このブログは政治・経済全般をテーマとしています。司法制度改革、司法修習生に対する給費制の是非は、政治テーマのひとつ、という位置づけです。したがって司法修習生に対する給費制の是非(または貸与制の是非)ばかりを取り上げたくはないのですが、
この際、給費制維持の根拠として主張されているもの(このブログのコメント欄等に出てきたもの)について、私の意見を簡潔にまとめておきます。
なお、私は給費制に反対しています。私がなぜ給費制に反対しているのかについては、「私が司法修習生の給費制に反対する理由」をお読みください。
一、お金持ちしか法律家になれなくなる
これは給費制維持の根拠にならないと思います。お金持ちしか医師になれなくなるのは、かまわないのですか? お金持ちしか研究者になれなくなるのは、かまわないのですか? と問いたくなります。
そもそも、「お金持ちでなくとも法律家になれる」ルートが制度的に用意されています。したがって、「お金持ちしか法律家になれなくなる」というわけではありません。
日弁連には国民全体でみてどうか、制度全体のバランスからみてどうか、という観点から主張していただきたいと思います。法律家(全体)の利益「のみ」を重視しているかのような主張は、いただけません。また、「お金持ちでなくとも法律家になれる」方法があることを(おそらく意図的に)言わず、「お金持ちしか法律家になれなくなる」などと主張するのも、どうかと思います。
二、司法修習生はどうやって暮らしていけばよいのか
これは、いままで支給されていた給費(つまり給与)が廃止されると、司法修習生は暮らしていけなくなる。したがって司法修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
これも給費制維持の根拠にならないと思います。給費制を廃止する場合、相当額が「無利子」貸与されることになっており、司法修習生が暮らしていけなくなる、などといったことはありません。
三、司法修習生には、労働者としての側面もある
これは司法修習生は「補助的な業務」を行っている、したがって修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
この主張をなさった方によれば、「補助的な業務」といえるのは司法修習のうち「検察修習の2か月間のみ」だとのことです。つまり司法修習の「ごく一部」については、「補助的な業務」であるといえるから「修習生には給与を支給すべきだ」という主張です。
しかし、このような主張は「おかしい」と思います。全体の「ごく一部」が「補助的な業務」であるので、司法修習の「全期間」について給与を支給しろ、といった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。
四、研修医とのバランスがとれない
これは研修医と同様、司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
研修医は医師資格をもった医師であるのに対し、司法修習生は法曹資格をもった法律専門家ではありません。医師資格をもっている研修医と、法曹資格をもっていない司法修習生とを比較し、両者を同様に扱わなければバランスがとれない、などといった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。司法修習生の修習は、研修医の研修ではなく、(医師資格をもたない)医学部学生の臨床実習に相当する、と考えるのが自然です。
したがって、これも司法修習生に給費(給与)を支給する根拠になりません。
五、司法修習は民間企業のOJTに相当する
これは司法修習生が一人前ではないことを認めたうえで、民間企業においては一人前でなくともOJTの際には給与が支給されているではないか。したがって司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
この主張に対しては、司法修習生の圧倒的大多数は弁護士になるにもかかわらず、なぜ、「国が」司法修習生に給与を支給すべきなのかという疑問が生じます。
この主張の趣旨に即して(私なりに)考えれば、「裁判官または検察官になる修習生」と「弁護士になる修習生」の割合に応じ、前者については「国が」、後者については「弁護士会が」給与を支給すべきである、ということになると思います。
このような「国」と「弁護士会」との給与分担制であれば、私は問題なく認められると思います。
六、司法修習生は「拘束」されている
この主張は、「国が」司法修習生を「拘束」している以上、「国が」司法修習生に給費を支給すべきである、というものです。なお、この主張をされた方(おそらく司法修習生)によれば、「拘束」とは「指揮・命令・監督配下にある」ことを指す、とのことです。
たしかに、修習にはそのような側面があることは否定しえないとは思いますが、これは「法曹資格をもたない」司法修習生が「現場」で修習するうえでの「当然の制約」だと思います。このような「当然の制約」をもって、制約の対価として給与を支給しろ、自由侵害の代償として対価を給付しろ、といった主張をすることは「おかしい」と思います。
つまりこれも、司法修習生に対する給与支給の根拠にはならない、と私は思います。そもそも、「そんなに司法修習が嫌なのであれば、司法修習生は給与の支給ではなく、司法修習の廃止を主張すべき」だと思います。
さて、上記のような「根拠にならない」または「根拠として弱い」理由をもって、司法修習生には給与を支給すべきだ、と主張されていることそれ自体が、給与の支給は「おかしい」のではないか、という印象を与えます。つまり、修習生に対する給与支給には「もともと合理的な根拠がない」ので、利害関係をもつ人々が「無理して根拠をさがしだそうとしている」といった感じがします。
もしも、利害関係をもつ人々が「もともと合理的な根拠がない」にもかかわらず、利権(?)維持のために根拠をさがしだそうとしているのであれば、やめたほうがよいでしょう。また、そうではなく、(給費制維持を主張する人々が)本当に給与支給には「合理的な根拠がある」と考えているのであれば、上記に記載したような、「おかしな」根拠は主張しないほうがよい、と思います。「もともと合理的な根拠がない」ので、「無理して根拠をさがしだそうとしている」のではないか、といった疑いをまねくからです。
なお、これまで(私なりに)検討してきた上記「給費制維持の根拠」とはやや異なった主張も、当ブログのコメント欄でなされました。
以下では、その主張を(私なりに)要約しつつ紹介し、その是非を考えたいと思います。
七、総合得点方式で考えるべきである
この主張の要点は、上記「給費制維持の根拠」はすべて、「単独では給費制維持の根拠にならない」ことを認めつつも、「それらを合計すれば根拠になる」というものです。
わかりやすくいえば、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えれば、給費制維持の根拠として十分である」という主張です。
たしかに、個々の要素を「総合的に」考えるべきだとは思います。この点には同意します。しかし、なぜ「足し算」をするのでしょうか? この論法の問題点は、この「足し算」にあります。
なぜ「足し算」がおかしいのか。
それは、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えればわかります。
上記論法によって、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えた」としましょう。
しかし、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えれば、
「お金持ちしか法律家になれない『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある『とはいえない』」という要素で、80点(100点-20点)獲得。「研修医とのバランスがとれない『とはいえない』」という要素で、90点(100点-10点)獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。したがって、「合計で100点を超えた」ので「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」ということになります。
さて、上記論法によって、「給与を支給すべきである」(=給費制を維持すべきである)という結論と、「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」(=給費制を廃止すべきである)という結論、両方が導かれました。どちらの結論が正しいでしょうか? 答えは「あきらか」です。正しいのは「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」です。
もともと、「50点に満たない」要素を次々に「足し算」して100点を超えたところで、その主張(政策)が「正しい」とはいえないはずです。総合的に考えることは重要だと思いますが、「総合的に考える」イコール「足し算」ではないと思います。
結論としては、司法修習生に対する給費制(給与支給制)を維持すべきだとする根拠は、すべて「根拠にならない」または「根拠というには弱すぎる」ということになります。
■関連記事
「日弁連の「司法修習生に対する給費制維持」論について」
「なぜ司法修習生に給与を支払う必要があるのか」
「司法修習生の労働者性」
「司法修習生は研修医にはあたらない」
「「司法修習生の司法修習」は「民間会社の新人研修」にはあたらない」
「司法修習生の給費制、一年延長の見通し」
「司法修習生に対する貸与の返済免除制度について」
この際、給費制維持の根拠として主張されているもの(このブログのコメント欄等に出てきたもの)について、私の意見を簡潔にまとめておきます。
なお、私は給費制に反対しています。私がなぜ給費制に反対しているのかについては、「私が司法修習生の給費制に反対する理由」をお読みください。
一、お金持ちしか法律家になれなくなる
これは給費制維持の根拠にならないと思います。お金持ちしか医師になれなくなるのは、かまわないのですか? お金持ちしか研究者になれなくなるのは、かまわないのですか? と問いたくなります。
そもそも、「お金持ちでなくとも法律家になれる」ルートが制度的に用意されています。したがって、「お金持ちしか法律家になれなくなる」というわけではありません。
日弁連には国民全体でみてどうか、制度全体のバランスからみてどうか、という観点から主張していただきたいと思います。法律家(全体)の利益「のみ」を重視しているかのような主張は、いただけません。また、「お金持ちでなくとも法律家になれる」方法があることを(おそらく意図的に)言わず、「お金持ちしか法律家になれなくなる」などと主張するのも、どうかと思います。
二、司法修習生はどうやって暮らしていけばよいのか
これは、いままで支給されていた給費(つまり給与)が廃止されると、司法修習生は暮らしていけなくなる。したがって司法修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
これも給費制維持の根拠にならないと思います。給費制を廃止する場合、相当額が「無利子」貸与されることになっており、司法修習生が暮らしていけなくなる、などといったことはありません。
三、司法修習生には、労働者としての側面もある
これは司法修習生は「補助的な業務」を行っている、したがって修習生には給与を支給すべきだ、という主張なのですが、
この主張をなさった方によれば、「補助的な業務」といえるのは司法修習のうち「検察修習の2か月間のみ」だとのことです。つまり司法修習の「ごく一部」については、「補助的な業務」であるといえるから「修習生には給与を支給すべきだ」という主張です。
しかし、このような主張は「おかしい」と思います。全体の「ごく一部」が「補助的な業務」であるので、司法修習の「全期間」について給与を支給しろ、といった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。
四、研修医とのバランスがとれない
これは研修医と同様、司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
研修医は医師資格をもった医師であるのに対し、司法修習生は法曹資格をもった法律専門家ではありません。医師資格をもっている研修医と、法曹資格をもっていない司法修習生とを比較し、両者を同様に扱わなければバランスがとれない、などといった主張が「おかしい」ことは、あきらかだと思います。司法修習生の修習は、研修医の研修ではなく、(医師資格をもたない)医学部学生の臨床実習に相当する、と考えるのが自然です。
したがって、これも司法修習生に給費(給与)を支給する根拠になりません。
五、司法修習は民間企業のOJTに相当する
これは司法修習生が一人前ではないことを認めたうえで、民間企業においては一人前でなくともOJTの際には給与が支給されているではないか。したがって司法修習生にも給与を支給すべきである、という主張なのですが、
この主張に対しては、司法修習生の圧倒的大多数は弁護士になるにもかかわらず、なぜ、「国が」司法修習生に給与を支給すべきなのかという疑問が生じます。
この主張の趣旨に即して(私なりに)考えれば、「裁判官または検察官になる修習生」と「弁護士になる修習生」の割合に応じ、前者については「国が」、後者については「弁護士会が」給与を支給すべきである、ということになると思います。
このような「国」と「弁護士会」との給与分担制であれば、私は問題なく認められると思います。
六、司法修習生は「拘束」されている
この主張は、「国が」司法修習生を「拘束」している以上、「国が」司法修習生に給費を支給すべきである、というものです。なお、この主張をされた方(おそらく司法修習生)によれば、「拘束」とは「指揮・命令・監督配下にある」ことを指す、とのことです。
たしかに、修習にはそのような側面があることは否定しえないとは思いますが、これは「法曹資格をもたない」司法修習生が「現場」で修習するうえでの「当然の制約」だと思います。このような「当然の制約」をもって、制約の対価として給与を支給しろ、自由侵害の代償として対価を給付しろ、といった主張をすることは「おかしい」と思います。
つまりこれも、司法修習生に対する給与支給の根拠にはならない、と私は思います。そもそも、「そんなに司法修習が嫌なのであれば、司法修習生は給与の支給ではなく、司法修習の廃止を主張すべき」だと思います。
さて、上記のような「根拠にならない」または「根拠として弱い」理由をもって、司法修習生には給与を支給すべきだ、と主張されていることそれ自体が、給与の支給は「おかしい」のではないか、という印象を与えます。つまり、修習生に対する給与支給には「もともと合理的な根拠がない」ので、利害関係をもつ人々が「無理して根拠をさがしだそうとしている」といった感じがします。
もしも、利害関係をもつ人々が「もともと合理的な根拠がない」にもかかわらず、利権(?)維持のために根拠をさがしだそうとしているのであれば、やめたほうがよいでしょう。また、そうではなく、(給費制維持を主張する人々が)本当に給与支給には「合理的な根拠がある」と考えているのであれば、上記に記載したような、「おかしな」根拠は主張しないほうがよい、と思います。「もともと合理的な根拠がない」ので、「無理して根拠をさがしだそうとしている」のではないか、といった疑いをまねくからです。
なお、これまで(私なりに)検討してきた上記「給費制維持の根拠」とはやや異なった主張も、当ブログのコメント欄でなされました。
以下では、その主張を(私なりに)要約しつつ紹介し、その是非を考えたいと思います。
七、総合得点方式で考えるべきである
この主張の要点は、上記「給費制維持の根拠」はすべて、「単独では給費制維持の根拠にならない」ことを認めつつも、「それらを合計すれば根拠になる」というものです。
わかりやすくいえば、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えれば、給費制維持の根拠として十分である」という主張です。
たしかに、個々の要素を「総合的に」考えるべきだとは思います。この点には同意します。しかし、なぜ「足し算」をするのでしょうか? この論法の問題点は、この「足し算」にあります。
なぜ「足し算」がおかしいのか。
それは、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えればわかります。
上記論法によって、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えた」としましょう。
しかし、問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきでないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換えれば、
「お金持ちしか法律家になれない『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある『とはいえない』」という要素で、80点(100点-20点)獲得。「研修医とのバランスがとれない『とはいえない』」という要素で、90点(100点-10点)獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する『とはいえない』」という要素で、60点(100点-40点)獲得。したがって、「合計で100点を超えた」ので「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」ということになります。
さて、上記論法によって、「給与を支給すべきである」(=給費制を維持すべきである)という結論と、「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」(=給費制を廃止すべきである)という結論、両方が導かれました。どちらの結論が正しいでしょうか? 答えは「あきらか」です。正しいのは「給与を支給すべきではない、給与を支給してはならない」です。
もともと、「50点に満たない」要素を次々に「足し算」して100点を超えたところで、その主張(政策)が「正しい」とはいえないはずです。総合的に考えることは重要だと思いますが、「総合的に考える」イコール「足し算」ではないと思います。
結論としては、司法修習生に対する給費制(給与支給制)を維持すべきだとする根拠は、すべて「根拠にならない」または「根拠というには弱すぎる」ということになります。
■関連記事
「日弁連の「司法修習生に対する給費制維持」論について」
「なぜ司法修習生に給与を支払う必要があるのか」
「司法修習生の労働者性」
「司法修習生は研修医にはあたらない」
「「司法修習生の司法修習」は「民間会社の新人研修」にはあたらない」
「司法修習生の給費制、一年延長の見通し」
「司法修習生に対する貸与の返済免除制度について」
それなら「弁護士の公益性」を(あなたが)強調する以上、修習を分離すべきだと主張すべきことになりますね。逆にいえば、統一修習を前提とするなら「弁護士の公益性」を理由として「国が」給費を全額負担すべきだなどと主張してはならない、ということになると思います。
> 今後も給費制問題に限らずブログを読ませていただきます。
このブログは、司法制度改革の話が全体に占める割合は「少ない」ですよ? それでも構わないなら、今後ともよろしくお願いいたします。
私が法曹を目指したのは、私の家族が犯罪の被害にあったとき、弁護士さんが(非常にお若い方でした)全くのボランティアで支援してくれたことがきっかけです。
もしも多額の借金を背負った状況だったら、あのようなことをしていただけたか、非常に志の高い方でしたが多額の借金を背負った状態では現実問題として困難ではなかったか、ということから給費制問題に興味を持ちました。
このように個人的な事情から入りましたので、ブログ主さまの視点はとても参考になりました。
感謝しております。
ただ、権力に都合のよい方向で弁護士が養成される危険があるため弁護士会が給費を出すべきというのも十分に考えられる議論であり、参考にさせていただきます。
この度は丁寧なご対応をありがとうございました。
今後も給費制問題に限らずブログを読ませていただきます。
②『優秀な人材の絶対数も少な』いのは元からである。日本の法曹は世界一だ、などと言っているのは日本の法曹だけである。自分たちは「優秀である」ことを前提とした議論は噴飯ものである。
③『食べていけるだけの収入は得たい』。「国(公権力)に対峙する弁護士を、国(公権力)のお金(及び責任)で養成するのですか? それは変だと思います。」という根源的な疑問に正面から答えず逃げるような者は、法曹としての適格性に欠けるから、法曹として食べていけなくて結構である。
ただ、現実に多額の借金をせざるを得ない状況が差し迫っている身としては、給費制をいきなりなくすより先に、そのような給与分担制を整備してくれたらよかったのに、と感じます。
自分で選んだ道ですから、私個人のことに関しては自己責任ともいえますが、このような私たちの状況をみれば、少なくとも給費制に替わる制度が整備されるまでの間は、法曹を目指す人がますます減ってしまうだろうし、そうなれば優秀な人材の絶対数も少なくなってしまうんじゃないかなあ、という危惧はあります。
ブログ主様の応援、嬉しく思います。
法曹を目指したのは、周りの人の力になりたいという気持ちからです。
食べていけるだけの収入は得たいですが、初心を忘れないで立派な法曹になりたいと思います。
あなたの主張の趣旨は理解しています。しかし、公権力と対峙する弁護士を公権力のお金で養成することになれば、公権力に都合のよい方向で弁護士が養成される危険があると思います。私が「国(公権力)に対峙する弁護士を、国(公権力)のお金(及び責任)で養成するのですか? それは変だと思います。」と述べているのは、このような趣旨です。
修習予定者さん、
> ブログ主様の理屈も、長い目で見ればありかもしれません。
ご理解いただけたようで、なによりです。ただ、私としては、「理屈」ではなく、「論理」と書いていただければ、もっとうれしいです。
> ただ、給費制の廃止がこれだけ反対されているのは、司法修習の意義や弁護士業の公益性というような理念的な理由からだけではないように感じます。
> 司法修習の強制やバイト禁止、修習地を選べない、といった制度全体の設計は維持されたままで、給費制だけがまず第一に廃止されてしまった現実、そのひずみを受け止めなくてはいけない修習予定者が現にたくさんいるのです。
これはわかります。以前、弁護士さんが「給費制廃止に賛成している弁護士は給費など廃止されても『弁護士になれば、それくらいすぐに稼げる』と考えているのではないか」と書かれているのを読んだことがあります。
けれども、私の主張「国と弁護士会との給与分担制」であれば、修習予定者さんが書かれているような問題も生じないと思います。
そもそも、アルバイトをしたところで、月に20万円程度稼げるとは(常識的には)とても考えられません。休日にアルバイトをするのであれば、月に2~3万円稼ぐのが精一杯でしょう。したがって、(私はアルバイト容認派ですが)アルバイト禁止は月額20万円程度の給与を支給すべきだ、と主張する根拠にはならない(根拠として弱すぎる)と思います。
ところで、裁判官または検察官になる修習生に給費(給与)全額を支給する場合の総額は、弁護士になる修習生も含め、すべての修習生に月額2~3万円の給費(給与)を支給する場合の総額と(ほぼ)一致します。さらに、月額2~3万円という数値は、(上述の)アルバイトをした場合に稼げる金額とも一致します。また、修習の労働としての側面が「全体の2割程度」と言われていることとも(ほぼ)一致します。
この一致は、偶然の一致でしょうか? 偶然の一致だと考える余地もあるとは思いますが、そこにはなんらかの必然性があるのではないか、これは必然の一致ではないか、と考えるのが自然ではないでしょうか? この一致が必然であるとすれば、それはすなわち、私の主張する「国と弁護士会との給与分担制」が「正しい」からではないでしょうか?
(私はまだ確認していませんが)下記記事のコメント欄に寄せられた情報によれば、日弁連会長も「弁護士会が(修習生の)給与を負担してもよい」と考えておられるようです。
私の主張には、かなりの合理性があるのではないかと思います。
「司法修習生の給費制問題の解決策」
http://blog.goo.ne.jp/memo26/e/6888fbe846ac43ed6398997a9cb42592
最後になりますが、法曹志望者さん、修習予定者さん、あなた方がなぜ、法曹になろうとされているのか、それは(私には)わかりませんが、(自己の利益・金儲けではなく)「社会のため、国民のため、公益のため」という気持ちを持ち続けてくださるならば、私は応援します。失礼な言いかたかもしれませんが、立派な法曹になられることを、心よりお祈りいたしております。
誤:「給費制がこれだけ反対されているのは」
正:「給費制の廃止がこれだけ反対されているのは」
です。
ただ、給費制がこれだけ反対されているのは、司法修習の意義や弁護士業の公益性というような理念的な理由からだけではないように感じます。
司法修習の強制やバイト禁止、修習地を選べない、といった制度全体の設計は維持されたままで、給費制だけがまず第一に廃止されてしまった現実、そのひずみを受け止めなくてはいけない修習予定者が現にたくさんいるのです。
私もその一人。関東で生まれ育ち、都内での就職を希望して関東での修習を希望しましたが、縁もゆかりもない雪国に配属されました。
既に300万円の借金(奨学金)を負った身で、アルバイトも禁止される中、家探し、家賃に生活費、新生活の準備等、全て自己負担です。
同じような人はたくさんいます。
ブログ主様は、アルバイトは認めてよいとのご意見ですが、そう言われても、私たちは、「いま」それが認められていないのですよ。
制度改革をする際に、他を変えないままで給費制からまず廃止することの合理性が、ひとつ大きな問題となっているように感じます。
私の表現力不足で議論が停滞しお手数をおかけしてしまい申し訳ありません。
私が言いたかったのは権力と対峙するという役割が必要だから民間人としての役割が与えられているのであって、その実質を見れば裁判官、検察官と協働して司法権を担っているのではないかということです。
それこそがはじめに申し上げました統一修習の意義ではないのでしょうか。同じ試験が課され、法曹三者として括られ、弁護士任官や判検交流など互いに行き来が可能なのも、法曹一元という理解が根底にあります。
そうでなければ弁護士になるのに何故裁判官や検察官の研修まで受けなくてはならないのでしょうか。
だから権力と対峙する弁護士を国が養成することもおかしくはなく、むしろ司法権を担う人材としてこれを育てるのは国の責任ではないか思います。
あなたは「民間人だからという理由でその養成を国がする必要はないというのは形式的に過ぎると思います。」と書いておられますが、
私はあなたとの(コメント欄での)話のなかで、次のように書いています。したがって、あなたの書き込みは、私の返事に対する回答(または批判)にはなっていません。
----- 以下は引用 -----
> 例えば刑事事件で弁護士が公務員という立場であったら権力と対峙できず人権保障がなされません。弁護士は民間人であっても国の根幹に関わる三権のうちの司法権を担う存在なのです。このような意味で公共性があり、社会インフラといえるので、その養成は基本的には国の責任だと私は思うのです。
国(公権力)に対峙する弁護士を、国(公権力)のお金(及び責任)で養成するのですか? それは変だと思います。
だから憲法に規定されている唯一の民間人なのです。
民間人だからという理由でその養成を国がする必要はないというのは形式的に過ぎると思います。
1.引き算について
「お金持ちしか法律家になれない」→「だから給費制維持は説得的だ」であり、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だから給費制廃止は説得的だ」ではないでしょうか? また、「日本の財政は逼迫している」→「だから給費制廃止は説得的だ」であり、「日本の財政は逼迫していない(余裕がある)」→「だから給費制維持は説得的だ」ではないでしょうか?
と、述べられていますが、それは違います。「お金持ちしか法律家になれない」→「だから給費制維持は説得的だ」はその通りです。しかし、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だから給費制廃止は説得的だ」は誤りです。正しくは、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だからこの観点からは給費制を維持すべきかどうかは、どちらともいえない」となります。同じく、「日本の財政は逼迫していない(余裕がある)」→「だから給費制維持は説得的だ」も誤りで、「だからこの観点からは給費制を廃止すべきかどうかは、どちらともいえない」となります。
memo26さんが、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だから給費制廃止は説得的だ」と考えたのは、思考の前提として「他の職業とのバランス」や「財政の逼迫」という別の理由が(おそらく)無意識のうちに考慮されているからです。
ほかに足し算がおかしいという理由があるならそれを示していただきたいです。
★私の回答
「給費制維持」と「給費制廃止」は両立しません。「給費制維持」と「給費制廃止」に相反する関係にあり、「どちらか片方」を選択しなければならないわけです。とすれば、給費制の是非を考える際には、あなたの主張は成り立たず、私の考えるように「引き算」が正しい、ということになると思います。
次に、「引き算」を使わずに「足し算」が「おかしい」ことを示します。「総合得点方式」では、個々の要素を100点満点で評価した後で、得点を合計(足し算)していますが、なぜ、「合計で100点を超えれば、給費制維持の根拠として十分である」といえるのでしょうか? たとえば4つの要素を合計するのであれば、満点は400点ですから、「合計で200点」を超えなければならないはずです。再度、総合得点方式の説明を引用します。
--- ここから引用 ---
七、総合得点方式で考えるべきである
この主張の要点は、上記「給費制維持の根拠」はすべて、「単独では給費制維持の根拠にならない」ことを認めつつも、「それらを合計すれば根拠になる」というものです。
わかりやすくいえば、「お金持ちしか法律家になれない」という要素で、40点獲得。「司法修習生には、労働者としての側面もある」という要素で、20点獲得。「研修医とのバランスがとれない」という要素で、10点獲得。「司法修習は民間企業のOJTに相当する」という要素で、40点獲得。このようにして、「合計で100点を超えれば、給費制維持の根拠として十分である」という主張です。
--- ここまで引用 ---
2.OJTについて
OJTで教える修習生は、ほとんどの場合自分の事務所で働くことにはならず、ライバル事務所の新人になることもあるとはいえ、「弁護士全体」(弁護士会レベル)でみれば、問題にはなりません。
と述べておられますが、ここで問題なのは、「『弁護士全体』(弁護士会レベル)でみれば』という視点です。なぜ、弁護士界全体としてみるべきといえるのでしょうか?費用を負担しているのは各弁護士でしょう(弁護士会負担と言ったところで、それは各弁護士の会費の負担増となります)。
★私の回答
これは給費制の是非ではなく、私の「費用・給与分担方式」についての話ですね。私が「弁護士全体」(弁護士会レベル)でみれば問題にはなりません、と書いたのは、話がややこしくなるのを避けるためで、「弁護士個人」でみれば問題が生じる、と考えているからではありません。つまり、「個々の弁護士=弁護士個人レベル」でみても、「弁護士全体=弁護士会レベル」でみても、私の主張はバランスがとれていると思います。
3.研修医とのバランス
なるほど研修医とのバランスを論じるにあたって、研修医との類似性を主張すべきというのはその通りですが、それについては以前のコメントで「実質的にはどちらも『一人前ではない』ということに差異はない」というところに集約していたのですが理解していただけなかったようですね。もう少し詳しく言いますと、「資格」というのは、RPGにおける武器や防具とはちがって手に入れれば急に能力が飛躍するというものではありません。ですから、資格の有無はたいした論拠にはならないのであって能力で比較すべきということになります。そして、能力について研修を終えた一人前の医師・法律家と比べて、そこに最も近い者という意味で見た場合、研修医と司法修習生は同じ段階といえるというのが私の見解です。実際に、司法修習の期間は1年であるのに対して、医科の研修医の期間は2年以上と聞いています。能力的な近さという意味では研修医になりたての者(一人前まで2年の研修が必要)より、司法修習生になりたての者(一人前まで1年の研修が必要)の方が近いとさえ言えるのではないでしょうか。
★私の回答
資格の有無は、能力の有無を評価する「社会的に広く認められた基準」です。したがって、資格の有無で判断する私の考えかたは、理にかなっていると思います。研修医は「社会的に広く認められた基準」に到達した後、さらなる研修を積む者であるのに対し、司法修習生は「社会的に広く認められた基準」にすら、いまだ到達していない者であることを忘れてはなりません。
あなたの主張のなかでは、医師としての「一人前」と、法律家としての「一人前」の基準が、一致していません。つまりあなたの主張は、医師と法律家とで「一人前」の基準が、ダブルスタンダードになっています。まさかあなたは、研修医は研修が終わらなければ一人前ではないが、司法修習生は修習が終われば「ただちに」一人前になる、と考えているのではありませんよね?
4.労働者性について
これについては、残念ながら私のコメントが理解できなかったようで、回答として書かれていることは回答になっていません。私が前回のコメントで述べたことは、「成果」で仕事をしているかどうかを見ることがおかしいということでした。これに対して、「成果」が2割ということでさえ過大評価の可能性があるというのは回答になっていません。
★私の回答
司法修習生の修習が「労働」といえるのは「実質的には2割」という評価は、私が下したものではありません。したがって、「成果」を基準に「実質的には2割」と評価してはならない、と意見されても困ります。
おそらく、「実質的には2割」と評価された方は、「成果」を基準に判断されているのではないと思います。つまり、「行為(修習)の性質」をみれば「実質的には2割」ということだと思います。
> 例えば刑事事件で弁護士が公務員という立場であったら権力と対峙できず人権保障がなされません。弁護士は民間人であっても国の根幹に関わる三権のうちの司法権を担う存在なのです。このような意味で公共性があり、社会インフラといえるので、その養成は基本的には国の責任だと私は思うのです。
国(公権力)に対峙する弁護士を、国(公権力)のお金(及び責任)で養成するのですか? それは変だと思います。
1.引き算について
「お金持ちしか法律家になれない」→「だから給費制維持は説得的だ」であり、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だから給費制廃止は説得的だ」ではないでしょうか? また、「日本の財政は逼迫している」→「だから給費制廃止は説得的だ」であり、「日本の財政は逼迫していない(余裕がある)」→「だから給費制維持は説得的だ」ではないでしょうか?
と、述べられていますが、それは違います。「お金持ちしか法律家になれない」→「だから給費制維持は説得的だ」はその通りです。しかし、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だから給費制廃止は説得的だ」は誤りです。正しくは、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だからこの観点からは給費制を維持すべきかどうかは、どちらともいえない」となります。同じく、「日本の財政は逼迫していない(余裕がある)」→「だから給費制維持は説得的だ」も誤りで、「だからこの観点からは給費制を廃止すべきかどうかは、どちらともいえない」となります。
memo26さんが、「お金持ち以外は法律家になれないことはない」→「だから給費制廃止は説得的だ」と考えたのは、思考の前提として「他の職業とのバランス」や「財政の逼迫」という別の理由が(おそらく)無意識のうちに考慮されているからです。
ほかに足し算がおかしいという理由があるならそれを示していただきたいです。
2.OJTについて
OJTで教える修習生は、ほとんどの場合自分の事務所で働くことにはならず、ライバル事務所の新人になることもあるとはいえ、「弁護士全体」(弁護士会レベル)でみれば、問題にはなりません。
と述べておられますが、ここで問題なのは、「『弁護士全体』(弁護士会レベル)でみれば』という視点です。なぜ、弁護士界全体としてみるべきといえるのでしょうか?費用を負担しているのは各弁護士でしょう(弁護士会負担と言ったところで、それは各弁護士の会費の負担増となります)。memo26さんもご存じの通り、弁護士は各自で生計を立てなければなりません。費用に関しては「弁護士全体としてみれば」などとは言えないのです。これは他の職業に置き換えてもお分かりいただけると思いますが、「業界全体としてはバランスがとれているから」などという理由で、不利益を受ける企業や営業主が納得できるでしょうか?もし、「弁護士全体」の視点を持ち出すのであれば、弁護士は「公共的な職業」であるから、個人として不利益を受けることがあっても我慢すべきということになるでしょうが、memo26さんはそのような考えではないように伺われます。また、「公共的な存在」(国民全体の利益につながる存在)とすれば、なぜ国民全体ではなく、先んじて弁護士になった者のみが費用を負担するのかが問題となります。
少し、話はOJTからズレますが、弁護士の公共性という問題について、(理念的なことは他の方の指摘があるので省くとして)弁護士に公益活動の義務があることをどのようにお考えでしょうか?公共性の全くない職業などないというのは、その通りだと思いますが、公益活動の義務がある職業というのは一般的には見られないように思います。
3.研修医とのバランス
なるほど研修医とのバランスを論じるにあたって、研修医との類似性を主張すべきというのはその通りですが、それについては以前のコメントで「実質的にはどちらも『一人前ではない』ということに差異はない」というところに集約していたのですが理解していただけなかったようですね。もう少し詳しく言いますと、「資格」というのは、RPGにおける武器や防具とはちがって手に入れれば急に能力が飛躍するというものではありません。ですから、資格の有無はたいした論拠にはならないのであって能力で比較すべきということになります。そして、能力について研修を終えた一人前の医師・法律家と比べて、そこに最も近い者という意味で見た場合、研修医と司法修習生は同じ段階といえるというのが私の見解です。実際に、司法修習の期間は1年であるのに対して、医科の研修医の期間は2年以上と聞いています。能力的な近さという意味では研修医になりたての者(一人前まで2年の研修が必要)より、司法修習生になりたての者(一人前まで1年の研修が必要)の方が近いとさえ言えるのではないでしょうか。
4.労働者性について
これについては、残念ながら私のコメントが理解できなかったようで、回答として書かれていることは回答になっていません。私が前回のコメントで述べたことは、「成果」で仕事をしているかどうかを見ることがおかしいということでした。これに対して、「成果」が2割ということでさえ過大評価の可能性があるというのは回答になっていません。
ただ、前回のコメントでは成果主義の仕事も世の中にはあるということを無視していましたので、それについて追記したいと思います。なぜ、成果主義を無視したのかと言えば、法律家の仕事を成果主義のみで評価することは非常に困難だからです。
まず、裁判官・検察官の仕事について成果主義で評価することが非常に困難であることはご理解いただけると思います。裁判官については、例えば、第一審の判決が上級審で覆ることがあります。このとき第一審の判決を書いた裁判官が行ったことは最終的には事件解決には役立たなかったのですが、もし、控訴されなかった場合は、この判決が事件を解決したことになり、事件解決に役立ったことになります。さらに、最高裁までいけば、再び第一審の判決と同じ判断が下る可能性もありますが、上告されるかどうかも裁判官としては運しだいです。これを「仕事をしたかどうか」、つまり「給与を与えるべきかどうか」について成果主義で評価することはできないでしょう。
次に検察官ですが、例えば裁判に関しては有罪にすることが仕事なのではありません。有罪と判断すべき判断材料を提示することが仕事です。つまり、最終的に無罪と判断されても、検察官が判断資料を十分に出したのであれば立派に仕事を果たしたといことになります。他の仕事(基礎の必要性の判断)も成果主義からは評価しがたいことが多いです。
そして、弁護士については成功報酬という仕事の受け方があります。しかし、実際には成功報酬という場合も、最終的に訴訟で負けても手続きに必要であった実費(人件費を含む)は請求できるという契約内容であることがほとんどで、「負けたときには一切支払いは不要」ということはほとんどないようです。また、訴訟以外の仕事も多いでしょう。
そして、司法修習生の仕事は、以上の仕事の補助なわけですから、その成果の評価はより一層困難といえるでしょう(採用されるような意見を述べたとしても、それが何パーセント事件の解決に役立ったかなんて評価は困難でしょう)。
以上から、法律家の仕事は、成果主義での評価に向かないと言えます。前回のコメントで成果主義の評価の可能性を無視したのは、以上のことは一般的に認識されていて書く必要はないと考えたためです。しかし、もしかしたら法律家となんの関わりもない一般の方々には説明が必要なのかもしれないと思い直して、追記しました。
残念ながら、時間の関係上これ以上は書けなくなりましたが、時間を見つけられれば、また書きたいと思います。
少しわかりにくい説明で申し訳ありません。
例えば刑事事件で弁護士が公務員という立場であったら権力と対峙できず人権保障がなされません。
弁護士は民間人であっても国の根幹に関わる三権のうちの司法権を担う存在なのです。
このような意味で公共性があり、社会インフラといえるので、その養成は基本的には国の責任だと私は思うのです。
また、弁護修習費用を金銭換算することは難しいとは思いますが、マンツーマンでの指導であるためかなり高くつくのではないかと思ったのです。
ただ、現状でもご見解と同じ程度に経費負担がされているとまでは申しておりません。この点も少しは考慮していただければありがたい、という程度にお受け取りください。
わかりました。ご教示ありがとうございます。
しかし、この「法曹の公共性」があるからといって、司法修習の費用・給与を全額、国が負担しなければならない、ということにはならないと思います。それどころか逆に、このような「法曹の公共性」の趣旨からすれば、給与も含め、弁護士養成費用は弁護士会が自前で負担すべきである、と考えるのが自然であるように思われます。
> 給料分だけではなく、修習費用全体をみれば、弁護修習の費用(これまでは金銭換算はしてきませんでしたが)は弁護士が負担していることとなるので、現状でもご見解にかなり近い状態なのではないでしょうか。
金銭換算した場合の弁護修習の費用は知りませんが、弁護修習の期間が全体に占める割合を考えれば、修習費用全体の半分にも満たないのではないでしょうか?
(現在の制度で)費用のうち、弁護士会が負担している割合は半分にも満たず、給与のうち、弁護士会が負担している割合はゼロ、ということになります。給費制は弁護士に有利な制度だと思います。
弁護士は権力と対峙する存在であるとともに、法が市民に適用される前提であるという意味です。憲法にも規定されています。
だからこそ、質の確保が必要であり、強制的な修習制度があるのです。
みんなの役に立っているからということではないのです。
配属地は「希望」を聞いた上で一方的に決定されます。
しかし、希望欄に書ける地名もあらかじめ指定されており、本人の希望通りに「希望」が書けるわけではありません。
そして「希望」通りに決まるわけでもないのです。
完全に無視される場合もあり、決定方法はブラックボックスです。
ご見解が弁護士会との割合負担とのこと、失礼しました。
給料分だけではなく、修習費用全体をみれば、弁護修習の費用(これまでは金銭換算はしてきませんでしたが)は弁護士が負担していることとなるので、現状でもご見解にかなり近い状態なのではないでしょうか。
なお、この点(引き算が正しいか正しくないか)で意見がくい違ったとしても(または私が間違っているとしても)、足し算が間違っていることは確実だと思います。必要であれば、(記事本文とは)ちがう方法で足し算が「おかしい」ことを示します。
時間がないので、簡単に「引き算」についてのみ説明を加えたいと思います。他は、おいおい再反論を試みたいと思います(しかし、今後忙しくなるためできなくなるかもしれませんので、その時はご容赦ください)。
なぜ「引き算」がおかしいのかですが、「AかnotAか」という問題ですが、各論点の根拠を評価するうえでは「給費か、貸与か」ではなく、「給費制の支持の理由として説得的か、説得的でないか」です。「給費制支持の理由として説得的でない」=「給費制廃止の理由として説得的である」にはなりません。
例えば、「お金持ち以外は法律家になれない『ことはない』」という主張を考えた見れば、「ならば給費はやめよう」にはつながらないでしょう。給費制廃止の根拠となるのは、例えばあなたが述べておられる「一般の企業との不公平」や「日本の財政の逼迫」などが考えられますが、「お金持ち以外は法律家になれない『ことはない』」が同じでないことは、お分かりいただけるでしょうか?
1、「お金持ちしか…」について
「お金持ちしか医師になれなくなるのは、かまわないのですか? お金持ちしか研究者になれなくなるのは、かまわないのですか? と問いたくなります。」と書かれていますが、当然お金持ちしか医者や研究者になれないとすれば、それは良くないとお考えなのでしょう?現実に医者や研究者についてそのような良くない現状があったとしても、法律家についてもその良くない現状に合わせる必要があるのでしょうか?
さらに、お金持ちでなくとも法律家になれる方法があるとしておられますが、その方法は、通常の方法と同程度に容易(確実性や機関)なのでしょうか?
★私の回答
この御指摘はごもっともです。もっともな批判だと思います。しかし、世の中、どのような職業であれ、その職業につくうえで「お金持ちが有利」なわけです。これは大学入試の際にお金持ちであれば有名私立校に通う、塾に通う、家庭教師をつけるなどの手段がとれるので、有利であることを考えてみればわかります。
私が主張したいのは、「なぜ、法律家だけが特別なのですか」ということです。その意味で、「お金持ちしか法律家になれなくなる」という日弁連(日本弁護士連合会)の主張は、「おかしい」というか「偏っている」と思います。
実際問題として、「お金持ちが有利」な現実を変えることは、不可能でしょう。とすれば、法律家だけを特別扱いせず、法律家についても、他の職業と同様に扱うことこそが、合理的であり平等なのではないかと思います。
2、「司法修習生はどうやって暮らしていけばよいのか」
これについては貸与でも暮らしていけるとされています。確かにその期間を生きていくという意味では暮らしていけるでしょう。しかし、「借金をすれば暮らしていける」というのは、冷静に考えれば一般の方々からしても受け入れられない議論ではないでしょうか?生活保護の申請者に「あなたはまだ借金ができるから、生活保護がなくても暮らしていける」といえるのでしょうか?(少し話はズレますが、生活保護の受給者との対比で言えば、生活保護受給者は司法修習生と違ってアルバイトも可能です。生活保護受給者は一年後に大手企業で働けることが決まっていても当然、返還義務はありません。)
★私の回答
あなたの考えかたによれば、大学生にも給与を支給すべきであるということになってしまいます。なぜなら、「大学生はどうやって暮らしていけばよいのか。大学生には奨学金が貸与されるが、これは借金である。借金をすれば暮らしていけるといった主張は(社会では)受け入れられない」ということになるからです。
この結論が「おかしい」ことは「あきらか」です。あなたの批判は成り立たないと思います。
3、「司法修習生には、労働者としての側面もある」
これに関して、過去の記事もよませていただきましたが、補助的な業務は実質2ヵ月というのは、あまりに乱暴な議論だと感じました。実質的に役に立つのは2か月分なのかもしれません。しかし、成果が出るかどうかと働いているかどうかは必ずしも一致しないのではないでしょうか?OJTの場合もそうですが、新人が一生懸命働いても周りの足を引っ張ってしまうということは社会ではよくあることだと思います。また、頑張って働いていても取引で会社に損失を与えてしまうということもあると思います。このとき、OJTの新人や損失を出してしまった社員は、「役に立たなかった」「いない方が成果が出た」とは言えるでしょうが、「働いていなかった」とは言えないのではないでしょうか?
★私の回答
実質的に2か月だというのは、私の意見ではありません。給費制維持を主張される方が述べた意見です。ですが、給費制「維持」を主張される方の意見であるので、「実質的に2か月」という評価は、過大評価の可能性はあっても過小評価の可能性はないと思います。つまり、合理的に考えて、実質的に2か月「以下」だと考えられる、ということです。
なお、なぜこの方が「実質的に2か月」であるにもかかわらず、給費制維持を主張なさったのかといえば、この方の主張は「総合得点方式」だからです。
4、「研修医とのバランス」
ここでは、資格の有無について差異があるのだからバランスは必要ないという議論のようですが、資格の有無はどのような理由でこの差異を正当化するのでしょうか?資格の有無は単なる制度の作り方であって、研修医は医師とは認めないという制度や司法修習生も法律専門家(言葉はともかく…)として認めるという制度は十分にあり得るのであって、実質的にはどちらも「一人前ではない」ということに差異はないのではないでしょうか?
★私の回答
あなたの批判は的を外れていると思います。私は、なぜ「医師資格をもつ」研修医と「法曹資格をたない」司法修習生を比較するのか、比較するなら「医師資格をもたない」医学部学生と「法曹資格をもたない」司法修習生を比較すべきである、と論じています。したがって、あなたが(私の主張を)批判するのであれば、司法修習生は「実質的には」医学部学生ではなく研修医に相当する、と(根拠を示しつつ)述べなければなりません。
5、「司法修習は民間企業のOJTに相当する」
制度上は最初弁護士に登録した人も後に裁判官や検察官になることができます(再度の修習は必要ありません)。つまり、弁護士は全員潜在的に裁判官や検察官になりうるということです。そのことを考えれば国が給与を支払うことも根拠がないとは言えないと思います。
逆に弁護士の側からすれば、OJTで教える修習生は、ほとんどの場合自分の事務所で働くことにはなりません(こんな言い方は妥当でないかもしれませんが、ライバル事務所の新人であることもあるわけです)。自分の事務所では新人を雇わないのに他の事務所の新人のOJTにお金を出すということは一般的には受け入れがたいでしょう。
裁判官・検察官の割合に応じてという案ですが、司法修習を終えても裁判官、検察官、弁護士のいずれにもならない(なれない)という人の存在を忘れてはいませんか?修習後、裁判官・検察官にならず、弁護士会への一斉登録の日に登録を行わなかったという人が、新63期で200人を超えたという話を聞いたことがあります。今年はさらに増えるという予想もあるそうです。彼らの分は誰の負担になるのでしょうか?
★私の回答
「弁護士は全員潜在的に裁判官や検察官になりうる」ことをもって、「司法修習生のうち、弁護士になる者」への給与支給を正当化するのであれば、「裁判官や検察官は全員、辞職して弁護士になりうる」ので「司法修習生のうち、裁判官や検察官になる者」に対しても給与を支給する必要はない、という主張も正当化されます。あなたの批判は「おかしい」と思います。
次に、司法修習生のうち、「裁判官または検察官になる者」と「弁護士になる者」の割合に応じ、国と弁護士会とが修習生の給与を分担して負担する、という(私の)案についてですが、
給費制を維持した場合、弁護士は、「国費で養成され、国から給与までもらって勉強した新人(元司法修習生)」を採用できる、ということになります。これは他の民間事業者と比べ、弁護士に有利です。これは「おかしい」と思いませんか?
OJTで教える修習生は、ほとんどの場合自分の事務所で働くことにはならず、ライバル事務所の新人になることもあるとはいえ、「弁護士全体」(弁護士会レベル)でみれば、問題にはなりません。なぜなら、自分の事務所で修習した修習生がライバル事務所に行くこともあるが、逆に、ライバル事務所で修習した修習生が自分の事務所に新人として入ってくることもあるからです。「弁護士全体」(弁護士会レベル)でみれば、バランスがとれています。
なお、「裁判官または検察官になる者」と「弁護士になる者」の割合に応じ、国と弁護士会とが修習生の給与を分担して負担する、という制度(私の提案)を別の視点でみれば、「ひとりの修習生」に支給される給与の一部を国が、一部を弁護士会が負担する、という制度だともいえます。とすれば、司法修習を終えても裁判官、検察官、弁護士のいずれにもならない(なれない)という人の給与も「国と弁護士会とで分担して負担する」という方法が考えられるでしょう。もちろんその分、修習生に対する給与を減額する(修習生の自己負担とする)といった制度も考えられます。こういった「こまかい」点については、私の提案「国と弁護士会との分担」が一考の価値あり、と社会で受け取られるならば、その時に(詳細を)詰めればよいと思います。
6、『司法修習生は「拘束」されている』
確かに、修習するうえでは、指揮・命令・監督配下にあることは当然といえると思います。
そのうえで、考えていただきたいのですが、まず、実際に修習予定者の中には「(借金を背負ってまでするなら)修習なんてなくていい」という考えの人が、潜在的にはかなりいます。実際に少し前にそのようなことをネット上で発言して、ちょっとした騒ぎになったということがあったようです。これは、先輩の法律家の方々がそのような姿勢を問題視したためですが、一般の方々は修習不要論についてどのように考えているのでしょうか?
また、指揮下にあるのが当然ということは、必ずしも給費を廃止すべきという理由にもなりません。
コメントされた方とは異なりますが、給費制維持論者が一般的に「拘束」という場合、専念義務(バイト等禁止)を問題視している気がします。専念義務についてはどうお考えですか?貸与で暮らしていける(前述の通り、これはおかしいとは思いますが)からといって、当然にバイト禁止となる理由にはないません。
★私の回答
「指揮下にあるのが当然ということは、必ずしも給費を廃止すべきという理由にもなりません」とのことですが、それはなぜですか? 「当然の制約」であるならば、「当然、受認すべき(我慢すべき)制約」であるということにはならないでしょうか?
なお、専念義務(バイト等禁止)については、この記事のコメント欄で、すでに他の方に回答しております。
7、「総合得点方式」
この部分において、「足し算」がおかしいとされていますが、その後の説明には誤りがあります(故意にミスリーディングな説明をしたのではないと信じます)。
どこが誤りかというと、例えば、
問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維 持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきで ないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換え れば、
「お金持ちしか法律家になれない『とはい えない』」という要素で、60点(100点- 40点)獲得…
と、説明されています。しかし、「お金持ちしか法律家になれない」という根拠が40点にとどまったとしても、それは給費制を廃止すべきという主張が60点になるわけではありません。40点という点数にとどまった理由は、「そのようなことにはなりにくい」、「そうなっても大した問題ではない」という理由です(少なくとも本文中の各根拠への反論ではそうなっています)。これらは、給費制を廃止すべき理由にはなっていません。
いわば、「100点-40点」という「引き算」がおかしいわけです。
★私の回答
なぜ「引き算」が「おかしい」のか、わかりません。一般に、「Aか notAか」という問題で、「Aである」が40点であれば、「notAである」は60点になるのではないでしょうか? なぜ「引き算」が「おかしい」のか、もっとわかりやすく教えてください。
なお、誤解を避けるために書き添えますが、これはもっとわかりやすくお考えを説明してください、という意味です。私は「引き算」は正しいと思っていますし、「足し算」には問題があると思っています。
> 休日もアルバイトが禁止という修習専念義務が課され配属地も一方的に決定されることが一切の補償を不要とする当然の制約なのでしょうか?
「配属地が一方的に決定される」というのは、事実とは異なるのではありませんか? 修習生に「希望」を聞いたうえで配属地を決定するシステムになっていると聞いています。
なお、私はアルバイトは認めてよいと思います。「休日」に「昼寝をするのも勉強するのも自由」である以上、アルバイトも認めてよいと思います。
> 統一修習は意義がない、分離修習を導入すべきというご見解でしょうか? 統一修習が導入された経緯や弁護士の公共性を踏まえたご意見を伺いたいです。
統一修習・分離修習の是非は、今回の私の主張とは関係がないでしょう。すくなくとも、私の主張している「国と弁護士会との給与分担制」であれば、問題は生じないと思います。
次に、弁護士の公共性という点についてですが、それをいうなら(国民の生命・健康に関する)医療の公共性や、(国民の食糧確保に関する)農業の公共性、(社会的なインフラ整備に関する)土木建築の公共性など、ほとんどすべての職業が「公共性を有する」ので(志望者に)給与を支給すべきである、ということになってしまいます。
そもそも、公共性を有さない職業など、社会に存在しないでしょう。どのような仕事であれ、なんらかの点で公共性があり、他人の利益になるからこそ「お金がもらえる」のではないでしょうか?
1、「お金持ちしか…」について
「お金持ちしか医師になれなくなるのは、かまわないのですか? お金持ちしか研究者になれなくなるのは、かまわないのですか? と問いたくなります。」と書かれていますが、当然お金持ちしか医者や研究者になれないとすれば、それは良くないとお考えなのでしょう?現実に医者や研究者についてそのような良くない現状があったとしても、法律家についてもその良くない現状に合わせる必要があるのでしょうか?
さらに、お金持ちでなくとも法律家になれる方法があるとしておられますが、その方法は、通常の方法と同程度に容易(確実性や機関)なのでしょうか?
2、「司法修習生はどうやって暮らしていけばよいのか」
これについては貸与でも暮らしていけるとされています。確かにその期間を生きていくという意味では暮らしていけるでしょう。しかし、「借金をすれば暮らしていける」というのは、冷静に考えれば一般の方々からしても受け入れられない議論ではないでしょうか?生活保護の申請者に「あなたはまだ借金ができるから、生活保護がなくても暮らしていける」といえるのでしょうか?(少し話はズレますが、生活保護の受給者との対比で言えば、生活保護受給者は司法修習生と違ってアルバイトも可能です。生活保護受給者は一年後に大手企業で働けることが決まっていても当然、返還義務はありません。)
3、「司法修習生には、労働者としての側面もある」
これに関して、過去の記事もよませていただきましたが、補助的な業務は実質2ヵ月というのは、あまりに乱暴な議論だと感じました。実質的に役に立つのは2か月分なのかもしれません。しかし、成果が出るかどうかと働いているかどうかは必ずしも一致しないのではないでしょうか?OJTの場合もそうですが、新人が一生懸命働いても周りの足を引っ張ってしまうということは社会ではよくあることだと思います。また、頑張って働いていても取引で会社に損失を与えてしまうということもあると思います。このとき、OJTの新人や損失を出してしまった社員は、「役に立たなかった」「いない方が成果が出た」とは言えるでしょうが、「働いていなかった」とは言えないのではないでしょうか?
4、「研修医とのバランス」
ここでは、資格の有無について差異があるのだからバランスは必要ないという議論のようですが、資格の有無はどのような理由でこの差異を正当化するのでしょうか?資格の有無は単なる制度の作り方であって、研修医は医師とは認めないという制度や司法修習生も法律専門家(言葉はともかく…)として認めるという制度は十分にあり得るのであって、実質的にはどちらも「一人前ではない」ということに差異はないのではないでしょうか?
5、「司法修習は民間企業のOJTに相当する」
制度上は最初弁護士に登録した人も後に裁判官や検察官になることができます(再度の修習は必要ありません)。つまり、弁護士は全員潜在的に裁判官や検察官になりうるということです。そのことを考えれば国が給与を支払うことも根拠がないとは言えないと思います。
逆に弁護士の側からすれば、OJTで教える修習生は、ほとんどの場合自分の事務所で働くことにはなりません(こんな言い方は妥当でないかもしれませんが、ライバル事務所の新人であることもあるわけです)。自分の事務所では新人を雇わないのに他の事務所の新人のOJTにお金を出すということは一般的には受け入れがたいでしょう。
裁判官・検察官の割合に応じてという案ですが、司法修習を終えても裁判官、検察官、弁護士のいずれにもならない(なれない)という人の存在を忘れてはいませんか?修習後、裁判官・検察官にならず、弁護士会への一斉登録の日に登録を行わなかったという人が、新63期で200人を超えたという話を聞いたことがあります。今年はさらに増えるという予想もあるそうです。彼らの分は誰の負担になるのでしょうか?
6、『司法修習生は「拘束」されている』
確かに、修習するうえでは、指揮・命令・監督配下にあることは当然といえると思います。
そのうえで、考えていただきたいのですが、まず、実際に修習予定者の中には「(借金を背負ってまでするなら)修習なんてなくていい」という考えの人が、潜在的にはかなりいます。実際に少し前にそのようなことをネット上で発言して、ちょっとした騒ぎになったということがあったようです。これは、先輩の法律家の方々がそのような姿勢を問題視したためですが、一般の方々は修習不要論についてどのように考えているのでしょうか?
また、指揮下にあるのが当然ということは、必ずしも給費を廃止すべきという理由にもなりません。
コメントされた方とは異なりますが、給費制維持論者が一般的に「拘束」という場合、専念義務(バイト等禁止)を問題視している気がします。専念義務についてはどうお考えですか?貸与で暮らしていける(前述の通り、これはおかしいとは思いますが)からといって、当然にバイト禁止となる理由にはないません。
7、「総合得点方式」
この部分において、「足し算」がおかしいとされていますが、その後の説明には誤りがあります(故意にミスリーディングな説明をしたのではないと信じます)。
どこが誤りかというと、例えば、
問題を「給与を支給すべきか」(給費制を維 持すべきか)ではなく、「給与を支給すべきで ないか」(給費制を廃止すべきか)に置き換え れば、
「お金持ちしか法律家になれない『とはい えない』」という要素で、60点(100点- 40点)獲得…
と、説明されています。しかし、「お金持ちしか法律家になれない」という根拠が40点にとどまったとしても、それは給費制を廃止すべきという主張が60点になるわけではありません。40点という点数にとどまった理由は、「そのようなことにはなりにくい」、「そうなっても大した問題ではない」という理由です(少なくとも本文中の各根拠への反論ではそうなっています)。これらは、給費制を廃止すべき理由にはなっていません。
いわば、「100点-40点」という「引き算」がおかしいわけです。
コメントに長々と書いてしまいましたが、以上を踏まえてのご意見を伺いたいです。
連続で失礼します。
統一修習は意義がない、分離修習を導入すべきというご見解でしょうか?
統一修習が導入された経緯や弁護士の公共性を踏まえたご意見を伺いたいです。