愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(78) 松平記

2024年08月03日 06時14分10秒 | 松平記

松平記p78

翻刻
のごとく召つかハる。此者共手を合て悦ひける。
一 三河上の郷の城主鵜殿藤太郎ハ駿河方、同国竹の谷の松
平備後守ハ、一腹他姓の兄弟也。備後守ハ弟なれ共、家康方
にて、上の郷へ押寄せ、数々合戦、せり合御座候時、備後守数々
うち負引退く。藤太郎追かけ寄来り、已に難儀に及ぶ。此由
家康聞召候て、竹ノ谷へ御加勢として御出張被成、鵜殿藤
太郎を追くつし、上の郷の城を攻破り、藤太郎并弟藤助を
初一族七人討捕、御帰陣也。
一 永禄七甲子年、夏の比迄ハ、東三河吉田城に大原肥前守在城
して近辺の侍、人質を皆吉田に召置、三河治めんとしける

現代語
(渡辺半之亟、渡辺平六を平岩善十郎の取次で赦免し、元)のように召し使えることとした。この者たちは、手を合わせて喜んだ。
一 三河上の郷の城主鵜殿藤太郎は、駿河方であった。同じく三河竹谷の松平備後守は、腹違いの兄弟であった。備後守は弟であったが、家康方になり、上の郷に押し寄せ、幾多の合戦をし、せり合いをした。備後守は打ち負けて退いた。(兄で駿河方の)鵜殿藤太郎が追いかけ寄せてきた。備後守は窮地に陥った。このことを家康は聞くと、竹谷に加勢として出陣され、鵜殿藤太郎を追い崩し、上の郷城を攻め落とし、藤太郎、藤助はじめ一族7人を討ち捕え、帰陣された。
一 永禄7甲子年夏の頃までは東三河吉田城に大原肥前守が在城し、近辺の侍たちの人質を吉田に置き、三河を治めていた。

松平記(77) 松平記

2024年08月02日 05時57分17秒 | 松平記

松平記p77

翻刻
一 去程に、三ケ寺の僧に宗旨をかへよ、其まま御置可被成候。
無左ハ、破却可有と被仰付候へ共、御意にしたがひ不申候
間、坊主共先々追出給ふ。
一 鳥居四郎左衛門、渡辺八郎三郎、波切孫七、渡辺源三、本多孫
八、同三弥なとハ、三河を払ひ給ふ間、方々へ浪人。但後ハ此
中御免をかうふりて帰りしも有。大草の松平七郎も追払
ひ給ふ。誠に一揆いまた和談の事なくハ、中々此年中なと
ハしつまりかたき事成に、大久保一党か謀故に、一揆共和
談に成。か様に治りし事、偏に大久保一党の忠節ある故也。
一 渡辺半之亟、同平六をハ、平岩善十郎取次にて御免被成本

現代語
一 さて、三ヶ寺の僧に、宗旨を変えよ、そうしたら、そのままにしておく。宗旨を変えることをしなければ、寺を破却することになると言われたが、家康の意志に従わなかったので、坊主たちは寺を追われることになった。
一 鳥居四郎左衛門、渡辺八郎三郎、波切孫七、渡辺源三、本多孫八、渡辺三弥などは三河を去り、方々に浪人することになった。ただし、後にはこのなかに、許しを得て帰ってくる者もあった。大草の松平七郎も国を追われた。まことに一揆がまだ和談していなければ、この年中に戦がしずまることは難しかったのであるが、大久保一党の謀のおかげで一揆たちは和談をした。このように治まったことは、偏に大久保一党の忠節の故である。
一 渡辺半之亟、渡辺平六を平岩善十郎の取次で赦免し、

松平記(76) 松平記

2024年08月01日 06時02分14秒 | 松平記

松平記p76

翻刻
物も不叶、降人に成。荒川甲斐殿も没落有。是ハ家康兄弟の
よしミ有しか共、両度の敵と成しかハ、免し給ハさる程に、
浪人して河内国にて病死し給ひしと聞えし。東条義昭も
不叶、東条を明渡し近江国へ浪人し、佐々木承禎を御頼被
成けるか、芥田川の城にて討死被成候。酒井将監計上野に
籠り石川日向守と日夜せり合給へ共、一国皆敵に成けれ
ハ、終に不叶、永禄六年九月六日攻落され、将監ハ駿河へ落
行給ふ。しかれとも味方にも石川同心、北林、金田、其外のよ
き侍二十四人、爰にて将監方へ打とられける。将監殿酒井
の惣領なれとも子孫皆絶ける。

現代語
(松平監)物もかなわず、降人になった。荒川甲斐守も没落した。これは家康の兄弟の縁者であるが、2度敵となったので、許されることはなく、河内国で病死したと聞いている。東条義昭もかなわず、東条城を明け渡し、近江国に浪人し、佐々木承禎を頼ったが、芥田川の城で討死した。酒井将監だけは上野の城に籠り、石川日向守と日夜せり合ったが、国中が皆敵となり、ついに叶わずして永禄6年9月6日に攻落した。酒井将監は駿河へ落ちて行った。しかしながら、味方に石川同心、北林、金田、そのほか有能な侍24人が将監に討ち取られた。酒井将監は酒井家の惣領であったが、子孫は皆途絶えてしまった。

松平記(75) 松平記

2024年07月30日 05時51分46秒 | 松平記

松平記p75

翻刻
へきとの儀也。然を、かれら大久保五郎右衛門を頼、色々御
内証申、とかく御和談可、然し、さるからハ酒井将監并東条
殿、荒川甲斐殿以下皆押つふし候。半事いとやすし。国中御
静謐の基成べしと頻に申上しかハ、則和談有。上和田成就
院にて起請を書て、寺中并一揆をは助らるへし、御忠節可
申候由、被仰聞召。彼者とも案内申て、石川日向守を大将
にて、とろの寺内へ、高須の口より八町引入ける程に子
細をしらさる一揆共、乱れさわぎけるに、石川大声をあけ
て皆々和談にて御助有そ、さハくへからすと、よばわりけ
る間、皆々悦て一揆とも味方に成て合戦しける間、松平監

現代語
(一揆勢においては、誅罰がある)のが当然であるとのことであった。一揆勢は大久保五郎右衛門を頼りにし、いろいろ内輪のことも話し、とにかく和談するべきであると申した。。しかし、そうであるならば、酒井将監や東条殿、荒川甲斐守殿以下みな押しつぶすべきである。半事は大変簡単なことである。国中静謐の基であるとしきりに申し上げたので、和談は成立した。上和田の成就寺において起請文を書き、寺中並びに一揆衆は助けられること、家康に忠節をする由、家康はお聞きになった。石川日向守を大将に立てて土呂の本宗寺、高須口より八町ほど入った。すると詳しいことを知らない一揆衆は騒ぎ立てた。石川日向守は大声で「皆々和談にてお助けあるぞ。騒ぐな」と叫んだので、一揆衆は喜んで家康の味方となり、合戦におよんだ。それで松平将監‥‥

松平記(74) 松平記

2024年07月29日 06時35分08秒 | 松平記

松平記p74

翻刻
揆ともをハかり、和談の才覚有。一揆共も三ケ寺を大切に
存迄にて、さすがに国郡をとらんとの義にもあらず、度々
の合戦に打負大かた退屈しける時分、大久保五郎右衛門
方より、色々いさめ、異見に及間、蜂屋半之亟降人に成て御
免を蒙ふりしかハ、其外石川善五左衛門、同源左衛門、同半
三郎、本多甚四郎も降参し、敵の案内くハしく申上て、又御
訴訟に寺中ハ本のことく立をき、不入に被仰付、一揆共も
命を御助候様に御和談被成、可被下候ハゝ、一揆共皆、御味
方になし、上野城をかつき、可進由申候。家康聞召、寺内を本の
ことくに被仰付候ハん事尤也。一揆に於てハ御誅罰有

現代語
(一)揆どもをはかり、和談の考えがあった。一揆たちも三か寺を大切にしたいだけのことであって、さすがに国や郡をとろうということでもない。度重なる合戦に打ち負かされ、打つ手がない状況の時、大久保五郎右衛門忠俊よりいろいろと宥めたり、説得をしたりしたので、蜂屋半之亟が降参して一揆勢から抜けたので、他にも石川善五左衛門、石川源左衛門、石川半三郎、本多甚四郎も降参し、敵に味方(一揆勢)の実情を詳しく話し、そして訴えの文に寺は破却しないこと、不入の特権も残し、一揆勢の命も助けるように家康様が和談をしてくだされば、一揆勢は皆家康の味方になり、上野城(酒井忠尚)を降参させることを述べた。家康はこれを聞き、寺内を元のようにしておくことは尤もである。一揆勢においては、誅罰がある‥‥