例の教育関係の掲示板に、こんな投書が載ったことがあった。
・・・
気分が悪くなった人に優しく声をかけてさすってあげたり、
そういうことがすぐに出来る思いやりのある人がいる。
一方、
そういう場面に遭遇すると、気持ちが悪くて
「触りたくない」と思ってしまう自分がいることに
気づいて、イヤになる。
子供には真にやさしい人になってほしい。
・・・
と、だいたいこのような内容だった。
失礼ながら私は、これを読んで失笑してしまった。
ボーイスカウトのサマーキャンプなどでも、
移動のバスに酔った子どもの世話や後始末を、他のリーダーと共に行うことがあるが、そんな人たちが嘔吐物などに「触りたいと思ってやっている」とでもいうのだろうか。
「真にやさしい人」というのがどういう人を指すのかは、私にも分からない。
人の汚物を「触りたくない」と思うようでは、「真にやさしい人」だとは言えない、という考えもあるのかもしれない。
(普通の人でその条件を満たす人が、果たしてどのくらいいるのかは知らないが…)
しかし、私が思う「やさしい人」というのは
「今やるべきことがわかっていて、それを躊躇せず実行する人」
これに尽きるのである。
話は変わるが、私がまだ“青かった”頃…
「究極の愛」とは…?やはり「この人のために自分の命を投げ出せる」ということだろうか…
などと、頭デッカチに愛を定義づけ・ランクづけしようとしていた。
時は過ぎ…
子どもがまだ小さかったある日。
長い間の離乳食作りのせいで、献立から柔らかい部分だけを取り分ける癖がなかなか抜けないことに気づいて(…実際もう離乳食が必要なくなってからも無意識のうちにやっていた^^;)苦笑しながら、ふと思ったのだ。
こういう「習慣」もまた「究極の愛」だったのだ、と。
私の中では「食事を取り分けるクセ」も「命をかけて子どもを守ること」も、何も違いはないことに気づいたのだ。
共通しているのは、そこには「迷いがない」ということである。
本当の「愛」とは?とか「やさしさ」とは?とか、こむずかしく条件付けすることになんの意味があるだろう。
大切なのは「迷いがない」ことのほうではないだろうか。
そのためにはおかしな理屈や理想は、かえって妨げになることのほうが多い気がするのだ。