松平記p78
翻刻
のごとく召つかハる。此者共手を合て悦ひける。
一 三河上の郷の城主鵜殿藤太郎ハ駿河方、同国竹の谷の松
平備後守ハ、一腹他姓の兄弟也。備後守ハ弟なれ共、家康方
にて、上の郷へ押寄せ、数々合戦、せり合御座候時、備後守数々
うち負引退く。藤太郎追かけ寄来り、已に難儀に及ぶ。此由
家康聞召候て、竹ノ谷へ御加勢として御出張被成、鵜殿藤
太郎を追くつし、上の郷の城を攻破り、藤太郎并弟藤助を
初一族七人討捕、御帰陣也。
一 永禄七甲子年、夏の比迄ハ、東三河吉田城に大原肥前守在城
して近辺の侍、人質を皆吉田に召置、三河治めんとしける
現代語
(渡辺半之亟、渡辺平六を平岩善十郎の取次で赦免し、元)のように召し使えることとした。この者たちは、手を合わせて喜んだ。
一 三河上の郷の城主鵜殿藤太郎は、駿河方であった。同じく三河竹谷の松平備後守は、腹違いの兄弟であった。備後守は弟であったが、家康方になり、上の郷に押し寄せ、幾多の合戦をし、せり合いをした。備後守は打ち負けて退いた。(兄で駿河方の)鵜殿藤太郎が追いかけ寄せてきた。備後守は窮地に陥った。このことを家康は聞くと、竹谷に加勢として出陣され、鵜殿藤太郎を追い崩し、上の郷城を攻め落とし、藤太郎、藤助はじめ一族7人を討ち捕え、帰陣された。
一 永禄7甲子年夏の頃までは東三河吉田城に大原肥前守が在城し、近辺の侍たちの人質を吉田に置き、三河を治めていた。