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日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

最近の実感

2014-06-26 | 教育
>・・・残念ながら、今日の学校教育が直面している危機は無数の行為の複合的効果である。
そして、たぶんそのほとんどの行為は「善意」に基づいて行われている。
日本の教育をダメにしてやろうと陰謀を画策している好都合な「張本人」はどこにもいない。
文教族も、文科省の官僚も、教育委員会も、自治体の首長も、現場の教師も、保護者も、メディアも、教育学者も、もちろん子どもたちも・・・全員が「日本の教育を良くしたい」と思ってさまざまなことを行ってきた、その集積が今日のこのありさまなのである。

・・・・・

単一の「有責者」を名指して、それを排除すれば話が終わると言うような知性の怠惰が許される場面ではない。
その簡単な話がなかなか通じない。
国家や自治体が管理し、教育行政が箸の上げ下ろしまで指示し、政治家がそれぞれの教育理念をかざして介入し、メディアが口やかましくコメントし、保護者や地域社会がそれぞれ注文をつけてきた結果、教育の現場は「こんなふう」になった。

今の教育はあまりに多くの人々の要求を受け容れたせいで、「誰の要求も満たしていないもの」になったのである。

教育に関係している人間の誰一人として教育の現状を「私の要求が実現した結果だ」と思っていない。
だから全員が教育の現状に対して腹を立てている。
でも、これは「みなさんの要求」が無文脈的・断片的に実現した結果なのである。
現状がご不満であることはよくわかる。
でも、だからといって、また「みなさん」がそれぞれの立場からこれまでの要求をさらにエスカレートさせても、それは混乱をより深める結果をしかもたらさない。
最終的には、全員が「オレ以外の全員を黙らせろ」ということになる。
「オレ以外のものの教育への干渉が教育を悪くしているのである。みんなひっこんで、オレひとりで仕切れば、教育はよくなる」とみなさんおっしゃっている。
なるほど。論理的には筋が通っている。
でも、それはできない相談である。・・・


ーーーどうやら私も、この現実と向き合うところから始めなければならないようだ。


教育について思うこと (内田樹の研究室)


学校で

2007-11-27 | 教育
いろんな経験をしておこう。


友達とケンカする。仲直りする。

先生に怒られる。時には理不尽なことで。

先生にほめられる。時には思いがけないことで。

遅刻して登校して、注目を浴びる。

具合が悪くなって早退する。親に迎えに来てもらう。

努力が形になる。

努力は必ずしも報われないことを知る。

無我夢中で何かをやる。

何となく無駄に思えるような時間を過ごす。


今日娘がそのうちの一つを経験したのだが、
どれ一つとして「無駄な経験」というのはないんだよな…と今になって思う。

構いすぎ

2007-08-18 | 教育
「教育」にカテゴリ分けしましたが、軽めの話です。

教育掲示板のほうでは、「夏休みの宿題」が話題になっています。
自由研究なのに「ナントカ工作キット」とか「実験セット」とかの既製品通りにやるのはおかしい、
とか、
「親が手伝ってカンペキなものを作るより、やる気のなさが見えても本人が仕上げるのがいい」
とか、
いろいろ意見があって面白いです。

私が(息子の自由研究がまだ手付かずなのを心配しながらも^^;)考えたことは、

今の時代、親が(子どもに)
ちょっと構いすぎなのかも…

ということです。

まあ、はっきり言うと、
「夏休みの宿題なんて、そんなたいそうなものじゃないのでは?」
ってとこでしょうか。

見ていられなくて親が手伝っても、
自分の力だけでやりとげても、
あるいは
やるのを忘れても、
ズルをしても、
経験を積んだことには変わりない。

要は
「夏休みに宿題が出た。
 そして、こういうリアクションをとった。
 そうしたら、こういう結果になった。」
という経験ができればいいのではないでしょうか。

たとえば、「アサガオの観察記録」という宿題で、
図鑑に載っている成長過程の図を、まるまる書き写すことを考えた子がいたとしましょう。

普通に考えれば、それは「いけないこと」です。
でも、実際問題
不自然でないように記録を捏造するのってそうとうタイヘンです。
提出したあとも、バレないかときっとヒヤヒヤするでしょう。

「手抜き法を考えつく」というのも一つの学びなら、
そういう経験を通じて
「ズルいことって案外割に合わないなぁ」
と感じるのも、立派に一つの“学び”なんですよね。

昔も今も、いろいろな子どもはいました。
昔と違うところがあるとしたら、それは
今の時代「親が子どものことを気にかけすぎている」
ということではないでしょうか。

「こういう行動をとった結果、こういう事態を受け入れざるを得なくなった」
こういうところくらい、親が思い通りにしようとしないで子ども自身に任せては…
ふとそんなふうに思ったのですよね。


…もちろん、(タテマエ上は)
親や先生がズルを推奨してしまってはいけませんけどね

「人」から学ぶ

2007-07-30 | 教育
教育に関して、思っていること・書きたいことがたくさんあったのですが…
のんびりしているうちによねさんが次々にいいことを書いてくださっていて、書くことがなくなってしまいました(笑)
いや、ホントにすごいです。禿同(=「激しく同意」2ちゃん用語です♪)の荒らし、じゃなかった嵐です。
最近のこのエントリなども、うなずきすぎてクビが痛くなりました。(ってのはウソですけど^^;)

そんな私なのですが、小学校教育に関しては、恥ずかしながらわが子が小学校でお世話になるまで気づかなかったことがたくさんあるのです。

小学校時代に身につけたいのは、「学力」だけではないのですよね。
小学校は、“それ以前”の「学び方を学ぶ」場所、でもあるのです。
(ぶっちゃけた話、後々の人生では「学び方を身につけているかどうか」のほうが「学力」そのものよりも重要な場合が多い気がします。)

「学び方」と言って真っ先に浮かぶのは…いろいろありますが、
(「ノートのとり方」「発言の仕方」などもそうですね)
その中で、今私がクローズアップしてみたいと思っているのは
「人から学ぶ」姿勢
これです。

なぜかって?それはですね…

「塾の先生より教え方がヘタ」
「先生なのにこんなところを間違えていた」
などなど、教師の資質を“品定め”することしかできない親子を見ることがあるからです。
きっと、このような親子にとっては、「わが子の『学力』を上げること」が“至上命題”なのではないでしょうか…

でも、「人から学ぶ」というのは、「人の品定めをすること」ではないはずです。

知識の詰め込みだけなら、パソコンか本に向き合わせたほうが間違いなく効率はいいでしょう。
なのに、なぜ人は「人から学ぶ」ことを学ばなければならないか。それは、
(「知識」そのものではなく)「知識の伝達の仕方」を、実体験として積み上げることが大切だから、ではないでしょうか。

また、学ぶには「謙虚さ」も必要です。
「自分が正しい」と思い込んでいて、「疑ってみる」ことを知らない人には、「学び」は望めません。
先生、つまり「師」を持つことは、そのためには大変役に立ちます。
パソコンから学ぶのでは「謙虚さ」は学べませんから。


また違う話になりますが…(でも少し関係あるかな?)
「わが子が小学校に入学するまで気づかなかったこと」もう一つは
小学校がいかに「地域の力」に支えられているか、
ということです。

いつも同じ場所に立っていて「行ってらっしゃい」と声をかけてくれるオバチャンがいるとか、
運動会開催前に、先生方が「うるさくてすみませんがよろしくお願いします」とご近所回りに行っているとか、
そういうことを知るたびに「子どもはみんなに育てられているんだ」という当たり前のことに感動してしまうのです。
こういう、「カリキュラムにない」教育の充実が望めるのが、公立小学校のよさではないでしょうか。

逆に言うと、
私立の小学校に進むのなら、地域のもたらす「教育」が受けられないというデメリットを理解し、それを意識して補っていく覚悟が必要だと私は思います。


実はですね…
近所にあるご家庭がありまして、そこの親は子どもを私立の小学校に通わせているのですが…
そこは、ご近所づきあいを極力避けているようなのですよね。(接点があるときはたいてい「苦情」です…)
そうすると、まるで「地域の付き合いを拒絶する」ために子どもを私立に入れているように見えてしまいます。近所に友人の一人もいないそこの家の子どもがかわいそうに思えてしかたありません…

あ、そんな話をしたかったのではないのでした^^;
本当のところはいろいろと言いたいことはあるのですが、こんなところでグチはいけませんね!
スミマセン

「毎日更新」が…

2007-06-10 | 教育
一日で途切れた…orz
土日ってダンナもいるし、イロイロやってると忘れちゃうんですよね…
なんて言い訳スイマセンm(_ _)m

さて、気を取り直して…
最近「バカをつくる学校」(ジョン・テイラー・ガット)という本を読みました。

こういうセンセーショナルなタイトルの本は、普段の私だったら嫌悪する類なんですが、例の教育掲示板で“学校否定派”の方が得意げに持ち出すので、対抗意識を燃やして反論の材料にと読んでみました。
(もちろんおカネなんか出しません!図書館です。)

予想通り、「こうやって著者の意図は捻じ曲げられるんだな…」のいい見本になりました。

著者が否定しているのはアメリカの大量消費社会であり、著者の主張によると「学校がそれを支えている」らしいんですが、
彼女(その“学校否定派”の方)は、結局「学校は刑務所と同じだ」とかの扇情的な言葉を取り出して、学校を悪者に仕立て上げたいだけなのです。
おまけに読みもせずそれに便乗・拡大解釈する人まで現れる始末…

あらためて、“学校否定派”の方々の「浅さ」がよくわかりました。そういう意味では「バカをつくる学校」は貴重な書でしたね。同意できるものは全くと言っていいほどありませんでしたが。

学びの世界は奥が深い…

2007-04-12 | 教育
今回のエントリ、アップしようかどうしようか迷ったんですが(なにせ娘の話なんで…)
「これからの期待を込めて」ということで許してもらおう^^;


実は、我が家の子どもたちは2人とも成績が良いです。
理由は…う~ん、なんでしょうね?
いつもダンナと「やっぱり親の頭がいいからだね~♪」なんぞと戯れ言を申しておりますが(ここは聞き流すトコロね^^;)本当のところは謎です。

一つ思い当たるのはベネッセの「チャレンジ」教材を幼少の頃からやってきたことですね。
これがよくできた教材なんですよ。ヘタに塾に通うよりずっといいと思います。
(もちろん、ちゃんと課題をやれば、の話ですが…)

イイコトその1・学習習慣を身につけるのにいい。
分量もほどよいし、スケジュールも組みやすい。また、課題を提出してポイントをためたら賞品がもらえたりするのです。
これならモチベーションも上がろうというもの♪さすがベネッセ、子ども心をうまくつかんでます。

イイコトその2・教材の取り上げ方がうまい。
教材には毎回知的好奇心を刺激する題材が盛り込まれています。オトナが読んでも面白い!(読書好きでない息子も、これだけは自分から欠かさず読んでいるくらいです。)


で、ここからが本題…つい先日のことです。
最近2階の自分の部屋で勉強することが多かった娘が、珍しく下でやっていたので、私は見るともなく見ていました。
「…ハイ終わり。」
…って、もう?!早っ!というか早すぎ!!
確かに答えはあっているのですが、念のためチョット突っ込んだ質問(と言ってもちょっと考えればわかること)をしてみると、驚くほどわかっていません。

(私)あのさぁ、いつもこれ(2ページ)だけやるのにどのぐらい時間かかる?
(娘)え?5分くらいだよ。

…もうちょっと時間をかけてやっていると思っていた私は唖然としました…
そして、時間をかけていないのがスゴイことだと思っているかのような娘にも、開いた口がふさがらず…

私自身がついに身につけることができなかった学習習慣を、わが子がちゃんと身につけていることに安心していた私は、あらためて思い知らされました。

「学習習慣」は、勉強の入り口でしかなかった…orz

わかっていたつもりだったのに、このところ「基礎学力重視」にこだわるあまり、知的好奇心とか探究心とかの重要性がちょっと置き去りになっていました。

「小学校のときみたいに、正解が早く出ればオッケー、ってわけじゃないんだからね!中学に入ったらそんな勉強じゃ通用しないよ!」などとオドシてはみたものの、当の本人は「は~い。あーめんどくさ~い。」…
親としての自信にヒビが…

帰宅したダンナにこの話をしたところ、
「そうだなぁ、でも学習習慣とか読み書きソロバンの基礎学力が大事だっていうことは確かなんだし。
あとは本人の気づきを待つしかないんじゃないかな。大丈夫、知的好奇心がナイってわけじゃないんだし。」

確かに、娘は自分の好きな歴史なんかだと、教科書レベルを超えていろいろ調べたり考えたりしています。
しかし、好きな科目でなければ、とたんに「やっつけ仕事」になってしまうのです。(この日やっていたのは理科でした。)私の目から見て十分「知的好奇心を刺激する」ように作られているように見えるチャレンジの教材でさえ…
人(子ども)に「(知的)好奇心を起こさせる」というのが、いかに難しいかがよくわかりました。

この一件で、私は覚悟を決めることにしました。

これからは、勉強もどんどん「親の手出し無用」の世界に入ってゆくのでしょう。
興味にまかせて、一科目にドンドン突っ込んでいくもよし、
興味のない科目であってもそこそこ点がとれる程度の「要領のよさ」を身につけるもよし。
娘の人生なんですから。

…でも、私としては、とりあえず
「面倒なことをさけて通っちゃダメだよ」とだけ言っておこうと思います。
(本音を言うと、まだ「どうすれば…」とオロオロしている自分もいますが^^;)

「公立校応援団」宣言!

2007-04-05 | 教育
宣言!
私は、「公立校応援団」です。
(「公立校」…ここでは主に、「選抜のない公立の小中学校」を指すと思ってください)

もちろん、私立校やその他の教育を選択することを否定するわけではありませんし、いろいろな教育を試し、選択する機会が確保されているのもよいことだと思っています。
しかし、ここでは公立校の魅力を存分に語ってみたいと思います。(他ではあまり語られませんからね。)

公立の魅力は、例えるなら「普通の街歩き」のそれではないかと思うのです。

街歩きのよさは、そこから何を学ぶか・何を受け取るかが、その人自身に委ねられているというところだと思うのです。

「何気なく角を曲がったら、菜の花が満開だった。」
街歩きには、こういう感動があります。

もちろんこれはただの比喩ですが、たとえば
満開の菜の花から、ある人は自然の不思議を感じ取り、自然科学の道に進むかもしれない。
またある人は命のはかなさを思い、文学の道を志すかもしれない。
その可能性は、まさに無限大です。


一方、選抜を潜り抜けた人の集う学校は、「テーマパーク」のようなものではないでしょうか。

…そう言うと、「エ~、じゃあそっちのほうがいいじゃない!!」と思う人もいるかもしれません。
でも、私はそうではないと思うのです。

なぜなら、テーマパークは
いい意味でも悪い意味でも「作られた空間」だからです。
確かに「一定レベル以上」になった分、ある程度以上の出会いと感動が得られるのは「保証つき」でしょう。しかしその分、思わぬ感動に遭遇することは望み薄です。
キレイに造形された花壇は、たとえば理想のガーデニングを学ぶのにはいいでしょうが、上記の「菜の花」のような個性豊かな感動を得ることができるかといえば、それは疑問です。


…というようなことを、今日打ち合わせで行った職員室で、窓の外の菜の花を見ながら思っていました。
菜の花が満開で、まぶしいほどに明るくて、本当に温かく感じるのです。
こういう温かい環境で子どもたちを育ててくれている小学校に、今更ながら感謝している私です。

名前を書こう!

2007-01-12 | 教育
「教育」にカテゴリ分けしましたが、軽めの話です♪

普通、「モノに執着する」という言い方は、あまりいい意味では使われませんよね。
確かに「唯物主義邁進」では困ってしまいますが、あまりにもモノに執着しないのもまた考え物です。
モノが豊富な現代ならではの問題なのですが…

たとえば、
筆箱の中のものが多少なくなったり壊れたりしても
「また買えばいいもん」とこともなげに言う子どもや、
学校やスポーツクラブなどで、いつまでたっても落し主が引き取りに来ない「忘れ物」の山を見ると、
モノに対する執着心が「なさすぎる」というのも考えものだなぁ…と思ってしまいます。
モノと上手に付き合うためには
「モノに対する健全な執着心=自分のモノに対する愛着」
が必要だという気がします。


そして、(ここからが本題なんですが)その第一歩として
「自分のものには、自分で記名する」
なんていう至極単純なことが、実は大事なんじゃないかな?と思うんですよね。

「名前を書く」
=「なくしても戻ってきやすい」という実利もさることながら、こういうちょっとした儀式めいた行為の中に
「これはどこにでもあるものじゃない、“自分のもの”なんだ!」
という意識を芽生えさせ、根付かせるものがある気がするのです。

というわけでウチでは、子どもが字を書けるようになったときから、「自分のものには自分で名前を書く」ようにしています。
別に無理やりそうさせているというわけではなくて、気がついたらそうなっていたのですが…これも「書く」のが好きな我が家の文化なのかもしれませんね。
(…あまりにも判読困難な場合には、親がコッソリ添え書きしていましたが^^;)


そして…
モノの管理がヘタな(私のような)大人の方にも、「記名」オススメです。
少なくとも、名前を書いたものはめったなことでは置き忘れなくなりますし、やっぱり名前を書くと愛着がわきます。
(「でもやっぱり恥ずかしい…」という方は、ローマ字で書きましょう♪アルファベットだとなぜかダサく見えないのがフシギ^^;)


…余談ですが、現実的な話をしますと…

実は、子どもを見る立場の者としてヒトコト言わせていただけるなら、
子どもたちの持ち物に名前があるかないかで、活動のやりやすさがゼンゼン違うのであります…^^;
持ち主不明の落し物があるたびに
「これ誰の~?」
「○○くんの?」
「違うよ~」…
などと、とっちらかった事態に陥ってしまうので…

(子どもの通っていた幼稚園の先生のお話を思い出しました…
幼稚園では、自分の名前がハッキリ書いてあっても
「これは、わたしのじゃないよ。」
とキッパリと否定されてしまうことがよくあるとか…^^;
ま、幼稚園児はこんなものといえばそうなのでしょうが、先生方のご苦労、お察しします…)

そんなワケで、
子どもをよそに預ける機会の多い方には特に、
「記名」
お心に留めておいていただければ幸いでございます

ご挨拶♪

2006-12-31 | 教育
暮れも押し迫ってまいりましたが(…って迫りすぎや~!^^;)
皆様いかがお過ごしでしょうか。
このところ忙しさにかまけて更新が滞ってしまって
申し訳ありません
紅白をチラ見しながらフィギュアスケート鑑賞の合間に
これを書いております。いやぁ美しい~…
音楽がオケの生演奏なのもいいですね!

今年は私にとってどんな年だったかというと…

これまでいろいろと悩み、考え続けていた教育問題が、
自分の中でまとまり始め、確固たる信念になりつつある、
そんな年でもあり、

これまでも親しんでいたつもりだった音楽と、あらためて
出会ったかのような、いわば私にとっての“音楽元年”
とも言える年にもなりました。

どちらにしても「まだまだこれから!!」の思いがますます
強くなっている今日このごろです。
これからも私の紆余曲折を、生温かく?!(←2ちゃん用語)
見守って下さいネ♪
いろいろ積み残している“宿題”もあるのですが、
「全てに答えを出さなくてもいい」がモットーの私らしく(?!)
来年へ持ち越しとさせていただきます。
ご期待ください♪(&スミマセン…^^;)

さて、明日元旦から5日ほど九州・四国方面に帰省しますので、
しばらく更新ができません。
と言っても、ケイタイから気まぐれに帰省ルポを入れるかも?!
(…あんまり面白くはなさそうですが^^;)
お楽しみに♪

それでは皆様、どうぞよいお年をお迎え下さい!

学びの楽しさ

2006-12-22 | 教育
「学校をもっと楽しいものにしてほしい。」
「勉強は楽しいものだということを教えてほしい。」
「そのためには、先生も授業を楽しんでほしい。」

「教育に望むもの」についての話をしていると、(主に親たちの間から)よく「楽しい」というキーワードにこだわった意見が出てくる。
確かに一面もっともだと思うのだが、
私は「楽しさ」というのは学習の一要素(それも原始的な)にすぎないと思っている。

学習を“食”にたとえるなら、楽しさというのは「美味しさ」に当たるものだと思う。

食の目的は当然ながら「栄養の摂取」だ。
しかしながら、「美味しさ」の要素が重要であることは間違いない。特に幼少期においては…
小さな子どもにとっては「なぜ食べるのか?」の理由は「美味しいから」で十分だろう。

しかし、「美味しさの追求」が本来の目的である栄養摂取を忘れさせてしまっては本末転倒だ。
ただ美味しいからという理由でお菓子だけを食べ続けたり、
嫌いだからという理由で野菜を食べないなどといった摂食行動では、体力はつかないし、ゆくゆくは体を壊してしまうことになる。

「学び」においても同じことだ。
「楽しいからやりたい(やる)」
「楽しくないからやりたくない(やらない)」
幼少期を過ぎてもこういう基準から離れることができないでいるならば、本当の意味で“知の体力”を育てることはできないだろう。

もちろん、嫌いなものを無理やり口に押し込むだけのような教育は有害だが、
「嫌いなものはやらなくていい」式の教育も同じくらい有害だということには、残念ながら気づくのが難しい。
「楽しさ」や「美味しさ」は、下手をすれば目先の快楽の追求に終わってしまいがちだということは、子どもを育てる上では常に気をつけておきたいことだと思う。