江戸町奉行は寺社奉行・勘定奉行とあわせて三奉行と称された。
他の二奉行と同様評定所の構成者であり、
幕政にも参与する立場であった。
管轄区域は江戸の町方のみで、面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が
及ばなかった。ただ寺社の門前町についてはのちに町奉行管轄に移管された。
基本的に定員は二人である。初期は大名が任命され,以後は旗本が任命された。
よく北町奉行(所)・南町奉行(所)といわれるが実際に管轄区域を二分していた訳ではなく
月番制によって交互に業務を行っていた。また、その名称にしても、奉行所所在地の
位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には
一律で町奉行とのみ呼ばれた。
従って一つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、
移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。
宝永四年(1707年)に本来「北町奉行所」であった常盤橋門内の役宅が一番南側の
数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに「南町奉行所」と呼ばれるようになり、
従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が
北町奉行所となった。
但し市中を巡回する廻り方同心は巡回すべき自身番を指定されておりそういった意味での
管轄は存在した、しかし、この各同心が担当する自身番も江戸市中に散在する形で
割り当てられており現今の警察の○○方面というような地域的にまとまったものではなかった。
奉行所の月番制は、民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、
民事訴訟の受理以外の通常業務(職権開始の刑事訴訟を含む)は当然行われていた。
また、月番でない奉行所は月番で受理し、未処理となっている訴訟の処理等も行っていた。
職務は午前中は江戸城に登城して老中などへの報告や打ち合わせを行い、午後は奉行所で決裁や
裁判を行なうというもので、夜遅くまで執務していた。
激務で知られており在任中のまま死亡する率は有数であった。
町奉行として有名なのは、なんといっても大岡越前守 忠相(おおおかえちぜんのかみ ただすけ)と
遠山左衛門尉 景元(とうやまさえもんのじょう かげもと)だろう。
大岡越前守は八代将軍・吉宗の時代に、二十年間も南町奉行を努めた名奉行で、
後に大名に取り立てられた。また享保(きょうほう)の改革の過程で、物価問題や経済安定政策に
積極的に取り組んだことでも知られている。
遠山景元は「東山の金さん」で知られる。北町奉行と南町奉行を歴任した。
幕末に近い天保期の町奉行で、鳥居甲斐守 耀蔵(とりいかいのかみ ようぞう)の政敵といわれている。
『耳袋秘帖』で知られる、根岸肥前守 鎮衛(ねぎしひぜんのかみ やすもり)も忘れてはいけない。
◆遠山 景元 江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を勤めた人物。
テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。
正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、
または、遠山金四郎景元(とおやま・きんしろう・かげもと)。
◆大岡 忠相 江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。
生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は
代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の四代当主で、八代将軍家重の
側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは
遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。
将軍徳川吉宗が進めた享保改革を支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に
加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だった事と『大岡政談』や時代劇での
名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。
◆根岸 鎮衛 江戸時代中期から後期にかけての旗本、南町奉行。
家督相続と同時に、勘定所の御勘定という中級幕吏となり、その後頭角をあらわし、
五年後には評定所留役(現在の最高裁判所に相当し、留役はその予審の判事)となり、
四十二歳にして勘定吟味役につき、布衣を着ることを許される(六位相当)。
鎮衛は、河川改修、普請工事に才腕を振るい、浅間山噴火後の天明3年、浅間山復興工事の
巡検役に任命され、その功績により、佐渡奉行に昇格し加増となる。
その間江戸では田沼意次が失脚し、松平定信が老中首座となるが、この政変に巻き込まれる
ことなく、勘定奉行に抜擢され、家禄も五百石取りとなった。
更に寛政十年(1798年)には累進し南町奉行となり、十八年の長年にわたって在職した。
鎮衛の著として有名な耳袋(耳嚢)は、鎮衛が佐渡奉行在任中の頃から亡くなる直前まで
三十年以上に亘って書き溜めた世間話の随筆集である。
同僚や古老から聞き取った珍談・奇談が記録され、全十巻一千編もの膨大な量に及ぶ。
内容は、公方から町人層まで身分を問わず様々な人々についての事柄などについてである。
下級幕吏出身のくだけた人物で、大岡忠相や遠山景元とはまた違った意味で講談で注目を集め、
平岩弓枝の【はやぶさ新八御用帳】をはじめ、小説・テレビ時代劇で題材とされている。
◆鳥居甲斐守 耀蔵 実父は大学頭を務めた幕府儒者の林衡(号・述斎)で耀蔵は三男。
旗本・鳥居一学成純の長女登与の婿として養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。
将軍・徳川家斉の側近として仕えた。やがて家斉が隠居して徳川家慶が将軍となり、
その老中である水野忠邦の天保の改革のもと、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。
天保九年(1838年)、江戸湾測量を巡って洋学者の江川英竜と対立する。このときの遺恨が
従来の保守的な思考も加わり洋学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や
高野長英ら洋学者を弾圧する遠因となる。
天保十二年(1841年)、南町奉行・矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行と
なる。天保の改革における鳥居の市中取締りは非常に厳しく、かつ、おとり捜査を常套手段と
する等、権謀術数に長けていたため、当時の人々からは蝮(マムシ)の耀蔵、或いはその名を
もじって妖怪(耀・甲斐)とあだ名され、忌み嫌われた。
また、この時期に北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとり規制緩和を
図ると、鳥居は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた。
改革末期に水野が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発をうけ、やがて改革は
頓挫し水野は老中辞任に追い込まれてしまうが、鳥居は従来の地位を保った。
その後に、職務怠慢、不正を理由に解任され、讃岐国丸亀藩に預けられた。
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