愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

河和城址 美浜町(1)

2015年03月07日 16時04分33秒 | 美浜町
河和城築城は戸田氏
田原城、戸田氏のつながりで河和城址を訪れました。河和城は、戸田氏が築城したと伝えられています。

河和城の横掘

河和城址は、美浜町にあります。戸田氏の本拠地である渥美半島田原と知多半島美浜町河和は離れているように思っていましたが、地図で見ると、海を渡ってすぐのところでした。


陸路を通っていくと、三河(今川や松平)、尾張(織田や水野)を通らないといけませんが、船で行けばすぐです。戸田氏はおそらく三河湾の海上権を握っていたのではないでしょうか。

地域の人に壊された河和城
案内の看板におもしろい話がありました。
1590年(天正18年)8月、秀吉の小田原攻めに出陣した当時の城主戸田孫八郎守光が小田原で戦死します。戦死の知らせを聞いた河和の人たちは河和城を攻め、河和の人たちによって河和城は壊されました。戸田孫八郎守光の妻子は親戚である於大の方を頼って江戸に逃げました。その後、守光の妻子は姓を「戸田」から母方の姓である「水野」に改め、関が原の戦い後、河和に帰ることができました。このようにして河和城は壊されましたが、今でも地元では河和城のあった山を「お城山」と呼んでいます。(現地案内板より)

河和の人々が城主守光が戦死したのを聞いて城を壊したというのは、ある種一揆のような感じを受けました。さらに、守光の妻子の親戚が水野氏というのもおもしろいです。調べましたら、守光の妻は水野信元の娘で、於大は水野信元の異母妹です。つまり、この時代、河和戸田氏は知多半島の北部を支配していた水野氏と婚姻関係を結び「同盟関係」にあった事が窺えます。

河和城址概要図
さて、駐車場から階段を登るとすぐ曲輪Ⅰになります。

「愛知の山城ベスト50」より

最新の画像もっと見る

コメントを投稿