首据石
馬洗池のすぐ上に大きな石がありました。「首据石」というそうです。初代の浅井亮政が六角氏と戦った時、家臣の今井秀信が敵に内通していることを知り、禅照寺で殺害し、ここにさらしたそうです。「俺を欺くとこうなるぞ」ということでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/0a/98c91ae85d7955f2d8d84d16b8a56ae4.jpg)
首据石
赤尾屋敷
首据石のすぐ向こうに赤尾屋敷への標識がありました。赤尾屋敷は、浅井長政が織田信長に攻撃され、落城間際の時に、逃げ込んだ屋敷です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/1b/da90d84bdd9466a2811e715bdba38009.jpg)
赤尾屋敷への道
浅井長政は、本丸よりうって出て信長軍と戦おうとしましたが、どうやら、押し返すことができず、やむなく赤尾屋敷の方に逃げ込んだようです。そして、ここで自刃したそうです。
赤尾屋敷は、大広間の下の道を回るようにいきます。ちょうど本丸の下(東)が赤尾屋敷になります。その途中におびただしい石が転がっていました。大広間にあった石垣でしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/8f/6e676e3bd8f067cba6f2651259e7c6ca.jpg)
赤尾屋敷への道の途中の石垣
赤尾屋敷は、3段になっているそうです。本丸を守るためにここに屋敷を構えたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a7/379b5348003b191835956b3e1b3dfd1d.jpg)
赤尾屋敷イメージ図(現地案内板)
そして、浅井長政自刃の碑が建てられていました。享年29歳だそうです。あまりにも若いのでびっくりでした。この若さで一国の主となって、戦国の世を生きていたんだと思うと、よっぽど優れた人だったんだなあと思いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/b9/6fb1d9b8129e77d1dc2d58f1987717c8.jpg)
赤尾屋敷にあった浅井長政自刃の碑
桜馬場
赤尾屋敷から戻り、本道に入り、すぐ向かい側は桜馬場です。馬場というので、馬の稽古をした場所と思われます。馬洗池、御馬屋のすぐ近くにあるので、三つの施設は一体のものとして使われていたと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/b3/76718b2b66a7ce5a14d3fbec1324c3a1.jpg)
桜馬場イメージ図(現地案内板)
ここに浅井氏と家臣の供養塔がありました。地元の方が浅井氏400年祭に際して昭和47年に建立したのだそうです。地元の人に今でも慕われている浅井氏はすごいと思いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/f4/7f8a87762cf1ca7ece9ec77465ad1cad.jpg)
浅井氏と家臣たちの供養塔
この馬場からはとても良い景色を見ることができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/38/5877a2a7914cbf93a1e1488008f4fc83.jpg)
桜馬場からの眺め
左の山は虎御前山①、正面は琵琶湖②、琵琶湖に浮かぶ右側の小さな島は竹生島③、竹生島の右は山本山④、山本山の手前は丁野山⑤です
いい景色を満喫した後は、いよいよ大広間、本丸です。
黒鉄門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/e6/aae32052019a578fbb31e2ed2cb0a787.jpg)
黒鉄門
大広間への入り口は黒鉄門です。黒鉄門というのは、本丸の入り口になっていて、鉄板を施した扉を使っている場合が多いようです。この門も鉄製の扉を持つ門だったのかも知れません。そして、両脇はがっちり石垣で固められていました。
黒鉄門、向かって右側の石垣
馬洗池のすぐ上に大きな石がありました。「首据石」というそうです。初代の浅井亮政が六角氏と戦った時、家臣の今井秀信が敵に内通していることを知り、禅照寺で殺害し、ここにさらしたそうです。「俺を欺くとこうなるぞ」ということでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/0a/98c91ae85d7955f2d8d84d16b8a56ae4.jpg)
首据石
赤尾屋敷
首据石のすぐ向こうに赤尾屋敷への標識がありました。赤尾屋敷は、浅井長政が織田信長に攻撃され、落城間際の時に、逃げ込んだ屋敷です。
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赤尾屋敷への道
浅井長政は、本丸よりうって出て信長軍と戦おうとしましたが、どうやら、押し返すことができず、やむなく赤尾屋敷の方に逃げ込んだようです。そして、ここで自刃したそうです。
赤尾屋敷は、大広間の下の道を回るようにいきます。ちょうど本丸の下(東)が赤尾屋敷になります。その途中におびただしい石が転がっていました。大広間にあった石垣でしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/8f/6e676e3bd8f067cba6f2651259e7c6ca.jpg)
赤尾屋敷への道の途中の石垣
赤尾屋敷は、3段になっているそうです。本丸を守るためにここに屋敷を構えたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a7/379b5348003b191835956b3e1b3dfd1d.jpg)
赤尾屋敷イメージ図(現地案内板)
そして、浅井長政自刃の碑が建てられていました。享年29歳だそうです。あまりにも若いのでびっくりでした。この若さで一国の主となって、戦国の世を生きていたんだと思うと、よっぽど優れた人だったんだなあと思いました。
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赤尾屋敷にあった浅井長政自刃の碑
桜馬場
赤尾屋敷から戻り、本道に入り、すぐ向かい側は桜馬場です。馬場というので、馬の稽古をした場所と思われます。馬洗池、御馬屋のすぐ近くにあるので、三つの施設は一体のものとして使われていたと思います。
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桜馬場イメージ図(現地案内板)
ここに浅井氏と家臣の供養塔がありました。地元の方が浅井氏400年祭に際して昭和47年に建立したのだそうです。地元の人に今でも慕われている浅井氏はすごいと思いました。
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浅井氏と家臣たちの供養塔
この馬場からはとても良い景色を見ることができました。
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桜馬場からの眺め
左の山は虎御前山①、正面は琵琶湖②、琵琶湖に浮かぶ右側の小さな島は竹生島③、竹生島の右は山本山④、山本山の手前は丁野山⑤です
いい景色を満喫した後は、いよいよ大広間、本丸です。
黒鉄門
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黒鉄門
大広間への入り口は黒鉄門です。黒鉄門というのは、本丸の入り口になっていて、鉄板を施した扉を使っている場合が多いようです。この門も鉄製の扉を持つ門だったのかも知れません。そして、両脇はがっちり石垣で固められていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a6/71803eb00a05aeee9467fad0f120c23b.jpg)
黒鉄門、向かって右側の石垣
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