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箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

スポーツでの知的な識見

2020年02月14日 07時22分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私は子どもの頃、父に連れて行ってもらい、当時難波にあった大阪球場へ南海ホークスの試合を見ました。

すり鉢のような狭い球場で、いまは亡き野村克也選手がキャッチャーで4番打者という現役でした。

その後野村さんは現役をしりぞき、以前ある番組で、野村さんが解説する場面がありました。

バッターは原辰徳、ピッチャーはヤクルトの荒木投手という対戦場面の解説でした。

実況のアナウンサーが、「原選手はいま好調なので、投手は投げづらいでしょう」と言いました。

すると野村さんは「バッターは好調なときほど、高めにボール球を投げると手を出して、フライを打ち上げるんだ」と解説しました。

果たして、荒木投手はその直後に高めにボールを投げ、原選手はフライを打ち上げ、凡打となりました。

スポ根ものが全盛で、気合いや精神論が主流を占めていたスポーツ界に、「知的解説」の大切さを、野村さんは持ち込んだのでした。

中学生の部活も、昔は「水は飲むな」と言われ、根性や精神論が幅をきかせていた時代がありました。

でも、今や熱中症予防で、スポーツをするとき水分をとるように、時代も大きくかわりました。

スポーツに科学的、知的見識の大切さを伝えたという意味で、野村克也さんという存在の大きさを、あらためて思います。

過保護とは何か

2020年02月13日 08時06分00秒 | 教育・子育てあれこれ
幼い子どもは、よく親に「見てて、見てて」と言います。 

見守ることは、子育ての基本中の基本です。

「稲を早く育てようと、田んぼの稲を引っ張ったので、稲が伸びなくなり、枯れてしまった」というエピソード(杞憂)があります。

相手が植物でも、動物でも、人間であっても、生き物を育てるときには、その成長を見守りながら、待たなければなりません。

待つことができない人は、子どもを育てるのが難しくなります。

ただし、待つといっても、漠然と時の流れを送るのではありません。

見守って待つのです。

「見守る」というのは、相手が「助けて」と言ったときに、応じることができるように見ていることであり、このことは思春期の子どもの子育てでは、とくに重要です。

また、植物の話に戻りますが、植物の世話をしていて失敗する原因は、おおまかに二つあります。

①水とか肥料をやりすぎるからです。

やりすぎると、根腐れを起こして枯れます。

②放ったらかしにしすぎるからです。

長い間、水をやらずにいると、水切れでこれも枯れてしまいます。

このことを子育てにあてはめると、①は過保護であり、②は放任です。

①も②も植物の世話をする人が、様子を見守っていないのです。

たしかに、子育てで子どもを保護するのは必要です。

しかし、過保護や放任は子どもをスポイルします。

保護とは子どもが必要とするものを的確に与えることでしょう。

大人から見て、これは子どもには必要ないと思うことでも、子どもにとって必要なものなら、ちゃんと与えます。

そうすると、子どもは情緒精神面で安定します。

放任とは、子どもが必要とするものを与えないことです。

ご飯が与えられないとか、学習に最低限必要な学用品が与えられない。

こうなると、子どもはいま生きている世界を諦めることにもなります。

家を出るか、自分の世界にとじこもるという影響を受けます。

ここまで読まれて、私は過保護なのか、いや子どものために愛情をかけているのが過保護だなんて・・・。

子育てにお悩みで、過保護という言葉に抵抗感を感じられる場合には、自分の行為と子どもの受け止めにズレがないかを考えてみます。

もしズレが見つかれば、子どもの受け止めに合わせてみます。

そうすると、不思議にも、子どもの表情に明るさが出てきます。

















会話で感じる人とのつながり

2020年02月12日 07時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ



ご家庭でこんな会話はありませんか。

「お母さん、今日の晩ご飯は何?」

「ハンバーグよ」

「やった! うれしい。うちのハンバーグはおいしいから」


ごくふつうの楽しい親子の会話のように思われます。

しかし、このやりとりには、重要な子育ての要素が含まれています。

それは、子どもの前向きな気持ちは、楽しい会話の中で、感情的なかかわりから生まれるということです。

人間は人の間にいることで、人とのつながりを感じとろうとします。

このハンバーグの例は、会話を通して、本人が自覚していなくても、親子のつながりを求める会話なのです。

自分が話すことで、その時に感じる満足感や安心感をその子は求めていると解釈しましょう。

このとき、子どもは心の絆を感じて、親子の関係性に満足するのです。





自発性は見返りを求めない

2020年02月11日 07時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ









私が中学1年生の学級担任をしていた頃の話です。

教室に観葉植物の鉢植えを置いていました。

担任している一人の女子生徒が、終礼が終わると横に置いていたじょうろで水を汲みにいき、観葉植物に水やりをしてくれていました。

彼女は、私が頼んだのでもなく、誰かから言われたのでなく、自発的に毎日水やりをしてくれていました。

聞くと、「家でも鉢植えに水をやっているから。先生、ちょっとずつだけど大きくなっているよ」と言っていました。

わたしは、彼女に「ありがとう」とだけ言いました。

こういう場面に出くわすと、学校の先生はこのことをとりあげて、クラスの生徒に紹介したり、発表したり、ほめたりすることがあります。

しかし、ここはよく状況を見きわめなければなりません。

彼女は、自発的に始めたのです。植物が大きくなるのが楽しみだったのです。好きだからやっていたのです。

もし、クラスに紹介すれば、好きだからやっている自分の行為を、なぜクラス全員の前で話されなくてはいけないのか。ほめてもらうためにやっているのではない。

この行為を続けると、ほめてもらうためにやっていることと、まわりから受け取られてしまう。こう思うと、水やりをやめてしまうことになりかねません。

じっさい、思春期の子どもの心理は、このように感じやすく、傷つきやすいこともあるのです。

「いいことは、なんでも、ほかの生徒に知らせて知ってもらわないと」と、大人が勝手に判断して、情報を拡散していくのは、子どもの心に土足で脚を踏み入れていることになります。

このケースでは、大人は「ありがとう。きっと植物も喜んでいると思うよ」だけでいいのです。

子ども本人が自分のやる気で自発的に取り組むことに、ふつう「見返り」など求めません。

ほめてほしい、評価してほしいという気持ちは持っていないのです。ただ、そのやる気で、まわりの人が喜んでいることが、本人に伝われば十分なのです。


私立高校の入試日

2020年02月10日 08時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ


本日は私立高校の入試日です。

石橋阪大前の駅では、早朝から多くの中学3年生でごった返していました。

大阪府の生徒だけでなく、兵庫県の生徒も受験します。

中には、校則にのっとり、ジャケットなどを着用せず、制服の上着だけの生徒もいます。

風邪をひかないようにしてください。

中学3年生がホームいっぱいに広がり、あれだけの数が集まると、ものすごい活気とエネルギーを感じます。

三中の3年生を見かけました。がんばっておいでというエールを送っておきました。

子どものことがわかる親

2020年02月10日 06時26分00秒 | 教育・子育てあれこれ

子どもの願い、つまり子どもがほんとうにしてほしいことが何であるかをわかっていることは、親にとって必要なことです。

 

ところで、昨今の社会状況・経済状況では、親が働き収入を得ることはさほど簡単なことではありません。

 

厳しい雇用情勢があり、仕事では成果を出すように求められ、ストレスがかかる職場の問題に直面する場合もあるでしょう。

 

家庭のことは気になるが、仕事にエネルギーを傾け、忙しい日々を送り、子どもから離れやすいのです。

 

それでも、収入を得るのは、わが子を幸せにするためという意識が働きます。

 

でも、あえて言えば、親は自分が「お父さん」「お母さん」の役割を果たせているかを、一度見つめなおしてもいいと思います。

 

子どもから見れば、お父さんやお母さんが何かを自分にしてくれるというのは、収入やお金でなく、いっしょにいてくれるとか、相談したいときに応じてくれるということなのです。



 

私は小学生のとき友だちと農業用水用のため池へ行き、池の樋をおもしろがって引っ張っていると樋が外れ、ものすごい勢いで用水路に水が流れ出しました。あまりの勢いで道路に水があふれ出しました。

 

直感的に「えらいことをしてしまった」と思いました。

 

翌日、学校では先生からこっぴどく怒られました。聞くと町内の池守の人が水中に潜り、抜けた樋をはめてくれたそうです。

 

家に帰ったら父から叱られるだろうと思っていました。

 

でも父は「これから気をつけるんだ。いいな」とだけ言って、それ以上は何も言いませんでした。

 

私はものすごい威厳を感じました。そして、二度とやるまいと心に誓いました。

 

人によっては、怒らないのはよくないという考え方もあるでしょう。怒ったほうがいい場合もあります。

 

でも、その時は、父は怒らなかったのです。


私は反省して十分後悔もしていました。それがわかっていたので怒らなかったのでしょう。

 

そのような判断は、子どもをよく見ている、子どものことをよく知っているからてきるのです。

 

最近は、夫が育児休暇をとることも少し増えました。


赤ちゃんがワーと泣いています。お父さんがなんでだろうと、戸惑っていると、お母さんはおむつが濡れていると思い、とり替えました。


すると赤ちゃんが泣き止みました。

 

「ね、泣き止んだでしょ。おむつが濡れていたのよ」

 

「そうか、そういうものなんだ」

 

このように、子育ては、お父さんとお母さんが話し合って、会話をしながらやると楽しくなるのです」

 

「ほら、笑ったね」といっしょに喜ぶ。

 

 

 

このようにして、親は子どもと同じ時間を過ごし、子どものことがわかるようになるのです。

 

このことは、子どもが思春期になっても、同じです。

 

忙しくても、相談したいときには応じてくれる。


日々子どものことをよく見ていて、子どものことを知っている親を、子どもは求めているということです。


寒い日には・・・

2020年02月09日 09時14分00秒 | 教育・子育てあれこれ


1月下旬は冬にしては暖かい日が続いていましたが、2月になりいつものような寒さが戻ってきました。

さて、寒い日にちなんで、

何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。

マラソンの高橋尚子の座右の銘と言われる言葉です。


2000年のシドニーオリンピック女子マラソンで、高橋尚子選手は2時間23分14秒のオリンピック新記録で、金メダルをとりました。

そんな高橋選手を支えたのが、高校時代の中澤正仁陸上部監督から送られた冒頭の言葉でした。

彼女は社会人になってからマラソンに転向しましたが、3年間は芽が出ませんでした。

しかし、この言葉を胸に1歩1歩走り続けてきました。

シドニーオリンピック金メダルを手にした高橋選手は、その後も連覇を目指し練習を重ねました。

しかし、2004年のアテネオリンピックの代表選考で落選しました。

その上、アメリカで走り込みの練習をしていたら右足首を骨折してしました。

やっと足首が治ると、今度は肉離れを繰り返す日々が続きました。

周りの人はレースを休むことをすすめましたが、高橋選手は走り続けました。

何も咲かない寒い日に下へ下へと根を伸ばしたのです。

そして、2005年東京国際女子マラソンでは、シドニーオリンピックのときのようなラストスパートをかけ、みごとに復活優勝を成し遂げたのでした。

人は、苦しいときに踏ん張るからこそ、根が伸びるのです。

根を伸ばすことをやめなければ、やがて大きな花が咲く。

身をもって、高橋選手は座右の銘にしている言葉を実現させました。

個性を大切にするとは

2020年02月08日 08時17分00秒 | 教育・子育てあれこれ

 

 

個性を尊重することが大事だと、多くの親が考えます。

 

子どもには、個性的に生きてほしいと、願う親や教師も多くいます。

 

では、子どもが個性的に生きるとはどういうことでしょうか。

 

スマホを手にもって、ツイッターに投稿する。すると知り合いや読んでいるフォロアーからのメッセージや投稿が届く。

 

こんなことが、当たり前になり、人間にとって正しいこと、便利なことだと思う。


そんな便利なツールを多く知っていたり、持っていたりするほど、人間関係がうまくいく。

 

このように考えるようになりました。

 

しかし、個性というものはそのやりとりにはないのです。

 

そのようにわかっていることだけをやっているのでは、自分らしさは何も生かされません。

 

ぜったい確実なことだけをするというのは、わかっていることだけにすがって生活するということで、そこに個性は存在しないのです。

 

私が校長をしていた時、「ぼくはロボットを研究する」と言って、家でもロボットを作っている中学生がいました。

 

その子は、高校でもロボットを研究すると、国立高専を志願して、合格して三中を卒業していきました。

 

このとき、「ぼくはこれに賭けてみる」という意思は「ぼく」にしかできないことです。

 

その賭け方が「個性」なのだと思います。

 

それでなにか成果が出てくるときもあるし、出にくいこともあるかもしれない。

 

その意味では、個性的に生きるということは、ひとつの大事業です。人生の醍醐味はなにかに賭けるということです。

 

こう考えると、子どもの個性を認めるということは、たいへんなことです。

 

その中学生の親御さんもわが子の進路をよく決心されたことだと思います。

 

わが子にとってよかれと思い、あらかじめ答えがわかっているような、安全パイのような確実な進路だけを歩ませようとすることが多いです。


でもそれは、一度しかない子どもの人生を、誰にでも当てはまる最大公約数のなかに入れようとしているとも言えます。

 

「個性を大切にする」ということは、いい響きをもちますが、その言葉がまことしやかに言われる割には、子どもの個性をみようとしていないのです。

 

 

 

また、個性は数字にかえることができないたいう点もおさえておきたいことです。


中学校での学習で、これが得意だというのは、テストでの数字に表されるので、ある意味わかりやすいのです。

 

だが、「うちの子は人に優しい」というのは、数字で表すことができないことなので、そのように自信をもって言える親はわが子のことをほんとうに理解しているのです。

 

子どものほんとうの姿を正しく評価できれば、これほど強い親子関係はないと言えるのでないでしょうか。自分の子どもを誇れるからです。

 

どの子にもみんな、誇れるところがあると、私は思います。

 

 

 


 

 

 

 


「聴く」は一生懸命な行為

2020年02月07日 08時36分00秒 | 教育・子育てあれこれ



中学生はときとして友だち関係でトラブルにあい、悩みます。

そのとき、教師はその悩む生徒と面談します。

その生徒は3年生の女子生徒でした。

そして、ひとしきり話をして、帰りぎわにこう言って帰っていきました。

「先生、話をいろいろ聴いてくれて、ありがとうございました」。

その子は、自分のつらい気持ちを聴いてもらい、「ありがとう」という気持ちになり、感謝の言葉を出したのです。

教師はカウンセラーとちがい指導する役割もあります。だから、生徒の話しや思いを傾聴しながら、「こうしたら」とかのアドバイスをしているはずです。

でも、その生徒から出てきた言葉は話をした内容というよりは、聴いてくれたことがありがたかったという点がポイントなのです。

したがって、語った内容よりも聴いた行為が教育的な効果なのだと考えます。

聴くことは英語でhearでなくlistenです。つまり、「聴く」は注意を払い一生懸命きく、いいかえれば能動性をもって、積極的にきこうとすることです。

そもそも、聴くという文字は、書いて字のごとく、相手に「耳」と「目」と「心」を傾けてきくことです。

「目は口ほどにものを言う」と言われるように、生徒に視線を向け、そのまなざしに心が乗っかるのです。

さらに、生徒が話すことに、「そうだったのか」「つらかったよなあ」「それはよかった」という言葉が重なってくると、生徒とモードというか波長が同じになってきます。

このとき生徒の中には「わかってくれている」とか「受けとめてくれている」という安心感が生まれてきます。

そして対話をする中で、生徒はまとまりのつかない、モヤモヤした気持ちや考えが整理されてくることもあります。また、あらたな気づきが生まれることもあります。

気持ちの活力が戻り、勇気が出てくる場合が多いのです。

教師の指導が生徒に伝わるか、伝わらないかは、その生徒との関係に大きく影響されます。

だからこそ、生徒と教師の間の日頃からの信頼関係がたいへん重要になるのです。

(この点で、親御さんとお子さんは日頃からの関係があるのだから、「能動的に聴く」ことが十分にできやすいと思われます。)


さて、その「能動性をもって聴く」ときには、生徒自身が語る個人的な事実(かりにそれが間違ったとらえかたであったり、思い込みであったとしても)に基づくことがポイントです。

その個人的な事実にはかならず感情がついています。

その感情にピッタリとくる言葉をかける。これが難しいのです。(私も失敗することがあります。)相手の感情にピッタリとくるふさわしい言葉を懸命にさがすのです。

具体的に言いましょう。

あるひとりの生徒が近づいてきて、先生に言いました。

「先生、来週から、わたし入院します。手術を受けないといけないから」

このとき、先生は一瞬のうちに生徒の心を読んで、

「そうか。手術で入院か。手術するとなると心配だね。不安やね。先生も心配だ」

という本人の不安な気持ちにジャストミートする言葉をかけることができるかどうかです。

ところが、この生徒の不安な心情にそぐわないような

「それは、たいへんだ。授業を休まないといけないな」

と、いきなりそんな言葉を発すると、生徒は「ええ! そこ?」となり、わかってくれてないとなるのです。

人は理屈ではなく、感情で動くことが多いのです。子どもの感情に寄り添うことから、「わかってくれている」となり、「また相談しよう」と次につながるのだと思います。


自由の不自由さ

2020年02月06日 07時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ


芥川龍之介は、数々の名作を残しています。

その彼の言葉に次のようなものがあります。

自由は 山巓(さんてん)の空気に似ている。
弱い者には耐えることができない。

山巓にいたると、空気がひじょうに薄く、体力が乏しければ耐えられません。

それと同じように、「自由」はかならずしも楽なものではありません。多くの中学生が自由を求めます。「自由にしたい」と言ったり、思ったりします。

でも自由には責任が伴うのです。

そのことは、次の言葉でも、表されます。

ある教師が卒業していく生徒に贈った言葉です。

「今まで自由を求めてきたきみは、あすから自由のたいへんさを思い知るだろう」

先人のおかげで

2020年02月05日 06時55分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 私の家には井戸があります。 
 
いまは、水道水をほとんど使うので、井戸水はあまり利用していません。
 
でも、私が子どもの頃は、スイカを井戸に入れて冷やしたりしたことがありました。 
 
今の人は、家を建てたり、学校を建てたりするときに、簡単に井戸を埋める場合が多いのです。 
 
ただし、うちでは家を建て直すとき井戸を埋めたりはしませんでした。井戸はそのまま残して、いまは金網のふたをかぶせて井戸の水が外気に触れるようにしています。 
 
わたしが4年間勤務していた箕面三中では、学校創設時に井戸を埋めざるをえなかったそうです。
 
そこで、今は学校敷地内に噴水池(七ツ角の井)や蓮池(弁慶の鏡水)、上の坪・下の坪として、井戸跡を復興しています。
 
 井戸を人は簡単に埋めようとしますが、それはとんでもないこと。 
 
汗水を流して掘って、掘って、掘り進んで、やっと水が湧き出たのです。
 
そんな先人の苦労を顧みず埋めることは忍びないという思いになります。
 
 
 
 
 いま、私は仕事で箕面五中も回りますが、私は初任者として新設校・箕面五中に着任したのが35年以上前でした。 
 
私も初任者でしたが、新設校をつくる役割の一端を担ったと思っています。
 
この学校は、いまの五中の教職員がつくったのではなく、先人たちが様々な苦労を重ねてつくりあげたものなのです。 
 
そして、その着工の前には、「地域に学校をたてるのだから」と、大切にしていた田んぼや土地を泣く泣く提供してくださった箕面市稲の人びとの理解と協力がありました。 
 
今の自分があるのは、誰かしらの上司や先輩がいてくれたからこそであると、忘れないでいたいと思うのです。

否定するのでなく、受けとる

2020年02月04日 08時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ








親子関係を考えるとき、平素の対話が大切だと、私はつくづく思います。

子どもの言葉に耳を傾けることが、まず基本になります。

そして、子どもの話に、「でも」「だけれども」とか「そんなことないよ」などと打ち消すのを少なくします。

自信をなくしている子どもがよく口にすることばがあります。

私も何度か、いろいろな生徒から聞いたことがあります。

「どうせ、わたしなんか、やってもできないから」

それに対して
「そんなことないよ。あなたもやればできるよ」

と、返すことが多いと思います。

これは、子どもの言うことを打ち消していることになります。

そうではなく、子どもの気持ちを受けとるのがポイントです。

どうせできないという子どもの気持ちを想像してみます。

心の中で望んでいる本当のことは、「私だってもっとできるようになりたい」です。

その気持ちを察して、おとなは言葉を返します。

「できるようになりたい。そう思っているんだね」

否定するのではなく、こんな返しかたを続けていきと、子どもは「わかってくれている」と感じて、「やってみようかな」というやる気に自然につながっていくことが多いのです。

そのやる気が芽生えたら、具体的なサポートの道が開けてくるでしょう。



人に話すことの効用

2020年02月03日 12時46分00秒 | 教育・子育てあれこれ


私たちは、話すことの効果を軽く考えすぎる点があるのではないでしょうか。

自分が仕事に対して感じていること。

わが子について疑問に思っていること。

自分の老後についての不安があること。

こんな教師を目指している。

子どもがこんな人になってほしい。


私たちは、ふつうこのような願いや思いを封印して、忙しく日常生活を過ごしています。

不満や不安、疑問、希望、願望などを、わざわざ他者に話すことは、あまり多くないのがふつうでしょう。

しかし、自分のことを話すことは大きな意味があることが多いのです。

人は自分の不満、不満、疑問、希望、願望などを話しながら、今まで自分が気づいていなかったことに気がつくことがあります。

漠然とした思考が明確になることもあります。

話すことで、相手の問題だと考えていたことが、自分の問題であると理解することもあります。

話さないこと、つまり黙っていることとどう違うのかといえば、人は自分の思っていることや思いを言葉にしているという点です。

人は、自分の思いを言葉にするとき、自分の声を自分で聞いています。そして、自分の思いを理解して、気づくのです。

平素は忙しさや慌ただしさにまぎれ、自分が何を感じているかもわからないまま時間を過ごしているのです。

これは大人だけではないのであり、教育・子育ての分野で、思春期の子どもも同じです。

つまり、親と話す中で、子どもは自分の声を聞き、自分の思いや考えを明確化して、自分の思いや考えを整理していくのです。

これにより、モヤモヤとしていた気持ちがスッキリとして、「よし、こうしょう」という意欲につながることもあります。

だから親が答えを出して、こうしなさいと言わなくても、思春期の子は自分のことは自分で考えることができます。

話すこと、親子の話は、やはり大切だと、あらためて思うのです。

また、思春期の子も大人にも当てはまりますが、自分が話すことで、今まで自分が気がついていなかった心の声を聞くこともあります。

ときには、スマホを置いて、世の中の喧騒から離れて、自分の声を聴いてみましょう。

雑多なものを取り除くと、そのもののありのままが見えます。

編集されたものではない、オリジナルが聴こえます。

気持ちの切り替えができ、あらたな勇気とやる気が湧いてきます。




誰かのために

2020年02月02日 08時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ

人間は、本来的に脅されたり、罰を与えられることはイヤなものです。

親子関係でも、

「遊んでばかりいたら、○○を買わないよ」

「今度、こんな点数をとったら、家族旅行はキャンセルするから」

子どもは、親といい関係でいたい、愛されていたいと願っていて、それを感じるときに、活気とかやる気が出ます。

しかし、脅しや罰を使う親に対しては、いい親子関係を感じないため、やる気は起こりません。

さらに、つねに脅しや罰を受けて育った子は、対人関係で、相手をみて行動するようになります。

相手が優しい人なら横柄な態度をとり、こわい人なら、相手の気分や機嫌をうかがって行動するようになります。

脅されて行う行動は、自分の意思から出たものではないので、怖い人がいないと自分から行動を起こそうとはしません。

これは親子の関係だけでなく、学校での生徒と教師の関係でも同様です。

いわゆる「先生によって態度を変える生徒」というケースです。

したがって、子育てや教育における脅しや罰は、とかく子どもに表と裏を作りやすくなります。

対照的に、他者の役に立つ喜びは、人との関係で、特別な見返りがなくても、「誰かのために」なればと、その人の活気とやる気から出てくる行動です。

ボランティア活動などは、まさしくこれに当てはまります。

東北大地震が起きて以来、AKB48が「誰かのために」と銘打って被災地をまわりライブをずっと行なっています。

見返りなど期待せず、活気とやる気で行動できる態度は、その人の人格として形成され、その人の一生の宝物になります。


人の価値は「生産性」ではない

2020年02月01日 11時10分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今の社会には様々な問題がりますが、その中でも最も大きな問題は、人の価値を何かができることで決めようとすることだと思います。

「性的少数者は生産性がない」と、おととし月刊誌の中で持論を書いた国会議員がいました。

また、津久井やまゆり園では「重度障害者は生きていてもしかたがない」という主張をした犯人から何人もの人が命を奪われました。

また、最近の文部科学省の教育政策が、次代の社会に有能な人を育てるという目的を重要視しています。

これも、広い意味では児童生徒が「何かができる人」になるように求めていると考えられると思います。

人間の価値を、何かができること(=生産性)できめることは大きな誤りです。誰もが働くことができるのではありません。

障害者、高齢者、病気の人などに価値がないのではなく、さまざまで多様な人が暮らしていけるのが健全な社会です。

人は生きていること自体に価値があり、尊いのです。

子育てに関しても同じです。なにか子どもにできないことや課題があっても、その子が存在していることが尊く、「ありがたい」のです。

この考えに立った時、子どもが行ったことやしてくれたことに対して、大人は「ありがとう」ということは自然なことです。

私が以前の職場に中学生につねに「ありがとう」という同僚の先生がいました。

その先生を慕ってたくさんの生徒が集まってきたのを、今、思い出します。