先日、「鳴海の豪族だった花井右衛門兵衛がここを居城にした。山口教継(左馬助」の謀反により、花井右衛門兵衛の領地が織田信長に没収され、岡田直教が城主になった。」というウィキペディアの記事を取り上げました。星崎城に行ってみました。
星崎城は、現在小学校になっています。笠寺小学校です。
笠寺小学校正面玄関
門に入るのに、坂になっています。高台に立っています。
この門に向かって右手の方にもう一つ門があり、「星崎城」の看板が設置してありました。門は開いており、入って看板を確認することができました。不用心ですが、私は助かりました。
笠寺小学校東側の門
こちらの門は、けっこう高いところにあり、城が高台にあったことがすぐ分かります。
星崎城の石碑と案内板
案内板の文章
星崎城跡
標高10メートルの台地先端に築かれた中世城郭である。築城年は不明であるが、戦国末には、織田氏に仕えた岡田重吉、重孝が城主となった。江戸時代の地誌や絵図から、本丸、二の丸、侍屋敷、大手門などを備えた本格的な戦国城館であったことがうかがえる。
天正16年(1588)廃城となったが、名古屋台地南部の重要な拠点城郭であった。
名古屋市教育委員会
ということで、現地案内板でも花井右衛門兵衛については記載がありませんでした。
近くの秋葉社に石碑があるというので行ってみました。
秋葉社の星崎城址石碑
この神社に地区の役員の方が掃除に見えて、「昔ある人が石碑をたくさん作り、いろんなところに置いたそうだよ」と教えてくれました。その方は言い伝えだけどね、と自分が調べたわけではないとおっしゃっていました。ぜひ自分で調べたいと思いました。
この秋葉社もけっこう高台にあり、秋葉社と笠寺小学校が同じくらいの高さになっていて、間がかなり低くなっていました。堀跡かなと思いました。
秋葉社から笠寺小学校運動場バックネットを見る
桶狭間の戦いの砦を地理院地図陰影起伏図に落とすと図のようになります。
桶狭間の戦い砦の位置(赤は今川方、青は織田方砦)
星崎城は、笠寺台地の南端にあり、鳴海城、大高城が一望に見えます。
星崎城は、現在小学校になっています。笠寺小学校です。
笠寺小学校正面玄関
門に入るのに、坂になっています。高台に立っています。
この門に向かって右手の方にもう一つ門があり、「星崎城」の看板が設置してありました。門は開いており、入って看板を確認することができました。不用心ですが、私は助かりました。
笠寺小学校東側の門
こちらの門は、けっこう高いところにあり、城が高台にあったことがすぐ分かります。
星崎城の石碑と案内板
案内板の文章
星崎城跡
標高10メートルの台地先端に築かれた中世城郭である。築城年は不明であるが、戦国末には、織田氏に仕えた岡田重吉、重孝が城主となった。江戸時代の地誌や絵図から、本丸、二の丸、侍屋敷、大手門などを備えた本格的な戦国城館であったことがうかがえる。
天正16年(1588)廃城となったが、名古屋台地南部の重要な拠点城郭であった。
名古屋市教育委員会
ということで、現地案内板でも花井右衛門兵衛については記載がありませんでした。
近くの秋葉社に石碑があるというので行ってみました。
秋葉社の星崎城址石碑
この神社に地区の役員の方が掃除に見えて、「昔ある人が石碑をたくさん作り、いろんなところに置いたそうだよ」と教えてくれました。その方は言い伝えだけどね、と自分が調べたわけではないとおっしゃっていました。ぜひ自分で調べたいと思いました。
この秋葉社もけっこう高台にあり、秋葉社と笠寺小学校が同じくらいの高さになっていて、間がかなり低くなっていました。堀跡かなと思いました。
秋葉社から笠寺小学校運動場バックネットを見る
桶狭間の戦いの砦を地理院地図陰影起伏図に落とすと図のようになります。
桶狭間の戦い砦の位置(赤は今川方、青は織田方砦)
星崎城は、笠寺台地の南端にあり、鳴海城、大高城が一望に見えます。