愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

府中城址、保存ならず

2017年09月13日 05時15分34秒 | 日記
ネットで検索したところ、9月1日越前市議会は、「府中城址、保存を」という請願を不採択とし、「予定通り新庁舎を建設する」という請願を採択したそうです。
残念ながら、現地での府中城址保存はならなかったようです。しかし、ほかのいろんな方法でなんとか後世に伝える手段を講ずべきだと思いました。

従来のスケジュール通りに新庁舎建設を求める請願に起立して賛成を表明する議員たち(毎日新聞より)

府中城跡保存を

2017年09月12日 05時26分19秒 | 日記
これとは、直接関係ありませんが、学習会の後に福井の史跡保存のことでの訴えがありました。
越前市(旧武生市などが合併してできた市)で、新庁舎建設に伴う発掘調査で、礎石群や池状の遺構が見つかり、これを保存しようと市に働きかけているというものでした。
詳しくは、「福井新聞ONLINE」を参照してください。以下記事全文

新庁舎建設目前、本多氏の御館跡か
越前市府中城遺構、保存再検討の声も
2017年8月5日

福井県越前市が府中1丁目の新庁舎建設地で進めている府中城跡の発掘調査で出土した礎石群や池状の遺構について、複数の専門家が「(府中領主の)本多氏の御館(おやかた)の可能性が高い」と指摘していることが7日分かった。市は画像や図面に記録した上で、今月下旬に新庁舎建設に取りかかる計画。遺構の保存について再検討を求める市民グループは同日、市に要望書を提出した。
新庁舎建設に伴う発掘調査は昨年8月から、2層に分けて実施。礎石群や池状遺構は江戸初期から中期と推定される第2層から出土した。
 市文化課によると、礎石群は東西7間(1間は1・4メートル)、南北9間の36個、東西1間、南北4間の4個、東西2間、南北6間の18個の3カ所。このうち東側にある18個の礎石群の東隣に、一部が石で囲まれた東西約7メートル、南北約15メートルの池状の遺構が出土した。底部に河原石が敷かれ、その下には粘土が張られており、水が漏れないようにした跡がみられる。
 近世の城郭に詳しい吉田純一福井工大客員教授は、苑池(えんち)を伴った建物が奥側に配置されている点などから「本多氏が政務をつかさどり、生活の場としていた御館の可能性が高い」と指摘。考古学や工芸史が専門の久保智康・京都国立博物館名誉館員(越前市)も「江戸前期の苑池と建物の遺構がこれだけきれいに出土した例は極めて珍しく、北陸初の事例では」とし、「本多氏の御館跡と断言できるのではないか」と説明する。
 調査地の東側では南北約30メートル、高さ約1~3・5メートルの石垣が見つかり、吉田客員教授は石垣の裏側や積み石のすき間に河原石が詰められている点に着目。「(江戸時代初期に築かれた)福井城などと形状が異なる特徴から、時代をもう少しさかのぼる可能性がある」と指摘している。
 遺構の記録保存を進めている市は、まとまった形での現物の保存は原則行わない方針で、22日に新庁舎建設の起工式を開く。吉田客員教授は「武生のまちの基盤は本多富正により府中城を中心に整備されたもので、今回の遺構は核となる場所。現地保存が難しいなら、せめて一部を移すなどの方法も検討すべきでは」と話している。
 調査結果を受け、市内の古文書学習グループ代表を務める池田正男さん(72)ら5人を共同代表とする「府中城址(じょうし)の石垣を保存する会」は7日、遺構の保存の再検討を求め市に要望書、市会に請願書を提出した。同会は4日に市内で開いた勉強会の参加メンバーを中心に結成された。ほかの市民グループにも要望書提出の動きがあるという。


府中城跡発掘現場 東西2間、南北6間にわたって礎石が出土した建物跡(中央)と底部に河原石が敷かれた池状の遺構(右下)(福井新聞ONLINEより)

話は記事にも名前が出ている「保存する会」の池田正男さんでした。さっそく私も署名をさせていただきました。新庁舎も大事ですが、本多氏の御館跡は、「北陸初の事例では」という久保智康さんの言葉を知って、もっと大事だと思いました。

若越城の会学習会

2017年09月11日 06時00分19秒 | 日記
8月26日(土)敦賀市のプラザ萬象で行われました。今回は、秋に予定されている県外研修の予備学習です。秋の見学会は、中国地方へ行きます。訪問予定の篠山城、黒井城、竹田城、有岡城、姫路城などについて、学習しました。講師は、西尾孝昌さんです。

いろいろなことを学び、秋の県外研修が楽しみになりました。

備中松山城(4) 岡山県

2017年09月10日 05時51分24秒 | 岡山県
天守に入ると珍しいものがありました。囲炉裏です。籠城した際に暖をとるためのものでしょうか。この城は、天守の現存する山城としてはかなり高い位置に立っていますが、冬は寒いのでしょう。囲炉裏は不可欠だったと思われます。

天守1階の囲炉裏跡

備中松山城は明治初期までは城として存在していましたが、廃城令などを受け、だんだんと忘れ去られ、昭和初期には崩壊寸前になっていたそうです。

昭和14年解体修理前の天守(松山城等管理事務所「重要文化財 備中松山城」より)

それを当時の高梁中学校の教員信野友春さんが見つけ、克明なスケッチをして、「備中松山城及其城下」に著しました。これを契機として備中松山城の復元を望む声が高まり、町民ぐるみの修復が進みました。NHK「歴史秘話ヒストリア」では、瓦を人の手で運ぶ際に女子高生や小学生までが手伝ったとして、当時の写真が放映されました。
こうした努力の積み重ねの上に今の日本三大山城の一つ備中松山城があるのだと、先人の努力に感謝する次第です。


(備中松山城 おしまい)

備中松山城(3) 岡山県

2017年09月09日 04時22分17秒 | 岡山県
二の丸へは二の丸櫓門を通って、はいります。石垣に大きな石がありました。鏡石でしょうか。

二の丸櫓門の鏡石

二の丸は細長い空間でした。

二の丸

二の丸から奥のほうに進みますと、右手に腰曲輪のようなものがありました。それを進んでいきますと、搦手門がありました。天守の裏手から出て、ここから逃げるようになっていました。

搦手門

さらに腰曲輪を奥に進みますと天守の後ろにある二重櫓の裏手に出ました。

二重櫓

二重櫓の石垣を見ると、これも自然の岩盤の上に石垣が積み上げられています。すばらしい。

さらに、二重櫓の後ろに後ろ曲輪と称する曲輪がありました。立派な櫓台がありましたので、松山城の後方の見張り台としての役割を担っていたのでしょうか。

後ろ曲輪
(つづく)