久しぶりに愛知県でも雪が降りました。しかも週末に合わせたように。史跡めぐりをと考えていましたが、残念ながら、雪の為にかないませんでした。おとなしく家で読書を、ということになりました。
1月15日早朝、愛知県尾張地方の雪
そこで、以前から気になっていた加茂一揆について調べることにしました。
加茂一揆は、江戸時代の末期に愛知県西三河部旧加茂郡一帯に起きた大規模な百姓一揆です。この一揆には、大変興味があり、ずいぶん昔になりますが、数名で車による一揆見学をしたことがあります。高校の教員の方に案内していただき、だいたい一揆が通った経路を回りました。その時に一揆の首謀者とされる松平辰蔵の家(跡地)やお墓を見させていただいたことが、今でもよく覚えています。
そこで、加茂一揆の有名な資料である「鴨の騒立」という文をやさしい文に直し、少しでもこの一揆の様子をブログの読者の皆さんに知らせたいと考えました。
「鴨の騒立」は、西尾藩の神官渡辺政香という人が書いた加茂一揆の史料です。渡辺政香は、博学で三河地方の歴史や地理をまとめた「参河志」という本も著しています。
なお、原文は当然江戸時代の文字で書かれていて、残念ながら私は解読できませんので、以下の書き下し文になっているものを元の文としました。
高橋磌一(しんいち)・塚本学 校注「鴨の騒立」日本思想史大系「民衆運動の思想」(1970年 岩波書店)所収
鴨の騒立(1)
三河国加茂郡一揆のそもそもの起こりを考えてみると、天保7年(1836)8月13日のことである。昼の3時ごろ、雷がなり、暴風雨がおこった。夕方の5時ごろには、風が激しく吹き、竹や木はもちろん、家までが多く吹き倒された。夜の7時ごろになって、ようやく風が収まった。わずか4時間ぐらいの間に全国いたるところの国が凶作になり、米穀の値段が次第に高騰してきたので、(8月ごろには、十両に12~3俵といっていた)8月21日には、甲州に一揆があり、富豪たちを打ち毀した。しかし、江戸の役人や隣国の諸大名や役人が出動したので、8月25日には甲斐の国が静まった。
「鴨の騒立」の書き出しです。
加茂一揆の原因としてその年の8月に暴風雨があり、凶作となったことが挙げられています。この凶作は、「天保の飢饉」といって、江戸時代では大きな飢饉の一つに数えられています。ウィキペディアでは、寛永、享保、天明、天保を4大飢饉としています。また、この天保の飢饉は1833年と1836年に大きな凶作があったとしています。ちょうど「鴨の騒立」でいう天保7年のことです。
この年は、春から雨がちで天候不順であり、稲の生育が悪く、そこへとどめのように8月に暴風雨が吹いたので、壊滅的な打撃を受けたと言われています。
この飢饉では餓死者を出さなかった藩があったことも記しています。以前ブログで書いた田原藩です。渡辺崋山によって「報民倉」が設けられ、救済にあたったからです。
次に米穀の値段ですが、「農民騒擾の思想史的研究」(布川清司 1970年 未来社)に、1升当たりの米の値段の推移についての表がありましたので、1両あたりの米の量に換算して掲載します。これをみると、天保8年の1両につき2.5斗ととんでもなく高騰していることが分かります。
最後に、甲州一揆についてですが、「日本思想史大系」の注意書きには、「郡内騒動と呼ばれる大打ちこわし。都留郡地方に始まり、ほぼ甲斐一国に及んだ」と書かれています。おそらくこの一揆の方が早く始まっているので、加茂一揆にも何らかの影響を与えたのではないかと思われます。
1月15日早朝、愛知県尾張地方の雪
そこで、以前から気になっていた加茂一揆について調べることにしました。
加茂一揆は、江戸時代の末期に愛知県西三河部旧加茂郡一帯に起きた大規模な百姓一揆です。この一揆には、大変興味があり、ずいぶん昔になりますが、数名で車による一揆見学をしたことがあります。高校の教員の方に案内していただき、だいたい一揆が通った経路を回りました。その時に一揆の首謀者とされる松平辰蔵の家(跡地)やお墓を見させていただいたことが、今でもよく覚えています。
そこで、加茂一揆の有名な資料である「鴨の騒立」という文をやさしい文に直し、少しでもこの一揆の様子をブログの読者の皆さんに知らせたいと考えました。
「鴨の騒立」は、西尾藩の神官渡辺政香という人が書いた加茂一揆の史料です。渡辺政香は、博学で三河地方の歴史や地理をまとめた「参河志」という本も著しています。
なお、原文は当然江戸時代の文字で書かれていて、残念ながら私は解読できませんので、以下の書き下し文になっているものを元の文としました。
高橋磌一(しんいち)・塚本学 校注「鴨の騒立」日本思想史大系「民衆運動の思想」(1970年 岩波書店)所収
鴨の騒立(1)
三河国加茂郡一揆のそもそもの起こりを考えてみると、天保7年(1836)8月13日のことである。昼の3時ごろ、雷がなり、暴風雨がおこった。夕方の5時ごろには、風が激しく吹き、竹や木はもちろん、家までが多く吹き倒された。夜の7時ごろになって、ようやく風が収まった。わずか4時間ぐらいの間に全国いたるところの国が凶作になり、米穀の値段が次第に高騰してきたので、(8月ごろには、十両に12~3俵といっていた)8月21日には、甲州に一揆があり、富豪たちを打ち毀した。しかし、江戸の役人や隣国の諸大名や役人が出動したので、8月25日には甲斐の国が静まった。
「鴨の騒立」の書き出しです。
加茂一揆の原因としてその年の8月に暴風雨があり、凶作となったことが挙げられています。この凶作は、「天保の飢饉」といって、江戸時代では大きな飢饉の一つに数えられています。ウィキペディアでは、寛永、享保、天明、天保を4大飢饉としています。また、この天保の飢饉は1833年と1836年に大きな凶作があったとしています。ちょうど「鴨の騒立」でいう天保7年のことです。
この年は、春から雨がちで天候不順であり、稲の生育が悪く、そこへとどめのように8月に暴風雨が吹いたので、壊滅的な打撃を受けたと言われています。
この飢饉では餓死者を出さなかった藩があったことも記しています。以前ブログで書いた田原藩です。渡辺崋山によって「報民倉」が設けられ、救済にあたったからです。
次に米穀の値段ですが、「農民騒擾の思想史的研究」(布川清司 1970年 未来社)に、1升当たりの米の値段の推移についての表がありましたので、1両あたりの米の量に換算して掲載します。これをみると、天保8年の1両につき2.5斗ととんでもなく高騰していることが分かります。
最後に、甲州一揆についてですが、「日本思想史大系」の注意書きには、「郡内騒動と呼ばれる大打ちこわし。都留郡地方に始まり、ほぼ甲斐一国に及んだ」と書かれています。おそらくこの一揆の方が早く始まっているので、加茂一揆にも何らかの影響を与えたのではないかと思われます。
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