ひざおく
お膝送り願えますか!
泌尿器科の待合室は、老齢者の患者さんが多い。
待合所には多くの一人用椅子と長椅子が置いてある。
あるとき、看護師さんが、かなりお年を召した女性を介添えしながら、
治療室から出てきた。
「しばらく、こちらで待っていてくださいね」とご婦人に言い聞かせている。
ご婦人は足元がふらつき、立っているのも辛そうである。
しかし、椅子はどこも座る余地がない。
看護師が長椅子近くの待合人さんに、丁重に声をかけた。
特定の人にではなく、長椅子に座る人たち全員に声をかけたという方が
正しいだろう。こう言ったのである。
「申しわけありません。お膝送り願えますか?」
端の人は七十代の男性である。軽くうなずき、立ち上がった。
その隣の者も、その隣も、次々と腰を上げ、そして少しずつ横に体を移動した。
かくて長椅子の端に、ゆうに一人が腰掛けられる空きが生まれた。
看護師と老婦人が、深々と頭を下げた。
所用で通りかかって、以上の情景を見ていたのだが、若い看護師さんの、
古風な言葉遣いに感動したのである。
「お膝送り」である。そしてこの言葉が死語でない証拠には、聞いた方々が残らず
その通りにした。もっとも、長椅子には若い人は見あたらなかった。
若い人に通じたかどうかは、わからない。
「お膝送りを願います」は、昔はバスや都電の車掌が言っていたし、寄席に行けば
常套語であった。ただし、畳敷きの寄席で、である。
後ほど、その看護師さんに「お膝送り」よく知っていたねと誉め称えたところ、
読んだばかりの時代小説にありました。と教えてくれました。