草戸千軒町遺跡
この福山城公園の一角に歴史博物館がありました。中世都市の遺跡草戸千軒の発掘成果を展示・保存しているところだそうです。草戸千軒遺跡は有名なようですが、私は全く知りませんでした。
広島県立歴史博物館
日本のポンペイ遺跡―川底に沈んだ草戸千軒町遺跡
実際の遺跡は福山市草戸町で発見され、発掘されました。今は川(芦田川)の川底になっています。
現在の遺跡は、グーグル航空写真では中洲が小さくなっています。
発掘のあゆみ
この遺跡は地元の人々によって「草戸千軒」として、昔ここに町があったという伝説として存在していたようです。それが大正15年(1926年)に芦田川の工事によって石塔などが発見され、発掘のきっかけとなったようです。
本格的な発掘調査は昭和36年(1961年)から始まり、昭和48年(1973年)には草戸千軒町遺跡調査所が設けられ、以後平成6年(1994年)まで調査が続けられたそうです。
そして、その発掘調査の成果が県立歴史博物館に収められているということです。
発掘当時の草戸千軒町遺跡(1986年)博物館パンフレットより
中世商人町草戸千軒町
博物館に入ると草戸千軒町が復原されていました。
博物館パンフレットより
草戸千軒町は中世の民衆の町です。中世にはこの近くまで海岸線が入り込んでいて、ここは港町だったようです。草戸も古くは「草津(くさいず)」と呼ばれていたようです。「津」は湊という意味です。
中世の町といえば城下町朝倉遺跡を思い出しました。朝倉遺跡は朝倉氏の城下町ですが、この草戸千軒町は港町です。商人たちの商売の様子がよく分かりました。
この福山城公園の一角に歴史博物館がありました。中世都市の遺跡草戸千軒の発掘成果を展示・保存しているところだそうです。草戸千軒遺跡は有名なようですが、私は全く知りませんでした。
広島県立歴史博物館
日本のポンペイ遺跡―川底に沈んだ草戸千軒町遺跡
実際の遺跡は福山市草戸町で発見され、発掘されました。今は川(芦田川)の川底になっています。
現在の遺跡は、グーグル航空写真では中洲が小さくなっています。
発掘のあゆみ
この遺跡は地元の人々によって「草戸千軒」として、昔ここに町があったという伝説として存在していたようです。それが大正15年(1926年)に芦田川の工事によって石塔などが発見され、発掘のきっかけとなったようです。
本格的な発掘調査は昭和36年(1961年)から始まり、昭和48年(1973年)には草戸千軒町遺跡調査所が設けられ、以後平成6年(1994年)まで調査が続けられたそうです。
そして、その発掘調査の成果が県立歴史博物館に収められているということです。
発掘当時の草戸千軒町遺跡(1986年)博物館パンフレットより
中世商人町草戸千軒町
博物館に入ると草戸千軒町が復原されていました。
博物館パンフレットより
草戸千軒町は中世の民衆の町です。中世にはこの近くまで海岸線が入り込んでいて、ここは港町だったようです。草戸も古くは「草津(くさいず)」と呼ばれていたようです。「津」は湊という意味です。
中世の町といえば城下町朝倉遺跡を思い出しました。朝倉遺跡は朝倉氏の城下町ですが、この草戸千軒町は港町です。商人たちの商売の様子がよく分かりました。
返す返すも惜しい遺跡でした。
この調査がきっかけになって、昔の港や津、船着き場のような遺跡にまで関心が行くようになりました。
コメントありがとうございます。
中世の町で、あんなすごい遺跡があったとは知りませんでした。一緒に見学していた方々が「有名な遺跡だよ」と言っていたので、ちょっと恥ずかしかったです。
戦国期には大坂や堺など町人の町として、不入の権利を有していた町がいくつかありましたが、この草戸千軒町もそのような特権を持っていたのでしょうか。近くにお寺があり、その寺とともに発展したようなこともあったので、もしかしたら持っていたのかなあと思っています。