とあるお気に入りブログで偶然知った記事なのだが、まずは、何も言わずに読んでみて欲しい。(ちょっと重いけど)
禁煙ファシズム発動(大事な人に押し付ける)
…どのような感想を抱かれただろうか?
実は、私もこれと似たような経験をしたことがある。
(といっても、身近な喫煙者の死にショックを受けたとかの話ではないが。)
車の運転時にはシートベルトが義務付けられているというのはご存知だろう。
若い頃の私は例によってイキがって、
「シートベルトしたからって事故率が下がるわけじゃないでしょ!
あんな窮屈なもの、事故が怖いヘタクソドライバーだけがすりゃいいじゃん!
事故ったときに困るのだって自分だけ!誰にも迷惑かけるわけじゃないんだから、
車に乗るときくらい好きなようにさせてよ!これこそ自己責任でしょ!」
…とまあこんな調子で、シートベルトを毛嫌いしていた。
検問で引っかかって減点されたときも、まるでそれが自慢できることであるかのように考えていたのも事実。
そうこうするうちに、結婚して子どもを授かった。
そんな私でも、さすがに子どもはチャイルドシートに座らせていた。
(ちょうどチャイルドシートが法制化され始めた時期でもあった。)
しかし私自身は相変わらずシートベルトはしていなかった。
ある日のこと。
いつものように後部座席に子どもを乗せてドライブしていた。
そのとき、何の前触れもなくある映像が浮かんだのだ。
(もしかしたら、そのとき実際に事故現場を見ていたかもしれない。)
…私の車が事故に巻き込まれている。
幸いチャイルドシートのおかげで、子どもにはケガはない。
しかし、シートベルトをしていなかった私は、運転席で動かなくなっている。
子どもたちは後部座席で「ママ~!」といつまでも泣き叫んでいる…
そんな映像だ。私は少なからぬショックを受けた。
シートベルトをするしないは、「自己責任」やら何やらの問題ではなかったのだ。
私は「シートベルトをしない権利もある」などという、勘違いした「自由」のおかげで、もう少しで愛する人々を悲しませてしまうところだった。
そしてそれ以来、子どもを乗せているいないにかかわらず、運転するときにはシートベルトをするようにしている。
で、話は先の「禁煙ファシズム」に戻るのだが、ここではこのように語られている。
喫煙を理由に他者の人権を圧迫するのはおかしい。
人の自由や権利を尊重することは大事である。
それを理解しているから、世の中に対してとか、大勢に対して
働きかけようとは思わない。
その上で彼はこう語るのだ。
「私の周りの大事な人たちには、嫌がられても(喫煙を)やめさせたいと
思うようになりました」
そうか、そういうことだったのだ!
私は「権利」という言葉の響きの良さにはばまれて、もう一足歩を進めることができずにいたのに気づいた。
シートベルトの話で言うと、
昔も今も私は助手席の人には特にシートベルトを勧めたことはない。
それこそ、「(シートベルトを)したくない人に無理に押し付けるのはよくない。
シートベルトをしない権利もあるのだから。」という考え方だ。
しかし、私は間違っていた。
覚えておいて欲しいのだが、これから先私の車に乗る人には
「シートベルトをしない権利」は、ない。(よほどの身体的理由があれば別だが)
逆に言うと、もし私から「シートベルト?しない権利もあると思うよ~」などと言われたら、「どうでもいい人」だと思われている、ということだ。
…というのは冗談にせよ、(私は「どうでもいい人」は愛車には乗せない)
特に大切な人に対しては時には「権利」と名のつくものでも制限させてもらおう、という決意を新たにしたのだ。
子どもを助手席に乗せるようになったとき、もしも子どもが「シートベルトしない権利」なんてものを持ち出しても、そんなもので説得されない自信がついた。
身勝手だといわれようがなんだろうが、私のためにそうしてもらう。
これは、権利なんぞの出る幕ではないのだ。
それにしても「権利」という言葉は、
「他人」(平たく言えば「どうでもいい人」)に対して使われる分には違和感はないし、ほとんど無条件に「広く認めるべきだ」と素直に思えるのだが、
「大切な人」に対してその概念をそのまま持ち込むことって出来るのだろうか。
全ての人に最大限の権利を認めるべき、という主張は、裏を返せば「何もかもどうでもいい」につながるような、冷たいもののようにも感じられてならない。
これから先、子どもは様々な「試練」を持ち込んでくるだろう。
しかし、「子どもの権利」などという甘い言葉の響きにだまされて道を誤るようなことだけはないようにしたいと、強く思った。
禁煙ファシズム発動(大事な人に押し付ける)
…どのような感想を抱かれただろうか?
実は、私もこれと似たような経験をしたことがある。
(といっても、身近な喫煙者の死にショックを受けたとかの話ではないが。)
車の運転時にはシートベルトが義務付けられているというのはご存知だろう。
若い頃の私は例によってイキがって、
「シートベルトしたからって事故率が下がるわけじゃないでしょ!
あんな窮屈なもの、事故が怖いヘタクソドライバーだけがすりゃいいじゃん!
事故ったときに困るのだって自分だけ!誰にも迷惑かけるわけじゃないんだから、
車に乗るときくらい好きなようにさせてよ!これこそ自己責任でしょ!」
…とまあこんな調子で、シートベルトを毛嫌いしていた。
検問で引っかかって減点されたときも、まるでそれが自慢できることであるかのように考えていたのも事実。
そうこうするうちに、結婚して子どもを授かった。
そんな私でも、さすがに子どもはチャイルドシートに座らせていた。
(ちょうどチャイルドシートが法制化され始めた時期でもあった。)
しかし私自身は相変わらずシートベルトはしていなかった。
ある日のこと。
いつものように後部座席に子どもを乗せてドライブしていた。
そのとき、何の前触れもなくある映像が浮かんだのだ。
(もしかしたら、そのとき実際に事故現場を見ていたかもしれない。)
…私の車が事故に巻き込まれている。
幸いチャイルドシートのおかげで、子どもにはケガはない。
しかし、シートベルトをしていなかった私は、運転席で動かなくなっている。
子どもたちは後部座席で「ママ~!」といつまでも泣き叫んでいる…
そんな映像だ。私は少なからぬショックを受けた。
シートベルトをするしないは、「自己責任」やら何やらの問題ではなかったのだ。
私は「シートベルトをしない権利もある」などという、勘違いした「自由」のおかげで、もう少しで愛する人々を悲しませてしまうところだった。
そしてそれ以来、子どもを乗せているいないにかかわらず、運転するときにはシートベルトをするようにしている。
で、話は先の「禁煙ファシズム」に戻るのだが、ここではこのように語られている。
喫煙を理由に他者の人権を圧迫するのはおかしい。
人の自由や権利を尊重することは大事である。
それを理解しているから、世の中に対してとか、大勢に対して
働きかけようとは思わない。
その上で彼はこう語るのだ。
「私の周りの大事な人たちには、嫌がられても(喫煙を)やめさせたいと
思うようになりました」
そうか、そういうことだったのだ!
私は「権利」という言葉の響きの良さにはばまれて、もう一足歩を進めることができずにいたのに気づいた。
シートベルトの話で言うと、
昔も今も私は助手席の人には特にシートベルトを勧めたことはない。
それこそ、「(シートベルトを)したくない人に無理に押し付けるのはよくない。
シートベルトをしない権利もあるのだから。」という考え方だ。
しかし、私は間違っていた。
覚えておいて欲しいのだが、これから先私の車に乗る人には
「シートベルトをしない権利」は、ない。(よほどの身体的理由があれば別だが)
逆に言うと、もし私から「シートベルト?しない権利もあると思うよ~」などと言われたら、「どうでもいい人」だと思われている、ということだ。
…というのは冗談にせよ、(私は「どうでもいい人」は愛車には乗せない)
特に大切な人に対しては時には「権利」と名のつくものでも制限させてもらおう、という決意を新たにしたのだ。
子どもを助手席に乗せるようになったとき、もしも子どもが「シートベルトしない権利」なんてものを持ち出しても、そんなもので説得されない自信がついた。
身勝手だといわれようがなんだろうが、私のためにそうしてもらう。
これは、権利なんぞの出る幕ではないのだ。
それにしても「権利」という言葉は、
「他人」(平たく言えば「どうでもいい人」)に対して使われる分には違和感はないし、ほとんど無条件に「広く認めるべきだ」と素直に思えるのだが、
「大切な人」に対してその概念をそのまま持ち込むことって出来るのだろうか。
全ての人に最大限の権利を認めるべき、という主張は、裏を返せば「何もかもどうでもいい」につながるような、冷たいもののようにも感じられてならない。
これから先、子どもは様々な「試練」を持ち込んでくるだろう。
しかし、「子どもの権利」などという甘い言葉の響きにだまされて道を誤るようなことだけはないようにしたいと、強く思った。