役職が「宣教師」であり、韓国で神学校に行っている私に、ときどき
「どうしてこんな事になったんですか?」
という質問が寄せられます。
どうしてこうなったんだろう??
本当に不思議です。
ところで、
自分に影響力を与えた人って誰ですか?とこないだセルで聞かれました。
人数も多かったので、私には振られませんでしたが、誰かなぁと考えましたね。
そして数人思い浮かぶ人々、それが、「宣教師さんたち」なんです。
宣教師って言ってもフランシスコザビエルみたいに、レースのついたブラウスを着てスペインとかポルトガルから来る白人ではなく、普通の(多くは)日本人のおじさんたちでした。
彼らの魅力は、文字ではナカナカ言い表しきれません。
彼らの多くは・・・
この世の鬱々とした壁を超越した雰囲気を出しています。
じゆ~な柔軟な雰囲気です。
ストレスを右に、左に、と避ける秘訣を持っている人が多いです。
不足や、不便、
何か自分の概念と違っていた!ということを、面白がります。
生活の多くの場面を積極的に楽しみます。
そういう彼らは、日本に帰ってくると逆カルチャーショックを受けることもありますが、ある宣教師は、帰国して日本での仕事を完全にスタートさせて何年もたっているのに、日本の生活を新鮮に楽しみ、面白い看板の文句などを、いちいちメモ帳にメモっていました。
想像を超える、「生活楽しみ力」。
私が思ってもみなかったところに、気がつく人々が多いのです。
私はそれらの宣教師たちとの交流を通じて、
神様を信じた自分の人生を、この人たちのようにしたいと思いました。
宣教師として出て行く土地の多くは、日本とは違う経済や文化や自然を持っていますが、その土地で起こる様々なことを楽しく報告してくれる彼らの話は、若い私にとって、何よりも楽しく感動的で刺激的でした。
南米で宣教している人は、夕食をとっているときに足元を見たら、
ワニがいた話をしてくれました。
食べ物についてもかなり面白いです。
鶏肉を食べようとしたら一匹まるごと殺さなければならない国もあるし、
臭くて食べられないようなものが、必須栄養源だったり。
工夫して、母国の味を出している宣教師の奥さんにも、感動です。
気候の厳しいところで、どのように知恵深く生活するか。
極寒の土地で見る、ダイヤモンドダスト。
これらの話は、私が日常生活で無ければ困ると思っている多くの文化的産物よりも、神様が与えてくださる環境で、神様の知恵に頼って生活をし、必要を満たしてくださる神様を喜び楽しむことを教えてくれました。
目に見えるものに頼るよりも、また、目に見えるものを完璧に整えることよりも、はるかに「神様の下さる目に見えない楽しさ」に満ち溢れている彼らに会うことが
若い私には、とても必要な事でした。
24歳か25歳かの時にどんな人と結婚したいかという話を教会の友だちとしていた時、私はこう言った記憶が今も鮮明です。
私:「あら、あなた~今日は食べるものが無いわ!どうしましょう?」
夫:「そうだな、心配することは無いさ。その川に行って、魚を捕まえればいいよ!」
こういう人と結婚したいと私は言ったんです…。
友だちは「はぁ~?」って言ってましたけど、
私は日常の全てを、心配せず、神様に全面的に信頼して、慌てず、落ち込まず、信仰をもって日々をしっかり歩いていける人という意味でこの話をしました。
むしろ、欠けを楽しむくらいの人。
そういう思いを持つようにしてくれたのが、偏狭の地で宣教師としてご苦労されているであろう、彼らでした。
事実、苦労されていると思うんですよ。
でも、苦労よりも、ずっと神様の助けを頂いた記憶が鮮明のように思わされます。
彼らの話にはそういう力がありました。
私は、大学受験にも失敗し、一番行きたくなかった短大に入ったんですが、そこで何故か選択で専攻する事にしたのが「アジア文化」でした。
何でこれを自分が選んだのか今でも分かりません。
でも、それを選択したのは自分でした。
そして、宣教師たちが話しているような、世のある国の、ある民族のある村で行われている宗教的な儀式や、民俗信仰、死生観を学問として学ぶようになりました。そして、私は宣教師になって、どこかの国に行き、福音を伝えたり、聖書を届ける人になりたいと思うようになりました。
というわけで、私は宣教師を、永遠の目的地として持って、今まで歩いてきました。
しかし言うまでも無く、宣教師は、ストレスを避けたり、楽しんだりしているだけが人生ではなく宣教することが仕事ですね。
私には、その辺のチカラはどう考えても、欠けていたようです。
それをいま、どういうわけか、ここ韓国で、神様の愛に浸り、人々からの愛に浸り、充填している状態にあるわけです。
神学まで勉強させてもらい、しかもその神学も、感動の連続で、今、宣教師として必要だったキボンを、ここで築いているようです。
異文化や、生活を楽しもうというやる気は、すでにお会いしてきた宣教師の方たちからかなり刺激を受けているので、韓国生活はエキサイティングです。
あぁ、先生皆さん、
本当にあなた達に出会ってよかったです。
宣教師さんたち、尊くてすごい仕事をしていながら、
汗と土にまみれて、生活を楽しむ皆さんの姿が大好きでした。
「どうしてこんな事になったんですか?」
という質問が寄せられます。
どうしてこうなったんだろう??
本当に不思議です。
ところで、
自分に影響力を与えた人って誰ですか?とこないだセルで聞かれました。
人数も多かったので、私には振られませんでしたが、誰かなぁと考えましたね。
そして数人思い浮かぶ人々、それが、「宣教師さんたち」なんです。
宣教師って言ってもフランシスコザビエルみたいに、レースのついたブラウスを着てスペインとかポルトガルから来る白人ではなく、普通の(多くは)日本人のおじさんたちでした。
彼らの魅力は、文字ではナカナカ言い表しきれません。
彼らの多くは・・・
この世の鬱々とした壁を超越した雰囲気を出しています。
じゆ~な柔軟な雰囲気です。
ストレスを右に、左に、と避ける秘訣を持っている人が多いです。
不足や、不便、
何か自分の概念と違っていた!ということを、面白がります。
生活の多くの場面を積極的に楽しみます。
そういう彼らは、日本に帰ってくると逆カルチャーショックを受けることもありますが、ある宣教師は、帰国して日本での仕事を完全にスタートさせて何年もたっているのに、日本の生活を新鮮に楽しみ、面白い看板の文句などを、いちいちメモ帳にメモっていました。
想像を超える、「生活楽しみ力」。
私が思ってもみなかったところに、気がつく人々が多いのです。
私はそれらの宣教師たちとの交流を通じて、
神様を信じた自分の人生を、この人たちのようにしたいと思いました。
宣教師として出て行く土地の多くは、日本とは違う経済や文化や自然を持っていますが、その土地で起こる様々なことを楽しく報告してくれる彼らの話は、若い私にとって、何よりも楽しく感動的で刺激的でした。
南米で宣教している人は、夕食をとっているときに足元を見たら、
ワニがいた話をしてくれました。
食べ物についてもかなり面白いです。
鶏肉を食べようとしたら一匹まるごと殺さなければならない国もあるし、
臭くて食べられないようなものが、必須栄養源だったり。
工夫して、母国の味を出している宣教師の奥さんにも、感動です。
気候の厳しいところで、どのように知恵深く生活するか。
極寒の土地で見る、ダイヤモンドダスト。
これらの話は、私が日常生活で無ければ困ると思っている多くの文化的産物よりも、神様が与えてくださる環境で、神様の知恵に頼って生活をし、必要を満たしてくださる神様を喜び楽しむことを教えてくれました。
目に見えるものに頼るよりも、また、目に見えるものを完璧に整えることよりも、はるかに「神様の下さる目に見えない楽しさ」に満ち溢れている彼らに会うことが
若い私には、とても必要な事でした。
24歳か25歳かの時にどんな人と結婚したいかという話を教会の友だちとしていた時、私はこう言った記憶が今も鮮明です。
私:「あら、あなた~今日は食べるものが無いわ!どうしましょう?」
夫:「そうだな、心配することは無いさ。その川に行って、魚を捕まえればいいよ!」
こういう人と結婚したいと私は言ったんです…。
友だちは「はぁ~?」って言ってましたけど、
私は日常の全てを、心配せず、神様に全面的に信頼して、慌てず、落ち込まず、信仰をもって日々をしっかり歩いていける人という意味でこの話をしました。
むしろ、欠けを楽しむくらいの人。
そういう思いを持つようにしてくれたのが、偏狭の地で宣教師としてご苦労されているであろう、彼らでした。
事実、苦労されていると思うんですよ。
でも、苦労よりも、ずっと神様の助けを頂いた記憶が鮮明のように思わされます。
彼らの話にはそういう力がありました。
私は、大学受験にも失敗し、一番行きたくなかった短大に入ったんですが、そこで何故か選択で専攻する事にしたのが「アジア文化」でした。
何でこれを自分が選んだのか今でも分かりません。
でも、それを選択したのは自分でした。
そして、宣教師たちが話しているような、世のある国の、ある民族のある村で行われている宗教的な儀式や、民俗信仰、死生観を学問として学ぶようになりました。そして、私は宣教師になって、どこかの国に行き、福音を伝えたり、聖書を届ける人になりたいと思うようになりました。
というわけで、私は宣教師を、永遠の目的地として持って、今まで歩いてきました。
しかし言うまでも無く、宣教師は、ストレスを避けたり、楽しんだりしているだけが人生ではなく宣教することが仕事ですね。
私には、その辺のチカラはどう考えても、欠けていたようです。
それをいま、どういうわけか、ここ韓国で、神様の愛に浸り、人々からの愛に浸り、充填している状態にあるわけです。
神学まで勉強させてもらい、しかもその神学も、感動の連続で、今、宣教師として必要だったキボンを、ここで築いているようです。
異文化や、生活を楽しもうというやる気は、すでにお会いしてきた宣教師の方たちからかなり刺激を受けているので、韓国生活はエキサイティングです。
あぁ、先生皆さん、
本当にあなた達に出会ってよかったです。
宣教師さんたち、尊くてすごい仕事をしていながら、
汗と土にまみれて、生活を楽しむ皆さんの姿が大好きでした。