記
「練習に練習を重ねたのに、本番で力を出し切れなかった…」
この理不尽なくやしさも、音楽とスポーツでは通じるものだよね…

戦場のピアニスト

2006-08-11 | ヤワラカメの話
以前に、私の映画の好みは、イコール「音楽の好み」だということを書いたが…
先日その法則が成り立たない映画を見た…いや、見てしまった。
その名は「戦場のピアニスト」。
一部からは評価も高い映画だが、私にとっては期待はずれもいいところだった。
その理由は…

1.まず、音楽の扱いが物足りない。
結局じっくり聞ける場面は、ドイツ将校を前に弾く有名な最後のシーンだけ。
あとは「これはドキュメンタリーか…?」と思うほど、ホロコーストのシーンが延々と続く。
余計な音楽も演出も一切ない。
「そこがいい」と評価する人も、もちろんいるのだろうが、私が見たかったのは「戦争記録映画」じゃなくてただの「映画」だったのに…

2.そのホロコーストのシーンも、ただ恐怖感を煽るためにやたらと殺しまくっていただけのような気がする。
そこには一人ひとりの「人生の重さ」なんて微塵もなく、
まるで人から冷静な判断力を奪うかのように「戦争ではこんなに理不尽に殺されるんですよ~こわいですね~」という、底の浅いメッセージの押し付けしか感じられない。

そうは言いながら、実は私も見ている間じゅうずっと
「自分や家族がこんな恐ろしい目に合うのだけはゴメンだ!!」と恐怖感に押しつぶされそうになっていた。
こんなときに誰かが「戦争反対!」と叫んだら(それがいつもは軽蔑している「平和原理主義者」でも)何も考えずついていくかもしれない。あるいは逆に、「敵を皆殺しにせよ!」と過激な活動に走るか…

まあ、ちょっとした戦争擬似体験にはなったかもしれない。どんなときでも冷静さを保つことの大切さ、難しさが少しわかった気がする。
(実はちょうど北朝鮮のミサイル騒ぎの直後だったので、見た時機も悪かったのだが…)


3.そして何より「主人公に感情移入できない」。
これが致命的だった。主人公の「生きたい」という意志に裏づけが感じられないのだ。
愛する人の存在もなく、家族を見捨てることになっても一人でも生き延びようとする芸術家っているのだろうか。音楽への執着も特に感じられなかったし…
(まあ実話に基づいてるものをいろいろ言ってもしょうがないんだけど。)

生への執着といえば、極端な比較だが
「ボーン・スプレマシー」の主人公の本能的・条件反射的な生への執着は、自分で自分の人生を何とかしようとする男の強さがあったが、「戦場のピアニスト」の主人公は、ただ助けを借りまくるだけで、どんな手を使っても自分だけでも逃げ延びようとしているだけなのだ。
「助けてくれた人の娘と恋に落ちる」なんていうドラマの一つでもあれば、まだ彼の「生きたい」という意志を応援したくもなるのだが…

結局のところ、彼の「生への執着」は、「人との絆の強さ」から来るものでもなければ、「一匹狼的強さ」でもないのだ。
では何から来ているものかというと…全くわからないとしか言いようがない。

“芸術家”するのに最適な季節

2006-08-08 | 今日の出来事。(私事編)
フォーレは娘(たぶん…)のために「ドリー組曲」を作り、
ドビュッシーもまた娘のために「子どもの領分」を作った。
これらの曲の比類ない美しさには、どこか共通するものがある。

思うのだけれど、
「幼い娘がいる」ときというのは、人が「芸術家」になれる
時期のひとつではないだろうか。

何を隠そう私も(たぶん、夫も…)息子が生まれる前…
まだ幼い娘一人だったときのころを思い出すと、何というか
(幸福感で)胸が締め付けられるような気持ちになるのだ。
時間がゆっくりと流れ、穏やかな微笑みに満ちた日々…
それは一方で、人の一生の儚さのようなものを感じさせもした。
フォーレの「ドリー」は、その頃のことを思い出させる。
この曲は「娘」がいてこそ出来た曲だと思う。

…しかし、その後息子が生まれたことで、平和な日々も
すぐにドトウの(怒号の、じゃないヨ…ちょっとそうだけど)
育児生活に変貌するのだが。^^;

男の子のかわいさっていうのも、また「泣ける」要素が
イッパイあるんだけど、女の子のかわいらしさにも
それとは種類の違う「泣ける」要素がある。

…あ~、なんだか今日の私ってセンチメンタルだわ…
(ガラじゃないって言われそうだな^^;)