日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

震災の記憶

2011-12-31 | 堅めの話

大晦日の街はいつもと変わらず明るく、行きかう車や人もにぎわっている。
震災直後にはコンビニの看板も何もかも暗かったのに、慣れというのはこわいものだ。

震災の日、私と娘は近所の美容院にいた。
最初は同じベンチに座っていたおばさんが貧乏ゆすりをしているのかといぶかしく思っていたら、見る間に揺れは大きくなっていった。まだカラー途中の娘は不安そうだ。
店員さんはすぐに自動ドアを開放して様子を見ていた。吊り下がっている照明はひどく揺れていたが、棚のものはトリートメント?が一つ落ちただけだった。

それにしても長い…揺れの長さからおそらく震源が遠いこと、そして地震の規模が尋常ではないだろうことをなんとなく察した。
しかし、そのころまだ学校にいた息子よりも先に不安になったのは、なぜかハムスターだった^^;ケージが落ちてケガでもしていたらどうしよう…?揺れがおさまってから私はいったん家に様子を見に戻ったが、幸いなことに家の中は何一つ被害もなく、何も変わっていなかった。(ハムスターも変わりなかった。)

娘を迎えに行き、ほどなくして息子も帰ってきた。さすがに第一声は「こわかったよ~!!」だったが、担任の先生の冷静な対応の話を聞いて安心するとともに、あらためて感謝した。
都内で働く夫は、帰ってくるのに8時間を費やしたが、あの手この手でなんとか自宅にたどりついた。

その後テレビから流れてくる映像は、予想もしていなかった惨状だった…

津波とはこんなに恐ろしいものだったのか。
それは、ハリウッド映画のCGでよく見るような、透き通った波が高い壁のように迫ってくる、そんな光景とは程遠かった。
どす黒く盛り上がった海面は防波堤をやすやすと超え、木も車も建物も何もかも押し流し、飲み込んでゆく。
「波」というより、「海」そのものが恐ろしいものとなって襲ってくる、そんな感じだった。
逃げ惑う人々の叫び声、子どもの泣き声は今も忘れられない。知らぬ間に涙があふれ、掌で口を覆って呆然とテレビ画面に見入っている自分に気づいた。人はショックを受けると本当に口を覆うんだな…なんていうことをぼんやり思ったりした。
妹から「あまりテレビ見ないほうがいいよ」と言われてハッと気づいた。そういえば9.11同時多発テロのときもあやうく軽い鬱になるところだったのだ。

そして原発事故。とにかく恐ろしくてたまらなかった。
特に水道水から放射線が検出され始めてからは、悲観的な考えばかりが頭をよぎった。どこのスーパーでもミネラルウォーターは売り切れ…このまま水道水が汚染されたままだったらどうすればいいんだろう?
とにかく自分の家族のことを考えるのが精一杯だった。

食品の不足には困ることはなかったが、灯油が底をついたのにはあせった。ガソリンスタンドはどこも長蛇の列で、品薄状態が続いていたからだ。
私はダメもとで、PTA会長さんに情報を求めた。以前ガソリンスタンドを経営していた方なので、何か伝手がないかと思ったのだ。
残念ながらその日はガソリンが手に入る店はなかったが、その会長さん宅はたまたま灯油を買ったばかりとのことで、気前よく自宅用を分けてくれた。(もちろんお礼にビールを持っていった♪)
翌日、灯油を入荷した個人商店を教えてくれたので、早速買いに行った。
気のよさそうな店主は世間話をしながら普通に灯油を売ってくれた。ガソリンスタンドの殺気立った様とはまるで別世界のようだった。
非常事態のように見えても、地域社会は思った以上に落ち着いていて、堅実に日常は営まれていた。それは、ともすればパニックに陥りそうだった私に落ち着きを取り戻させてくれるのに十分だった。

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混乱の続く震災のさなか、出かけた二つのイベントは、忘れられないものになった。

一つは、私の所属する合唱団のピアニストさんの開いたサロンコンサート。いつもと同じようで何かが違う、そんな不思議な感じの都心のホテルのロビーで、ショパンやラヴェルの音楽を楽しんだ。コンサートの冒頭にはプログラムにないアダージョの演奏があり、深く心に沁みるものとなった。

もう一つは小学校の金管バンドの「6年生を送る会」。
指導者のお一人に、二十歳前後のとっても元気な女性(というか、女の子といってもいい感じ)がいるのだが、いつも通りに明るく元気で、周りに笑顔を振りまいていた。
「作ったものではない、本物の明るさ」というのは強いんだな・・・彼女の姿に救われる思いだった。

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震災の後、教会に何度か足を運んだ。そうせずにはいられなかったから。
両親ともクリスチャンなので教会にはなじみはあったのだが、ちゃんと礼拝に参加したのは結婚式以来かもしれない。
結局は神頼み・・・こんなことがあって初めて無力さを思い知るのだから、人間とはなんと愚かな存在かと思う。
それでも、穏やかな牧師さんのお話を聞き、讃美歌を歌っている間は、心が安らいだ。


日常がほぼ震災前に戻った今、こうやって書いていてもなんだか昔の話のようにも感じる。
気がつけば教会もご無沙汰になり、クリスマスにやっと顔を出した程度だ・・・

でも、いつもと変わらぬ年の瀬を迎える今、あらためて「忘れてはいけない」と強く思う。
いつもと変わらないはずのクリスマスや年末年始を、愛する人と一緒に迎えられない人のことを忘れずにいたい。


新聞の問題

2007-10-17 | 堅めの話
先日のヤワラカメの話から、あらためて新聞について考えてみた。

私にとっては、新聞には問題点が(「ゴミが増える」ということ以外にも^^;)たくさんある。
問題点を羅列してもいいのだが、あえて
「こんな新聞だったらとってもいい」
という「理想の新聞」を考えてみたい。(なぜか…?単にそっちのほうが前向きな気分になれるから。)
キーワードは「逆転の発想」だ。


○「訂正記事」のほうが扱いが大きい。
 記事にどんな間違いがあっても、目につかないような隅っこにほんの数行申し訳程度に訂正記事を載せるだけ…
「間違った内容の記事」のほうが「正しい内容」よりも扱いが大きいなんて、それは絶対おかしいと思う。また、どういう経緯でその間違いが起こったかの分析も、必要に応じて紙面を割いて明らかにしてほしい。

○「声」の欄(投稿欄)がない。
 新聞社の意向に沿った意見だけを、さもこれが一般大衆の声であるかのように掲載されるくらいなら、ないほうがまし。どちらにしてもどんな編集が行われているのかは、読者には見えない。どんなにおかしな理論構成の意見でも、突っ込みを入れることすらできない。
それなら新聞は事実の伝達のみにとどめ、意見の交換はネットなどの自社の制御の効かない場に任せるべき。

○一面トップの記事は「政治経済記事」や「大事故・事件」の記事に限らない。
 こういうところから「価値観の押しつけ」が始まっていると新聞社は認識すべき。一面トップを日替わりにして「社会」「国際」「経済」「教育」などをローテーションさせたらどうか?
もう一つ言えば、事件をワイドショー的に根掘り葉掘り報道する必要はない。猟奇的な殺人事件の詳細など知りたくもない。

○「負の側面」と「正の側面」双方が必ず載せてある。
 話題に上っているISAFにしても、あるいは憲法改正にしても、「リスクが全くない」ということがないのと同様に「メリットが全くない」はずはありえない。新聞にこそその視点を期待する。


…あと、個人的にあったらいいと思う・読みたい新聞は
○地域の瓦版
である。

このあたりでは毎週「ショッ○ー」というミニコミ誌みたいなの?が配られているのだが、それをお店情報に限らなくした感じのものがあれば、読みたいと思う。
どこに何の店ができるとか(あるいはなくなるとか)の情報ももちろん知りたいが、あわせてたとえば
「駅前の再開発計画について」とか、ここでひったくりが多発しているとか、祭りが行われるとかそれが盛況だったとか、地域の恩人の誰それさんが亡くなったとか、そういう情報が欲しい。

ある程度大きいコミュニティーでは、こういう情報を不確かで小規模な口コミだけに任せるのは、不十分かつ場合によっては危険ではないだろうか、とも思う。
実際、この情報社会にあってもおかしな都市伝説のたぐいはなくなる気配がない。

また、新聞で毎日全国規模・地球規模の問題意識ばかり育てていると、「地域人」としての意識が薄くなってしまうのではないかという懸念もある。
(これは自分を省みての私的見解なので杞憂に過ぎないかもしれないが…)

「困った」ではすまない問題

2007-10-10 | 堅めの話

「天漢日乗」というブログがある。

のだめ関連で検索していてヒットしたページの一つなのだが(うれしいことにブログ主さんものだめファンらしい♪)最近よくおじゃまするようになった。
時には少し過激だったりもするが、どれも考えさせられるエントリばかりだ。
ともすれば一面的な見方に陥りがちな私には非常にありがたい。

その中で、先日目にしたこのエントリは、自分自身考えさせられただけでなく、多くの人に知ってもらいたい問題だと思った。


医療をめぐるニュースには、とかく医療側の不手際や医療システムの不備にスポットを当てたものが多い。
たとえば、最近奈良で
「妊婦がたらい回しにされたあげく死産した」という事件があった。

見出しだけを読めば、確かに悲劇そのものである。しかし、その「裏」にある事実の数々を知ると、「患者がかわいそう、医療関係者はひどい」で片づく問題ではなくなる。


私が「天漢日乗」さんやそのリンク先で知った、いくつかの事実…

・この産婦さんは、妊娠中に健診を一度も受けていなかった。
 (出産のときだけ飛び込みで病院にかかる、こうした妊婦は増える傾向にあるらしい。それまでの経過が全くわからないので、出産は必然的に高リスク・高コストとなる。健診費用が高いからなどという理由だが、子供を生めばもっとお金がかかるのに…)

・前日から出血があったにも関わらず、ムリを押して深夜に買い物に出掛けていた。

・救急搬送される2,3日前には胎児は胎内ですでに死亡していたことが、搬送当日の警察発表から判明している。

また、「たらい回し」という扇情的な言葉が使われているが、実際は「受け入れが不可能なので断った」というのが実情だ。
医者もいない、ベッドも足りない。そういう状態でも病院は、感染症の有無さえわからない妊婦を引き受けなければならないのだろうか?

こういう事実を知ってからニュースに接すると、そこに意図的な悪意(医療現場に対する)を感じずにいられない。


知れば知るほど、日本の医療の先行きに不安が増す。
意識の低い患者。
医療現場の疲弊。
そしてマスコミの偏向報道。

悪者を作り出し、糾弾するのはいとも簡単だ。だが、めぐりめぐってそのコストを負担するのは私たち医療を受ける側なのだ。
マスコミ人とて医療にはお世話になるはずなのに…これではまるで自分で自分の首を真綿で絞めているようなものだということがわからないのだろうか。

国家というのは「戦争」でなくても崩壊するものだ、ということを、感情論で終わらせずに足元を見据えて考えるべきときだ。


子供の居場所

2007-08-12 | 堅めの話
私自身は福岡市の生まれ育ちなんですが、今私の実家は、祖父母の家のあった、ここ北九州市にあります。
帰省して思ったこと、それは…子供の少なさです。

実家のある場所はターミナル駅に程近いので住宅街という感じではなく、公園などがあまりないのですが、それにしても子供が少ないです。
たまに見かける子供は、たいてい塾帰りのグループだったり、制服を着た私学?の小中学生だったり…
(逆に年配の方はどこに行っても大勢見かけるのですが…)

両親の話では、
3校が統合されたにもかかわらず、ある中学校は一学年2クラスしかないとか…
所沢の娘の通う中学は、一学年7クラスで、まだまだ増えそうな勢いです。
そんな所沢にいては「少子化」を実感できないはずですね…

ところが!
昨日足を運んだ場所は、どちらも親子連れでにぎわっていたので驚きました。
「いったいどこにこんなに親子がいたんだ?!」という感じです。

一つは「いのちのたび博物館」。
(特別展の「翼竜展」目当てで、あまり期待もせずに行ったのですが、迫力満点で子供も大人も楽しめました。)

もう一箇所は、バス待ちの間時間をつぶした「ジャスコ」です。
所沢でショッピングセンター慣れしたウチの家族(イケマセンネ^^;)は、大勢の親子連れのいつものにぎわいに、なんだか妙にほっとしたのでした。

で、思わず考えてしまったこと…

少子化をくいとめるには、
人工的に作られた「子供の居場所」
が必要なのだろうか?ということです。


…実はこのエントリは、当初「斜陽の町」というタイトルで、
人口減少の一途をたどる北九州市の行く末を憂う…という感じだったのですが、
今日行った二箇所の賑わいぶりを目にして、問題意識のベクトルの向きが多少変わってしまいました。
なので、ここから先はまだ何も考えていません。^^;オチ(結論)がなくてすみません。

学校や公園など子供の居場所には事欠かない所沢が、少々恋しくなっているかも…
さぁ~て、明日の夜には我が家だ!

トラウマ

2007-06-18 | 堅めの話
私は傍目には能天気に見えるが、実は「子どもを預かる」という場面では、かなりの心配性だ。
そして、実はそれには理由らしきものがある。

(私の脳は、いやな思い出をどんどん忘れ去ろうとしてしまうので、今や記憶も霧がかかったように朧なのだが、なんとか掘り起こしてみる…)

大学の頃、私は人形劇サークルに所属していた。
そこでは毎年夏に、「巡業」と称して東北などの辺鄙な地域の小学校を回り、公演をしてまわっていた。

ある年の夏、ある小学校で、いつものように人形劇公演をした。
終わって子どもたちが帰っていったあとに、ある子の家から「兄が迎えに行ったのだが、そちらに行っていないか」という電話があった。
どこかで行き会っていると思うが、もしもすれ違ってこちらに来てしまったら、帰るように伝えますと言って電話を切った。
(ちなみに、この電話を受けたのは誰だったか記憶にない。自分だったのかどうかさえ…)

ところが…
夜遅くなっても帰らなかったその兄は、翌朝川で遺体となって発見されたのだ。
現場の様子から、足を滑らせて川に落ちたらしい、ということだった。

人の死に、間接的とはいえ関わったのは、生まれて初めてのことだった。
昨日人形劇を見に来ていた子どもたちの目の輝きに感動していただけに、なおさらこの悲劇が信じられず、受け入れられなかった。
私たちはどうしていいかわからず、撤収作業も何もせず長いこと押し黙ったままだった。

記憶は、ここまでしかない。どうやって帰ったのか、お葬式には出たのか、そのあたりも全く覚えていない。


楽しいイベントも、「絶対安全」ということはありえない。思わぬところに悲劇が待っている。
この事件は私の心に暗い深い闇を落し、以来子どもに関わること全てが恐ろしくなってしまった。


結婚して子どもが生まれた後も、正直なところその感覚から逃れることはできないでいた。変な話、子どもを誰かに(それが自分の母でも)預けている間は、何かあっていないだろうかと気が気でなかった。

そんな私がボーイスカウトのビーバー隊(一番年少の子どもたちの隊)のリーダーを引き受けるのに、どれほど勇気が要ったか、想像してみてほしい。
しかし、年月と、そして子どもとの楽しい経験の数々とともに、そのトラウマらしきものは克服されていったようだ。

もちろん、これからだって何が起こるか分からないし、また「何が起こるかわからない」からといって安全対策に抜かりがあってはいけない。
しかし、人生「絶対安全」が保証されるまで何もしないというわけにもいかない。
あの事件から、私はそういうことを学んだのだな、と今なら言える。

やめる

2007-06-11 | 堅めの話
ブログをやめるわけではありませんのでご心配なく^^;


実は、8年間やってきたボーイスカウトのリーダーとしての仕事に一区切りをつけました。

本当は、徐々に仕事を減らしていってフェードアウトする形で身を引きたかったのですが、どうもそれはできないらしい、と気づいたので(…「一区切りつけたい」と申し出たのは、実は半年以上前)不本意ながら昨日「宣言」という形をとりました。(「計画」というのは、実はそれです。後ろ向きな計画ですみません…)

本当のところ、やめるには最悪のタイミングです。
スカウトも増え、リーダーは足りない。それをわかっていてやめるのは心苦しくないはずはありません…
引継ぎは徐々に進めてきてはいましたが、どんなにやっても不安と罪悪感から逃れることはできず、「これでOK」という気分にはなれません。
しかし、「もう限界」なんですよね。


実は、ボーイスカウトはどこの団もリーダーが足りません。
リーダーの仕事は、いい社会人・いい親がやっていくには、負担が重過ぎるのではないかと感じています。
活動とその打ち合わせに加えて、研修、団会議、RT(地区リーダーの会議)、キャンプの下見…制服やワッペンにも細かい規定があります。
このままでは、「限界までやってみたけどもうムリ」タイプのやめ方をする人は後を絶たないのではないかと思います。

本当はそういう問題意識は上部?に持ってもらいたいものなのに、
実際には私がやめることで、「上部」とは関係のない友人に迷惑をかけてしまうだけ…
仕事から解放された解放感とは裏腹に、しばらく鬱々モードが続きそうです…

弱点

2007-05-07 | 堅めの話
私には弱点がある。
それは、「人の上に立てない」ということ。
平たく言うと、その器ではないということだ。

私の関わっている活動は、みんな雰囲気がいい。
自分で言うのもなんだが、私は多分に「ムードメーカー」的な役割を果たしているようだ。
「midさんがいると活動が楽しい」
「midさんの笑顔にはいつも助けられている」
ありがたいことにこういったお言葉をよく頂く。

しかし、リーダー的な役割となると話は別だ。
リーダーは組織のトップとして、組織全体を見渡し、ときには非情な決断も迫られる。みんなにいい顔をしていてはリーダーは務まらない。
雰囲気ばかりが良くてもしかたないのだ…

というわけで、リーダーになれないタイプの私は、いつも同じような窮地に陥ることが多い。
そのたびにいつも「これってデジャビュだ…」とちょっと落ち込むのだ。

まず、「人(特に後継者)を“育てる”のが下手。」
子供の指導と大人の指導には、求められる素養が違うのかもしれない。
というわけで、“良い友達”にはなれても、仕事の後継者を育てることは、うまくいったためしがない。

それから、「一人で仕事をかかえこんでしまう。」
人に仕事をふるのが苦手というのもあるが、「自分が今やっている仕事は把握しているが、それ以外となると…」という、(仕事の)俯瞰能力のなさのせいもあるかもしれない。
組織では、「自分の仕事がちゃんとできていればいい」ではすまない問題がたくさんある。私はそれを正視する気概にかけているのだ…

だからこそ。
私はリーダー的な役割を果たしてくれる人の貴重さ、ありがたさをいつも痛感している。
何はなくとも、リーダーに対する一定の敬意は、同じ組織に属する以上必須だと思う。

それは政治も同じ。
選挙の結果が自分の意にそぐわないからといって、あらさがしやこきおろしに終始するというのは、まったくもっていただけない、と私は思う。

選挙のこと…その他雑感

2007-04-29 | 堅めの話
もひとつおまけ、選挙の話です。
今回の選挙では、なぜかいつもより「投票って難しい…」と感じました。

私の中では立候補者は3つのグループに分かれています。
1.当選してほしい人
2.どっちでもいい人・よくわからない人
3.当選してほしくない人・論外な人

もちろん1.の人に投票するわけですが…
最近1.のグループが増えてきたので、いろいろと悩むことが増えてしまいました。

その理由の一つは、PTAやらボーイスカウトやらをやっているうちに、直接的に・あるいは間接的に候補者の人となりを知る機会が増えてきたことにあります。
それがみんないい人なんですよね…多少の方法論の違いはあるにせよ、どの人もこの町を愛し、本気でよくしようと考えているのが伝わってきます。

でも、投票できるのはたった一人です。
複数に投票できればいいのに…
あるいは「この人は当選してほしくない」という人に投票する制度にするとか…
(これもいろいろ弊害がありそうですが…)


また、当選者が一名である市長選などと違って、複数が当選する場合には、いろいろと「思惑」も交錯します。
この人は放っておいても支持基盤が固いから大丈夫だろう、それなら今回は新人のこの人に入れようか…?
イヤ、みんながそう思って入れなかったら大変だし…ウガ~!!
まさに「ゲーム理論」の世界です。

選挙は今のところ最も民主的な手法とされていますが、民意の正確な反映というのは、思った以上に難しそうです…

選挙運動「これはイイ♪」編

2007-04-29 | 堅めの話

今度は逆に、「おっこれはいいかも!」と思ったこと。

今回選挙前に配られた議会報や議員だよりの数は、県議選はともかく市議選では相当な数に上りました。
「ちゃんと読んで、ちゃんと考えて選ぼう」とは思っていても、何しろ物理的・精神的ゆとりにも限界があります。一生懸命作っているのはわかるのですが、最後のほうはほとんど読まずに右(ポスト)から左(ゴミ箱)状態でした。

そんな中で私の目を引いたのは、ある候補者のチラシです。

先日所沢丸井店が閉店しました。
「えー、あの丸井が…収益よくなかったのかな?」
「空き店舗どうするんだろう…あのへんがさびれたらやだなぁ」
そのくらいしか考えていなかった私ですが、その候補者はチラシの中で
「所沢市の税収がこれだけ減る」ということ、あるいは「それに変わる財源をどう確保するか?」という話をしていました。
「そうか!大型店が撤退すると、それだけ市の税収が打撃を受けるんだ…」
ここに気づかせてくれたこの候補者のチラシに、興味をひかれないはずはありません。
かくして彼は「気になる候補者・応援したい候補者」の一人になりました。

「政治というのは自分の生活と直結しているのだ」
ということがわかれば、政治への興味も増します。それが目に見える具体的事例であればなおのことです。
このあたりが政治家としてのウデの見せ所でもあるんだな、とあらためて感心しました。


選挙運動「これはちょっと…」編

2007-04-29 | 堅めの話

GW真っ只中に、こんな長いエントリを、しかも上下編で…^^;
お暇な方はお付き合いください。選挙についての感想イロイロです。

所沢では県議選、市議選と二つの選挙がありました。
選挙が近づくと広報などがオニのように増え、街頭演説もかまびすしくなります。
ちゃんと主張を聞いて、ちゃんと考えて選ぼう…わかってはいるのですが、これだけ多いとそれもなかなか難しいですよね。

そこで、投票に当っての私のチェックポイントをあげてみようと思います。まずは選挙公報や街頭演説で「これはちょっとなぁ…」と思ったことです。

1.漠然とした理想だけを語っている。
…たとえば、「いじめのない楽しい学校に」「子育てのしやすい環境づくり」などです。
「いじめのない楽しい学校に」
言うのは簡単です。しかしこれって実現するのでしょうか…
「子育てのしやすい環境」と一口に言いますが、方法は色々ですし、中には相反する方向性のものもありそうです。“理想”はわかりますが、具体的ににどうしたいと考えているのかが全くわかりません。

2.むやみに不安を煽る内容になっている。
…たとえば「このままでは環境が破壊される!」「貧困と格差の広がるこの社会で…」等々。
これが困った、あれはいけないばかりではなく、やっぱり前向きで元気のわいてくるビジョンがほしいですね。


あと細かいところで言えば、私的にあまり評価できないのは以下のような点です。

・必要以上に「プロフィール紹介」に力を入れている。
…なんでもいいんですが、とりあえず「趣味が同じだから、出身校が同じだから」という理由では投票しませんので。

・必要以上に「議員特権の廃止・削減」を訴えている。
…「政治家というのはラクしてオイシイ思いをしている」と信じこんでいる有権者にはウケがいいでしょうが、私としてはまずは「その待遇に見合った仕事をしているか」で評価したいです。

長くなってきたので分けることにしました。
次回は選挙運動「これはイイ♪」編です。