愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

加茂一揆(9) 豊田市 乳子守(ちごもり)神社

2017年11月05日 07時37分16秒 | 加茂一揆
10月は大変な月でした。秋の長雨が10月にずれ込んで毎日雨ばかり降ると思ったら、台風21号、22号で土日がつぶれ、おまけに総選挙でぐちゃぐちゃでした。
ということで、ようやく30日は晴れ間が戻り、ちょっと寒かったですが、史跡めぐり日和になりました。

今日は加茂一揆関連で豊田市の松平地区、滝脇町、鍋田町に行きました。
まず鍋田町ですが、ここに乳子守(ちごもり)神社という神社があります。どうして乳子守神社に行くのかというと、松平数馬が寄進したという灯篭があるからです。松平数馬というのは、天保年間の旗本で、滝脇陣屋にいたようです。松平地区の紹介をしているパンフレットに次のような記事があるのを発見しました。

「境内の灯籠は、滝脇陣屋の領主松平数馬が天保12(1841)年に奉納したものである。」(鍋田自治区の紹介パンフレットより)

松平数馬は、「豊田市史」の資料「加茂一揆の過料銭」一覧表で、知行として、滝脇村、(西)大沼村、遊平村、鍋田村、曲村、羽明村、平折村、額田郡日影村、同丸塚村を有していました。一揆が発生した滝脇村は旗本松平数馬の知行所だったわけです。一揆は、滝脇村の石御堂に集結した後、滝脇村の庄屋宅を打ち壊しています。
当然その知らせは当地の陣屋である滝脇陣屋にも来ていたものと思われます。しかし、一揆が起こった段階では滝脇陣屋は何も動いていません。動いたのは岡崎藩領の須山村、仁木村、岩津村、大谷村等の庄屋たちです。彼らが岡崎藩に注進したことから、権力側の動きが始まったように「鴨の騒立」では記載されています。

一体どうして滝脇陣屋は動かなかったのか疑問です。

なにか手がかりがないかと思い、出かけることにしました。

松平地区の鍋田町、滝脇町の位置


乳子守神社の標識


松平数馬が寄進した灯篭

その灯篭がありました。確かに「松平数馬」という名と「天保12年」という年が刻まれていました。

灯篭の「松平…」の文字が画像からも確認できます。

灯篭の「天保12年…」の文字

ただこの灯篭で不思議だったのは、正面の紋が葵の紋ではなかったことです。さらに神社の名称が「児子森」となっていたことです。

灯篭に刻まれた家紋と神社名

調べましたら、多くの旗本は徳川宗家にはばかって葵の紋を使わず、この「丸に蔦」を用いたそうです。なので、松平数馬の家紋と言えそうです。

また神社の名称については、なぜ「児子森」が「乳子守」になったのかは分かりません。ただ、もともとは、鍋田住民が天文4(1535)年に白山の宮を勧請して「千子の宮」と称して安置したのが始まりといわれているそうです。安産の神様だそうです。(自治区紹介パンフレットより)

ということで、乳子守神社では滝脇陣屋が動かなかった手がかりはつかめませんでした。