へんくつゃ半睡の「とほほ」な生活!

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偏屈でひねくれています。

【読】江戸の時刻!@時代小説

2008年10月30日 | 江戸を歩く

江戸の時刻

 

江戸の時の呼び方

 

  暦には今でも「(ね)」「(うし)」…という『十二支』と、
(きのえ)」「(きのと)」…という『十干(じっかん)』とを組み合わせて
甲子(きのえね)」「乙丑(きのとうし)」…というように六十通りの『干支(えと)』が
表わされるが、不定時法の頃の時刻方位の呼び方には数字ではなく

十二支が当てはめられていた。

 現代の時計に慣れてしまっているからわかりにくいのだけれど、

の動きで間を計るには、その方角を読むのが便利だったからなのだろう。

(ね)」の方角をにして、右回り十二支を当てはめていくと分かりやすい。


 さらに一刻(いっとき)を四等分して細かく表した。
 例えば「草木も眠る丑三つ時・・・は、
(うし)」の一刻(いっとき)=夜中の一時~三時を4四等分した三番目のところだから、
二時~二時半までの約三十分間ということになる。
 また、一刻(いっとき)の真ん中は「正刻(しょうこく)」という。「正午(しょううま)」は
(うま)」の一刻(いっとき)=十一時~十三時の真ん中だから十二時にあたる。
正午(しょうご)」というのはこの名残だ。

 

 

季節によって時間は変わる

 

  江戸時代の人々は、季節によって昼夜の時間を伸び縮みさせていた。
日の出から日没まで、日没から日の出までをそれぞれ六に分ける。
 昼の時間が長い夏は、昼の一刻に比べ夜の一刻は短い。

逆に冬は、夜の一刻が長く、昼の一刻は短いことになる。

 

 具体的に記してみよう。

 正午真夜中を「九つ」とし、日の出を「明け・六つ」。日の入
「暮れ・六つ」とする。そして昼夜をそれぞれ六等分し、

九つ時から呼称を八つ、七つ、六つ、五つ、四つと減じてゆき、

再び九つから繰り返す。 つまり、一日に九つから四つまでを二度繰り返す。
 
 江戸では一年の内、九ヵ月ぐらいが昼の時間が長いので、平均すると

昼の一刻は二時間十二分、

夜の一刻は一時間四十八分になる。
 
 時計が普及していない当時では、時刻を知るには太陽の高さを見るのが一番で、

太陽の位置と時刻を一致させると、このような時刻制度になる。

 

 道具に人間が合わせるのではなく、人間の感覚に道具を合わせたというわけである。
江戸の人々
は、自然に合った暮らし方を選んだということになる。

 この時刻江戸では鐘の音で知らせた。すなわち「時の鐘」である。
時の鐘は複数の場所に設置され、正確な時報の報知が心がけられた。
 
 時の鐘の中でも、本家本元が本石町の鐘。江戸城内で使用していた鐘を移して時の鐘とした。
ぉえどにほんばし ななつだち・・・お江戸日本橋七つ発ち」で聞く、

七つの鐘はこの本石町の鐘の音であった。(※現在は十恩公園に移築)


 この鐘以外には、『花の雲 鐘は上野か 浅草』の句でお馴染みの上野寛永寺、

浅草辨天山の時の鐘があり、本所入江町、市ヶ谷八幡、目白新福寺、赤坂田町成満寺、

芝切り通しなどに時の鐘が置かれた。

 尚、一日を二十四等分する西洋時刻法が導入されたのは明治六年(1873)のことである。

 

【参考・引用・出典】

歴史地図本 大江戸探訪 大和書房

http://www.daiwashobo.co.jp/

~和時計の暮らし~
http://ammo.jp/monthly/0211/04.html

コメント (9)
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