愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

浅谷(あざかい)城(1) 豊田市

2016年03月20日 18時30分50秒 | 豊田市
見学日 2016年3月20日

めっきり春らしくなりました。気温が上がって、日中は汗ばむ陽気です。史跡めぐりに最高の日和です。今日は浅谷城に行きました。

浅谷城落城は何年か?
浅谷城とは、「三河国二葉松」によれば、「簗瀬九郎左衛門或太郎法名道悦天正二年為武田落城」とあり、簗瀬氏が城の持ち主であったことがわかります。また、天正2年(1574)に武田氏に攻められ落城したようです。
「浅野文庫諸国古城之図の世界」の解説によれば、「元亀2年(1571)には武田信玄に攻められ落城した。」とあります。
また、現地の案内板では「天正2年、武田信玄の子勝頼が東海・北三河に侵入。その折、足助が戦場になり、激戦の末、足助の諸城と共に浅谷城も落城した。」とありました。

3つの資料では諸国古城之図の解説だけが違っているので、おそらく文献が違うのでしょう。


さて、浅谷城は足助の奥の方にありました。

浅谷城の位置(図の右下)【地理院地図より】

足助の中心飯森山城、真弓山城からずいぶん離れていました。


浅谷城の様子

城の入り口
城の入り口までは細い山道で「大丈夫かな」と心配でしたが、どうにか入り口にまでたどり着きました。入り口には駐車スペースが3台ほどありました。


紛らわしい堀切の看板
1,2分ほど歩きますと、左手に広い空間があり、「これは曲輪だな」と看板を見ますと、「堀切」と書いてありました。

この看板は、上の本曲輪北東にある堀切の案内板でした。案内板には「敵の侵入を防止する堀」という一般的な説明だったので、「誤解するかな?」と少し心配になりました。

本曲輪
本曲輪には5分ほどで登れました。

本曲輪の様子

浅谷城落城後の話
本曲輪に浅谷城についての説明板がありましたが、そこに落城した後のことが書かれていました。

「・・・・
浅谷城の落城で農民兵が沢山亡くなった。城主簗瀬はふもとに浅谷山万昌院を建立。自ら開基として落命した将兵を憐れみ、その菩提を弔った。この万昌院には長く甲冑が一領保存されていたが、現在足助資料館に保管・展示されている。
 また、明治37年、村人はここに『城山八幡宮』という石碑を立て、武士の守護神である八幡様を祀り、年に一度祭典を行ってきた。
・・・・・
平成24年11月吉日 豊田市椿立自治区」

いい話でした。


城山八幡宮の石碑

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