日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

世界は一つ(のクラス)その3・「先生」?の存在

2006-05-31 | 堅めの話
実はこの「クラス」には、「先生」めいた存在がいます。
言わずと知れた「国連」です。
しかしこの「先生」がまた頼りにならない…
クラスの混乱を収めるどころか、各国の思惑にいいように利用されてしまっている感じです。

清廉潔白・公明正大だと信じられていた国連が、どうやらそうじゃないらしい…ということは、最近になってやっと人々(日本人)の知るところとなりつつありますね。一部にはまだ“国連至上主義者”もいますが…
国連の真実の姿を知るのには、ネットの力も大きく貢献したんじゃないでしょうか。
(と、エラソーに言っていますが、恥ずかしながら私もその一人です。
皮肉なことに、新聞から離れて以来どんどん見えなかったものが見え、
“自分の頭で”考えられるようになってきました。)


たとえば、国連人権委員会。
国連人権委員会を正義の使者と信じている方は、「国連人権委員会」でググってみるといいかもしれないです。(ここなんかおすすめ。)

「人々の人権を等しく守る崇高な組織」の姿をとりながら、そこにあるのは
人権弾圧国家同士の醜いかばい合い、そして
自国にとって「目の上のコブ」的な国への執拗な糾弾ばかり。
国連信望者には申し訳ないですが、実態は理想とかけ離れています。
「エコヒイキ」と「汚職」にまみれた先生、といったほうが、実態に近いです。

そして日本…しょっちゅう糾弾されていますね。
なぜでしょうか。本当に日本はそれほどどうしようもない国なのでしょうか。

違います。

これには、あるカラクリがあります。
下世話な言い方をすれば、クラスに「チクり魔」くんがいるっていうことですよ。
「せんせ~い、“日本”くんはこんなワルイことしてまーす」と自分のことは棚に上げて「先生」に得々と報告してくれるおかげで、日本の国際的地位はその努力に反して一向にあがりません。
「先生」からは、まるで問題児みたいに目をつけられています。

(余談ですが…こういう事実を知ってハラが立ちませんか?!
私はメチャクチャ頭にきました。)

日本が一生懸命「先生」の要請に応えようとしている一方で、そうやってうまく「先生」に取り入ることで、「ガキ大将」の位置を虎視眈々と狙っている輩もいるのです。
そろそろ日本も過剰な国連信奉をやめて、うまく立ち回ることを考えたほうがよさそうです。

…ま、アメリカみたいに「先生」をナメちゃってる?ってのも、それはそれで困るんですけどね。

世界は一つ(のクラス)その2・クラスの中にクラスがたくさん?!

2006-05-31 | 堅めの話
さてさて、「世界は一つのクラス」説ですが…
本当に「一つのクラス」のたとえ話ですむなら、話はまだ簡単なんです。
(それでも簡単とは言えませんが。)

今便宜的に「国」イコール「個人」に見立てて
「世界は一つのクラスのようなもの」と述べてきましたが、やっかいなのは、
それぞれの「国」自体がまた「クラス」のようなものだ、ということです。
つまり、表向き一つの国のように見えていながら、国内は一枚岩ではない、ということです。
というか、「一枚岩な国」なんてお目にかかったことはないんですが…
最近では移民の問題も加わって、それぞれの国の内情はますます入り組んだものになっています。

中立国スイスも例外ではないのです。
「中立国の戦い」を読んでいただければわかると思いますが、歴史的に複数の地域・民族の複雑な絡みがあって、とてもすぐには理解できるものではありません…(スイマセン、はっきり言って全部を理解しようとするのをあきらめました^^;)
スイスは、それ自体が相当複雑な「クラス」なのです。
実は、スイスが中立政策をとっているのは、様々な利害を調整する過程で、そうせざるを得なくなったということなんですよね。
「世界中みんななかよし」を実現したいからそうしているわけではないのです。

世界は一つ(のクラス)その1・個性的な国々

2006-05-30 | 堅めの話
「中立国の戦い」
…実はまだ読み終えていません。^^;
入試では世界史を選択したくせに、この本に書かれている歴史的背景を想像するには、悲しいかな知識が全然足りません。

でも、私なりにわかってきたことがあります。
それは
世界って、「一つのクラス」みたいなものなんだな、ってこと。


学校生活を経験した方だったら、クラス運営がそうそういつもうまくいくわけではないことを知っていると思います。

ガキ大将もいれば、その“腰ぎんちゃく”もいる。
仲良しグループもあれば、グループ間やグループ内での対立もある。
イジメっ子がいたり、いじめられっ子がいたり、
クラスでどんなことが起ころうが「わが道を行く」の子もいる…
一つのクラスの中には本当にいろいろなタイプの子がいて、またそれ以上にバラエティーに富んだ関係性が見られます。


ところで、「ガキ大将タイプ」の国と言って、真っ先に思い浮かべるのは、やはりアメリカです。
「われこそは正義」
「弱いものいじめをするヤツは徹底的にこらしめる」
「やられたらやりかえす」
…体力(国力・軍事力)といい、発言力の大きさといい、カンペキに「ガキ大将」の条件がそろっています。

ただ、この「ガキ大将」、ときにやりすぎることがあるのも事実。
「おまえはオレの仲間だよな? な?!」
「今アイツを弁護したな?!おまえはアイツの仲間だろう!」
「正義たるオレに仇なすものは、誰であろうと許さん!」
などと、ヘタをすると暴走する心配は無きにしも非ず…

日本の位置づけは、今のところは「腰ぎんちゃく」に近いものであることは否定できませんね…
しかしながら、ある程度力を持つ「ガキ大将」がいると、クラスにある種の秩序が保たれるというのも、また事実。
う~む、難しいものがあります…


…で、中立国の話に戻りますが
「中立国」を選択するというのは「我関せず」の道を選択するということなんだな~と思ったわけです。

誰(どの国)が誰(どの国)と争おうが、関係ない。
他の人に害を及ぼすこともないかわりに、利益になるようなこともしない。
理不尽なイジメがあろうが、見て見ぬふり。
「自分の分」さえ確保できれば、それでいい。
(「自分の分」だけは、何があっても死守する。)
…とまあ、こんな感じですか。(そういえばそういう子、いませんでした?)
現状の日本では、とうていとれそうもない戦法だという気がします…


(・・・予想外に長くなってしまいました。二つに分けます。)

教育基本法改正問題のフシギ

2006-05-25 | 今日の出来事。(私事編)
ネット上でもかまびすしい教育基本法改正問題。
いろいろな意見を見ているうちに、フシギなことに気がついた。

「護憲」を標榜している人は、まず例外なく「教育基本法改正反対」を唱えている。
ほとんどが「教育基本法“改悪”問題」などと銘打っているし、
“教育基本法を改正して、お国の為に戦争に行く人間を作ろうと言うのか?”云々、言っているリクツもほとんど同じ。
(そもそもこれってリクツにも何もなってないし…)

それに対し、改憲派のほうの意見は割れている。
改正すべき、改正してもよい、改正しなくてもよい、改正すべきでない…
賛成派、反対派、その理由も様々だ。
そして「共謀罪」や「少年法改正」をめぐる見解でも、これと同じ構図が見られる。

ところで、便宜上「護憲派」「改憲派」と書いたが、実はこれ自体も上記のような場合が多い。
護憲派が「とにかく護憲!何が何でも護憲!」といった調子なのに対し、改憲派のほうは「こういう条件が整えば護憲という選択肢もある」という人もいるように、憲法に対するスタンスも人によって様々だ。
(まあ中には偏屈な改憲派もいるけど…^^;でもめったにお目にかかることはない。)

さてさて、一体どちらが「考える力を奪われて」いるのでしょうね。

仲直り

2006-05-24 | 今日の出来事。(私事編)
夕食の準備をしていると、姉弟ゲンカが始まった。
ま、よくあることだけど…
でも今日は、ムシの居所の悪かった私は
「仲直りするまで晩ごはん作らないから!」
と宣言して、ダイニングのイスにどっかと座って様子を見ていた。

姉「・・・どうする?」
弟「どうするって?」
姉「このままじゃ晩ごはん作ってもらえないよ?」
弟「…うん・・・」
姉「だから仲直りしたほうがいいんじゃない?」
弟「・・・」
姉「仲直りしよって言ってんじゃん!聞いてんの?」
弟「なんでそんな言い方すんの?!」

・・・
一向に仲直りする気配はない。

彼らのやり取りを聞きながら、私は「そ~だよね…」と妙に納得していた。
「仲直り」って、しようと思ってできるモンじゃないんだよね。
そんなこと、兄弟ゲンカ・夫婦ゲンカと百戦錬磨の自分の経験から言っても、百も承知、だったはず。
なのに今ごろあらためて気づくなんて…^^;

「仲直り」って、しよう、させようとして出来るもんじゃない。
無理に仲直りしようとしても、「仲直り“してやる”」オーラがプンプンで、余計にこじれてしまうこともある。
反感を抱いている相手に「思いやりを持て」と言われても、すぐには無理な話だ。
(それができれば、とうの昔に地上から争いはなくなっているだろう…)

たぶん、仲直りに必要なのは、
“クールダウン”とそのための“時間”、
それだけなんじゃないだろうか。
こんなことを書きながら、何となく日本と特定アジアとの関係を思い浮かべたりしている。

・・・
そんなとりとめもないことを考えている間に、子どもたちはどうぶつの森のキャラクターの話で盛り上がって、いつの間にか一緒に笑い転げていた。
…ま、仲直りってそんなモンよね^^;

政略結婚

2006-05-23 | ヤワラカメの話
「政略結婚」というと、どんなイメージがあるだろうか。
普通は、
「本人の意思を無視しての、意に沿わぬ相手との不幸な結婚…」
みたいな暗い感じを思い浮かべるのではないだろうか。

「意に沿わぬ」というのではないけれど、「恋愛感情からのスタートではない」という意味では、お見合い結婚も同じだ。
「恋愛至上主義」のようなものが幅を利かせている今の世の中では、お見合い結婚は多少肩身が狭いのではないだろうか。

でも、本当にそうなのかな…?と思うんだよね。

大河ドラマ「功名が辻」では、「政略結婚は不幸せなもの」という固定されたイメージでは描かれていない。
むしろ逆だ。結婚する相手や結婚の経緯がどんなものであっても、連れ合いを思いやり、力を合わせて乱世を乗り切ろうとする姿は、恋に浮かれた現代の男女にはない絆の深さを感じさせる。

またおのろけっぽい話になってしまうが…
私は、結婚を半分「はずみ」で決めたようなものだった。(詳しい経緯は省略^^;)
最後の最後まで、どころか、結婚してからも「この人でよかったんだろうか…」と、往生際悪く思い悩んでいた。

しかし今振り返ってみると…
結婚後に二人で築いてきたモノの「かけがえのなさ」といったらどうだろう。
幸せな結婚というのは、「めぐり合ったり」「降ってきたり」するものではなくて、「二人で作り上げる」ものだったのだ。

もちろん私はここで、「見合い結婚賛成!恋愛結婚はダメ!」と言いたいわけではない。
ただ「政略結婚」だから不幸だったと決め付けるのは早計だろうと思う。
実際のところは、政略結婚の8割、いや9割は幸せな結婚生活だったのではないだろうか。
少なくとも、今の恋愛結婚全盛時代における「結婚幸せ率」に、決してひけはとらなかったのではないかと思う。

結婚相手に限らないことだが、いろいろなものを「選べる」からといって、必ずしも「幸せ」に結びつくとは限らない。むしろ、与えられた運命を懸命に生きることでしか得られない幸せもある…ということをつくづく思ったりしている。
結局「幸せ」というのは、どこまでいっても自分の見方しだい、なのだ。

最近

2006-05-17 | 今日の出来事。(私事編)
最近娘が本当によくお手伝いをしてくれる。
今日も、自分から食器洗いを申し出てくれたので、お言葉に甘えることにした。
娘の後ろ姿を見ながらつくづく思うのは…
私ももっとお手伝いすればよかった~(T-T)(後悔先に立たず…)


GW明けから

2006-05-16 | 今日の出来事。(私事編)
スンゴク忙しくて、更新できていませんでした…スミマセン!

連休は山中湖に行ってきました!最近土日もゆっくりできなかったので、久々に骨休め♪
お天気にも恵まれて、これ以上ないほど富士山を満喫してきました。
こんなに美しい山が日本一高いなんて…やっぱり感動!

帰ってきてからも、富士山が見えないのが何だか物足りなくて、思わず「トイレの掲示板」に富士山の絵を描いたりしていました^^;
(日本人が銭湯に富士山の絵を描きたがるワケが、ちょっとわかったような気がしました…)

帰りのクルマの中で。遊びつかれて寝こけてる子どもたち。↓

ただ一つの「正解」?

2006-05-10 | 堅めの話
めすねこさんのエントリ「医療の良心を守る市民の会」設立を読んで、自分の経験を思い出した。
(スミマセン、トラックバックという方法を知らないもので…^^;)

二度目の流産のときのこと。
かかりつけ医のいない実家での出血に動揺して、とりあえず唯一連絡先を知っている産婦人科(いとこがそこで出産した)に電話してみることにした。
「これこれこういう経過なんですが…受診したほうがいいでしょうか?」
「なんとも言えませんね~。」
「このまま安静にしていたほうがいいでしょうかね?」
「ですからなんとも言えないんです。」
こんな調子だった。
その後の対応にもどこか冷たいものを感じたこともあって、そのころの私は「なんでそんな応対しかできないの?!」と怒りと悲しみだけにとらわれていた。

でも、今になって思うのだ。
私は「ただ一つの正解」を求めてしまっていた。
「そういう場合にはこうしてください」という「“正解”の指示」が下ることを期待していたのだ。

妊娠初期に流産の兆候が現れたら、「まずは安静に」これは鉄則と言っていいだろう。
しかし、病院で適切な処置を受ければ流産を未然にくいとめられる場合もある、これも事実。

逆に言えば、リスクを押して病院へ行くことも、自宅で安静にしていることも、「これが正解」とは誰にも断言できない、ということだ。

もちろん、素人と医者は違うから、医者の指示に従えば多少「打率」は上がるだろう。しかし「絶対の正解はない」という事実には変わりはない。
「出血が何cc以上だったら来院」などというマニュアルがあるわけではないのだ。

もしも、医師の「来院してください」という指示に従って来院して、その結果流産したら…
「医者の不適切な指示のせいで流産してしまった!!」と一方的に医師を責める人がいないとも限らない。(それでなくても、子どもを亡くした悲しみは、冷静な判断力を奪うのに十分だ。)

何につけても「正解」を求めてしまう、これは現代病と呼んでよいような気がする。
産婦人科の医師が減っているのは、世の中の意識を映し出した結果なのかもしれない。