愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(73) 松平記

2024年07月28日 07時43分08秒 | 松平記

松平記p73

翻刻 
門、物見に針崎へ出る。其勢廿五人。然処に敵方よりも針崎
の近所に伏兵を置けるに、物見衆、はたと行逢てせり合を
初む。敵にハ渡辺半之亟、筧助大夫、渡辺平六其外三十余人
火花をちらしせり合、石川ハ手を負、引返し、根来ハ渡辺に
討倒され、渡辺平六に首をとられける。布施孫左衛門、筧助
大夫と組しが、渡辺落合、布施が首をとる。味方のまけいく
さ、此一揆の時ハ此せり合はかり也。
一 方々の合戦に味方打勝といへとも、三州所々一揆の起り、
御一家衆もあまた逆心し、味方つかれ果けり。此時、多勢に
て甲駿の敵押来ハ御大事なりと、大久保一党謀を廻し、一

現代語
(布施孫左衛)門、物見に針崎に出た。その兵数25人。そこへ敵方よりも針崎の近辺に伏兵がいて、物見衆と行き合わせ、せり合いが始まった。敵には渡辺半之亟、筧助大夫、渡辺平六その他30人程で、火花を散らすせり合いになった。石川又四郎は怪我をして引き返し、根来十内は渡辺半之亟に打ち倒され、渡辺平六に首を取られた。布施孫左衛門は筧助大夫ととっ組み合いになったが、渡辺が助太刀をして布施は首を取られた。味方の負け戦は、この一揆の時はこの戦だけであった。
一 一つ一つの戦に味方が打ち勝っているとはいえ、三河のいたる所で一揆が起こり、松平家のご一家衆の中にも反逆するものがあって、味方は疲れてきた。この時、大軍で甲斐、駿河から敵が押し寄せてきたなら、一大事である。大久保一党は、知恵を廻らし、‥‥
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松平記(72) 松平記

2024年07月27日 06時39分01秒 | 松平記

松平記p72

翻刻
門、半之亟を(た)すけ突てかかり、鵜殿を突伏、首をとる。川澄又
助、同突てかかる処に、源五左衛門脇より突て出る間、又助
返す。家康是を御覧じて、自身鑓にて渡辺を突給ふ。うす手
なれハ、渡辺引て行を、石川十郎左衛門、渡辺源五左衛門先
にすすみ、家康へ突てかかるを内藤甚市、弓にて渡辺源五
左衛門が両股を射返しける間、渡辺射伏られける。子息半
之亟、父を肩にかけて早々引て行。内藤甚市ハ、渡辺源五左
衛門が甥なれとも敵なれハ、射伏ける。家康、甚市を御感不
斜。渡辺は頓て死ける。
同二月十三日、味方より石川又四郎、根来十内、布施孫左衛

現代語
(渡辺源五左衛)門、半之亟をたすけ、鵜殿十郎三郎に突きかかり、首を取った。川澄又助が突きかかるところに、渡辺源五左衛門が脇から出て突きかかったので、又助が渡辺源五左衛門に突き返した。家康がこれを見て、渡辺源五左衛門を突いた。しかし、傷は浅く、渡辺が引き返していくのを、石川十郎左衛門、渡辺源五左衛門が先に進み、家康に突きかかった。そこに内藤甚市が弓で渡辺源五左衛門の両足を射ったので、渡辺源五左衛門は伏した。子息である半之亟が父を肩にかけて早々に引いていった。内藤甚市は渡辺源五左衛門の甥であったが敵なので、渡辺を射った。家康は内藤甚市にいたく感激した。渡辺源五左衛門はやがて死んだ。
 同(永禄5年)2月13日、味方より石川又四郎、根来十内、布施孫左衛門、
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松平記(71) 松平記

2024年07月26日 06時01分05秒 | 松平記

松平記p71

翻刻
つき合けるに水野殿、石川を突伏せ、うちわをそへて、高名
被成候。大見藤六ハ、水野太郎作に突伏せられ、佐橋甚五郎
も爰にてうたれける。波切孫七郎ハ、家康自身追懸、鑓にて
後を二鑓突給へと、浅手なれハ、引拂退けり。味方も皆本陣
へ帰る。
一 正月十一日、針崎へ家康御出被成、敵も出、終日のせり合。
中根喜蔵と名乗味方の一番鑓、敵方には渡辺半之亟、鑓を
すてて太刀にてかかる。中根も手しげくかかられ、鑓を捨
て太刀をぬき、切合。互に手を負、相引に引ける処に、鵜殿十
郎三郎、渡辺を追かけ、討とらんとかかる。渡辺父源五左衛

現代語
水野藤十郎と石川新七が突きあいになったが、水野藤十郎が石川新七を突き伏せ、団扇を添えて高名、手柄をたてられた。大見藤六は水野太郎作に突き伏せられ、佐橋甚五郎もここに討たれた。波切孫七郎は、家康自身が追いかけ、鑓で後ろから二槍突いたが、傷が浅かったので、引き払って逃げて行った。味方も本陣に皆帰った。
一 正月11日、針崎勝鬘寺へ家康が出陣し、敵も出会い、一日中せり合った。中根喜蔵と名乗る味方の一番槍、敵方は渡辺半之亟(半蔵?)が立ち、渡辺は槍を捨てて刀でかかってきた。中根は何回も槍を突いたが、鑓を捨て太刀を抜き、切りあいになった。互いに傷を負い、ともに引こうとするところへ鵜殿十郎三郎が渡辺半之亟を追いかけ、討ち取ろうとした。渡辺半之亟の父源五左衛門
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松平記(70) 松平記

2024年07月24日 06時25分00秒 | 松平記

松平記p70

翻刻
作十郎大将分也。天野三兵と馬場小平太鑓を合、天野、馬場
小平太を突伏て、首を取、一揆共是に力を失ひ、引返す。家康、
大久保一類を針崎の押に置、大久保弥三郎計を案内にめ
しつれ、盗木を直に小豆坂へあかり給へハ、敵引返す道に
て行あひ合戦を企、よき敵数多討取給へハ、不叶して、一揆
とも引て行。石川新七、朱の具足に金の団扇の指物にてし
んがりして退く。諸人是を討と評定する。然るに、余人は山
にかるまりのく。石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七
郎ハ本道をしつしづと除く処を水野藤十郎追詰、石川と見
るに、かえせと言葉をかけ、突てかかる。石川取て返し、互に

現代語
(矢田)作十郎が大将である。天野三兵と馬場小平太が槍を合わせ、天野、馬場小平太を突き伏せ、首を取った。一揆勢これを見て力を失い、引き返した。家康は大久保一党を針崎の押さえとして置き、大久保弥三郎を案内にして小豆坂へ上がったところ、敵が引き返すのと出会い、合戦となった。家康はよき敵をたくさん討ち取ったので、一揆どもは叶わず引いていった。石川新七は朱の具足に金の団扇の指物で殿をつとめ、退いていった。皆はこれを討ち取ろうと相談したが、石川新七は山に逃れた。石川新七、大見藤六、佐橋甚五郎、波切孫七郎は本道をしずしずと引き返していたが、そこへ水野藤十郎が追いかけてきた。水野は石川新七を確認すると、「返せ」と言葉をかけ、突いてかかった。石川は取って返し、(突きあいになった。)
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松平記(69) 松平記

2024年07月23日 06時00分14秒 | 松平記

松平記p69

翻刻
を返すまじ用意と見えたりとて、大久保一党皆上和田へ
引返しける。案のごとく二手に成て押出す。然ども皆引取
ければ、一揆共手を失ひける。是偏に半之亟が芳情也。其比
家康の伯父水野藤十郎、兄の下野守と不和の義有、三河内
わし塚といふ所に浪人して御座候。藤十郎、相むこの水野
太郎作、村越又十郎と三人を同心して一揆起り申候由無
心元(こころもとなし)とて御見舞に御座候が、如此方々さハがしければ、い
かで見捨申さんと、先がけの衆に加り、一方の大将にて、数
度のはたらき御座候つる。其時分、佐々木の敵の後詰とし
て、一揆岡・大平へ働、馬場小平太、石川新九郎、同新七、矢田

現代語
(大久保衆を)引き返させないための用意であると考えられる。そこで大久保党は皆上和田へ引き返してしまった。(一揆勢は)予定通り二手に分かれて兵を出したけれども、大久保党が皆引き返してしまったので、作戦は失敗に終わった。これは偏に半之亟の芳情である。
その頃家康の伯父の水野藤十郎は、兄の水野下野守信元と仲が悪く、三河の鷲塚という所に浪人として身を寄せていた。一揆が起こったことが気がかりで、相婿の水野太郎作、村越又十郎と共に様子見に来たところ、このように戦が起こっていいて騒がしいので、これを見捨てることができないと、大将として先陣に加わり、何回も戦功をあげた。
その当時、一揆方佐々木上宮寺の後詰として一揆勢は岡、大平に軍勢を出し、馬場小平太、石川新九郎、石川新七、矢田作十郎、・・・
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