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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

二村山 豊明市

2018年10月01日 18時16分57秒 | 豊明市
強くて大型の台風24号が列島を縦断しました。幸い我が家及び私の住んでいる地域で被害の情報はありませんでしたが、各地で停電や強風により樹木が倒れる、家屋の一部が飛ばされる等の被害があったようです。一日も早い復興をお祈りします。

さて、台風一過、10月1日、豊明市の二村山というところに行きました。豊明市を通るとき、「名勝地・二村山」という看板があり、気になっていました。また、「十三塚」という交差点があり、これも気になっていました。


名勝地二村山の位置

どうして二村山が名勝であるかというと、この近くを鎌倉街道が通っていて、二村山に登ればとても眺望が良かったということらしいです。


二村山案内掲示

二村山の駐車場からさっそく遊歩道を歩いていきますと、源頼朝の歌碑に出会いました。
「よそに見しをささが上の白露を たもとにかくる二村の山」

案内掲示版には、
「源頼朝がこの地を通ったのは、建久元年(1190)10月、露の季節であった。始めての出京に歌枕として名高い二村山は印象が深かったと思われる。珍しく頼朝の詠歌として続古今和歌集に残っている。この時の上洛で、後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁して右近衛の大将に任じられた。 豊明市観光協会」
との説明がありました。

歌の意味はあまり分かりませんが、源頼朝がここを通って、歌枕(歌の題材)として名高い二村山を歌ったということが書かれていました。また、この文が教育委員会ではなく、観光協会の文責であることも驚きました。


源頼朝の歌碑

この歌碑の左に延命地蔵がありました。

延命地蔵

旅人が盗賊熊坂長範に襲われたとき、身代わりとなって肩から上が欠落したという伝承があるそうです。この地蔵尊には大同2年(807)の銘が刻まれているそうです。


左の地蔵が身代わりとなった地蔵だそうです。

今は上に小さな頭が載っていますが、不気味な感じがします。伝承で盗賊の名前がはっきり残っているのも面白いです。

さらに登っていきますと、展望台の近くにまた地蔵様がおられました。


切られ地蔵尊

この地蔵さんも二つに分かれていて、上半分が前に、下半分が後ろにあります。延宝7年(1679)の銘があるそうです。

これもすごいです。別名「袈裟切り地蔵」ともいうそうです。お武家さんに「切り捨て御免」で切られた百姓・町人の身代わりでしょうか、ありがたい地蔵様です。

二村山の頂上からは、東西南北に眺望が開けていました。

そして、ここから西の方に「鎌倉街道」の古道が史跡として残されていました。

ここより古道「鎌倉街道」

一応端まで歩きましたが、ただの山道でした。

昔の人は歩いて京都、鎌倉間を往復したのでしょうが、この二村山のあたりは特に山道であったことと思われます。標高70mほどの山ですが、熱田の宿から、この二村山を越えるとすぐに沓掛の宿に着くので、ちょうどここで「今日はここまで来た」と眺望が眺められて、旅人は感慨に耽ったことと思われます。二村山が和歌の題材になる理由が分かった気がしました。

勅使(ちょくし)池 豊明市

2017年01月05日 19時19分32秒 | 豊明市
正月休みに近くの公園を散歩しました。豊明市の勅使池です。


勅使池

この池は次のような伝説があって、勅使池と呼ばれているそうです。

伝承によると、大永8年(1528)、左中条経広卿という人が、後奈良天皇の「勅使(天皇の使者)」として愛知郡東郷町の祐福寺へ派遣された際に池の改修工事に関わったため「勅使池」と呼ばれるようになったと言われています。
現地案内板より

冬の勅使池には水鳥がたくさん来ています。幸いに死んだ鳥は見当たりませんでした。

動画にしてみましたので、ご覧ください。もし、この鳥の名前を知っていたら、教えてください。

勅使池の水鳥

阿野一里塚 豊明市

2014年10月18日 20時14分24秒 | 豊明市
愛知県の一里塚
 愛知県は江戸時代には東海道が通っていました。東海道には一里塚がありました。今で言う「道路標識」です。この一里塚には榎などの木が植えられて、旅人が休憩できるようになっていたそうです。愛知県には、下記のように東海道に一里塚が置かれていたようです。(Wikipedia)

71里 - 細谷、豊橋一里山 (愛知県豊橋市東細谷町字一里山30-1) 豊橋市史跡
72里 - 二川 (愛知県豊橋市二川町字東町)
73里 - 飯村 (愛知県豊橋市三ノ輪町)
74里 - 下地 (愛知県豊橋市下地町四丁目)
75里 - 伊ノ奈 (愛知県豊川市伊奈町)
76里 - 御油 (愛知県豊川市国府町)
77里 - 長沢 (愛知県豊川市長沢町)
78里 - 本宿 (愛知県岡崎市本宿町)
79里 - 藤川 (愛知県岡崎市藤川町)
80里 - 大平 (愛知県岡崎市大平町岡田) 国の史跡
81里 - なし(岡崎宿内?)
82里 - 矢作 (愛知県岡崎市矢作町付近)
83里 - 尾崎 (愛知県安城市尾崎町)
84里 - 来迎寺 (愛知県知立市来迎寺町古城24-1) 愛知県史跡
85里 - 一ツ木、刈谷一里山 (愛知県刈谷市一里山町深田)
86里 - 阿野 (愛知県豊明市阿野町池下114、阿野町長根4) 国の史跡
87里 - 有松、鎌研橋 (愛知県名古屋市緑区鳴海町鎌研付近)
88里 - 笠寺 (愛知県名古屋市南区白雲町)
89里 - 伝馬町 (愛知県名古屋市熱田区伝馬二丁目4付近)
90里 - なし(海上七里)

 今日は豊明市の阿野一里塚を見に行きました。阿野一里塚は江戸日本橋から86里目に当たるそうです。また、現存する一里塚の遺跡の中では道の両側に残っている数少ない遺跡だということです。

東海道の北側の一里塚


道の南側の一里塚

江戸時代の榎か
 両側とも小高い塚のようなものがあり、特に北側の塚には古い木の株が残っていました。もしかして榎なのでしょうか。見る人が見れば、何の木の切り株なのか分かるとおもいますが、私にはわかりませんでした。

かなり根が露出していました。

南側の一里塚には江戸時代の石碑
 さらに、南側には「南無阿弥陀仏」と文字が彫ってある石碑が建てられていました。銘には文化とあり、江戸時代の石碑でした。どなたかここで亡くなられたのでしょうか。石碑は真ん中で折れた後があり、後世に補修したものと見られます。

桶狭間の戦い(8) 豊明市

2013年06月23日 08時18分55秒 | 豊明市
沓掛城
 今川義元が桶狭間の戦いの時に宿泊したという沓掛城です。
 沓掛城は近藤宗光が初代の城主のようです。その後、織田氏に従ったり、今川氏に従ったりしていましたが、桶狭間の戦いのときは今川氏側だったようです。近藤景春が時の城主でしたが、織田方に敗れ、戦死しているようです。



沓掛城の案内板

現在は城址公園として残っています。本丸跡、諏訪曲輪跡、大手門後、二の丸跡、空掘等が残っています。

大手門跡です。


空掘



本丸跡には井戸の跡もありました。