国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

人生最長・・・・ではなかった

2019-01-04 | 帰省(2018〜19)

ラパス行きのフライトは午前6時なので4時過ぎに出発。みんな眠そうでした。この椅子の反対側も含め、総勢10名ほどが見送りに来てくれました。なお私は「また必ず来ます」と約束はしましたが、それがいつ(何年後)になるかは明言しませんでした。

さようならコチャバンバ↑ また会う日まで。そして(再び)こんにちはラパス↓(正確にはエル・アルトですが。)上下画像の撮影時刻の差はたった31分。ということで、あっという間に到着しました。

到着ロビーでは誰かが私たちの名前の書いた紙を持って待っていると思っていたのですが、誰も来ておらずちょっと不安。続いてPeruvian航空の窓口に足を運んだものの、やはり空っぽでさらに不安。しかし、7時になって職員が来たので尋ねてみたら「あなたたちのことは聞いている」とのことでひとまず安心。

ラパスを出発した長距離バスは幹線道路(国道1号線)を通るので、私たちは空港からタクシーでエル・アルトの中心部まで送ってもらい、途中(路上)で乗車することになっているそうです。

で、1週間ぶりにやって来ました。バスが通るのは8時40分頃という話でしたが・・・・・9時を回っても姿を見せず。タクシーの運ちゃんはこの後行かなければならない所があるらしく、何度も呼び出されていましたし、彼も電話をかけまくっていました。

9時20分頃にようやく到着。やはりラパスを出るまでに相当手こずったと思われます。(ラッシュアワーでしたしね。)2階建てだったので眺めの良い上階に座ろうと思ったのですが、あいにく満席。ちなみにそちらは非スペイン語圏(欧州と北米)の旅行者で占められているようでした。

それで下に下りてみたら私達二人の席だけ空いていました。対照的にこちらは(私を除いて)おそらくラテンアメリカ人だけ。

ラパス→コチャバンバの夜行バスと同じくリクライニングシートですが、国際線ということもあってかスペースは断然広く(その気になれば)ほとんど水平にまで倒せます。ということで少し古いものの快適なバス旅ができるはずでした。大きな見込み違いでした。

何といっても後方に座っていた親子4人組の姉妹がひっきりなしに騒ぐためうるさくてたまらない。日本なら当然誰かが注意するでしょうし、私も「どういう教育しとるんだ」と親に嫌味の一つも言ったところです。が、皆黙っているので仕方なく(郷に入っては、なので)我慢の一手。

また途中で映画が2本(ハリウッドものとフランスもの)再生されましたが、その大音量にも閉口。少し下げるよう頼みましたが、それでも十二分にやかましく、こちらとしてはスマホに入れておいた音楽(クラシック)をヘッドホンで聴くしか自衛策がありませんでした。(ボリュームを結構上げたので鼓膜には良くなかったはず。少し高いけど、こういう時に備えてノイズキャンセリングのを買おうかな?)


遠目からですが、何とかフラミンゴが撮れました。

乗って1時間ほどしたらチチカカ湖が見えました。が、いつまで経ってもこんな感じ(見えても遠くから)。また全然山道ではありません。これは来たのとは違う道を走っていると遅まきながら気が付きました。そこで国境の検問所に着いた時にGPSアプリを起動してみたところ・・・・

ラパスからここまでほぼ真っ直ぐ西に進んできたことがわかります(紫の道)。一方、往路のコパカバーナ経由(Hotel MiradorとRoca Sagradaで計2泊)は上の黄色い道でかなり迂回しています。ということで納得。ボリビア入国時に撮影できなかった展望台は心残りですが、そんなのは些細なこと。早く着くに越したことはありません。

さて、ラパスからクスコまで12時間と聞いていたので、エル・アルトから乗った私たちの所用時間は少し短くなるはず。加えてボリビアとペルーの間に1時間の時差があることも考慮すると、うまくいけば20時前に到着できるかも、と思っていました。ここでも大誤算でした。その見込みより大きく遅れた理由として二つ考えられます(後述)。


まず出入国の手続きですが、団体の旅行者は審査がバス単位で行われ(前の団体が終わるまで中で待たされる)、それも1台当たり30分近くかかっていました。私たちがペルーに入国できたのは約1時間後。

この番組でも検問所を撮ろうとしたリポーター (国境ハンター) さんがよく怒られていたので、私も遠くから撮るだけにしました。)

入国後間もなく出されたランチ。卵、ニンジン、カボチャなどに塩で味付けした炒め物がインディカの白米とよく合いました。(よく混ぜたら即席チャーハンっぽくなりました。)


午後2時頃プーノに到着。なかなかに美しい街並みです。

上は6年前の父とのペルー旅行で大晦日に泊まったホテル。

その時は窓から初日の出を拝み、同日ウロス島を訪れました。しかしプーノの市街はスルー。危ないから、という旅行社の配慮だったのでしょうか?(そういえば大昔に読んだ「地球の歩き方」では旅行者から「どろぼうの町」とまで酷評されていたような。)

再び減圧によって袋はパンパンになっていました。


以後も風景を撮っていたのですが、雨に降られてからは窓ガラスが汚れてしまったため諦めました。

ここで誤算のもう一つの理由について。エル・アルトでもそうだったのですが、その後通ったプーノでもフリアカでも、あるいは他のちょっとした街でもバスは幹線道路をそのまま行かず、裏道(時には未舗装道路まで)に迂回していました。渋滞を回避するためだったのかもしれませんが、それが全く時短にはなっていないように思われました。

そんな訳で時間はどんどん過ぎていき、次第に暗くなっていきました。


完全にピンボケですが、途中で吹雪に遭い、少し積もっているのも見えました。もっと降ったらヤバいなあ(進めなくなったらどうしよう)と危惧しましたが、結局この1箇所だけでした。気温は低くても乾燥気候なのでそうそう積もったりはしないのかもしれません。

ついに日は落ちて真っ暗に。上画像も父との旅行でクスコ〜プーノ間を移動した際のものですが(注)、今回もこの峠を通過したのかは不明です。(注:以下も余談ですが、あの時はたしか「酸素バス」というのに乗車していました。酸素供給のみならず与圧もしていたかもしれません。もちろん今回はそういうのは一切なしでしたが、高山病の症状は全く出ませんでした。高地に順応できていたということでしょう。)GPSアプリを使って現在位置を特定することも不可能でした。ネットには繋げないし、ペルーの地図は当然ながら(ボリビアのはオフラインでも使えるよう事前にダウンロードしていましたが、こんな陸路移動をすることになろうとは夢にも思っていなかったため)スマホに入れていませんでしたから。

クスコのバスターミナルに着いたのは午後10時過ぎ。乗車してから14時間近く経っていました。この時点で十分疲弊していましたが、話はこれで終わりません。

ここでも迎えはなし。バスの乗務員に尋ねたら「とにかくうち(Continente社)の窓口で訊いてみてくれ」とのことだったので、そちらへ行っても同じ。切符売場の職員に尋ねても何も知らないとのことで途方に暮れました。しばらくして、その職員が「Peruvianの乗客の泊まるホテルはいつも一緒だから電話してあげようか?」と言ってきました。「もう少し待ってみる」と一度は固辞したものの、その後も埒があかないため、かけてもらったところ・・・・私たちの名前が予約されているとのことでした。にもかかわらず誰も来ていなかったのはなぜ? バスが一向に着かないため帰ってしまったのか、それとも最初から連絡されていなかったのか? 何にしてもホテルまでのタクシー代(7USドル)は自腹になりました。

ホテル到着後直ちにフロントのおっちゃんに文句を言ったところ、見せられたのがこの紙です。宿泊(ALOJAMIENTO)と朝食(DESAYUNO)にチェックが付いているものの移動(TRANSPORTE)はなし。つまりホテルには責任がないと言いたかったのでしょう。そして「全部こちらで持つ」というPeruvian航空ラパス事務所のAF女史の言葉も嘘っぱちだったということです。

ここで押し問答しても何にもならないので、ひとまずチェックインを済ませ、続いて翌朝の空港までの車を手配することにしました。リマ行きのフライトは6時半、空港まで15分ということで朝5時にホテルを出るようタクシーを頼み、運賃(4USドル)も前払いしました。なお朝食は6時からなので私たちは食べられませんが、申し訳なさそうに「早めにわかっていれば弁当を用意できたのですが・・・」と言われたので諦めました。


ようやくにして部屋に入ったのは23時過ぎ。おっちゃんから最小限のソルは持っていた方が良いと言われたので街に出て両替屋を探しましたが・・・・あいにく全部閉まっていました。クスコ市街は世界遺産ですが、それを撮影したのは上の2枚だけです。

ホテルに戻ってシャワーを浴び、ベッドに入った時には日付が変わっていました。翌朝は早いのであまり寝られません。それでも3時間は眠れたでしょうか。こうして長ーい1日が終わりました。ただし人生最長ではありませんでした(追記2で解説)。

起床後に1枚。それほど高級感のある部屋には見えませんが、フロントには1泊シングル100USドル、ダブルがたしか123USドルと書かれていたような。やはり中央広場から歩いてすぐという立地の良さのためでしょう。(リンク先の宿泊費は二人で1万ちょっとですが、ネット予約割引でしょうか?)

ただしこれはいただけません。洗面台横の掲示ですが、まともなのはスペイン語だけ。英語は(おそらくフランス語も)かなりメチャクチャ(文法無視)です。そして日本語は本来の意味通りの噴飯もの。自動翻訳をそのまま使っているようですね。「管理」ってバカか!

追記
 上記の通り散々な旅となりましたが、海外在住の日本人を訪ねる例の番組を「半分ヤラセ」などとボロクソに書いてきた罰が当たったのかもしれません。出演者のタレントさんにしても、通訳やディレクターなどを従えた「護送船団方式」ではあるものの長距離・長時間の旅に耐えているのは事実ですから、この点は評価してやらんといかんなぁと思うようになりました。そういえば、1月放送分ではブラジルを旅した女性タレントのバス乗車時間(3本合計)が24時間を超えて番組史上最長記録を更新していましたが、彼女は移動中のほとんどを寝ていたようです。うらやましい。

追記2
 この14時間というのは文句なしに人生最長のバス移動だと直後は思っていたのですが、帰国後に記憶を辿ってみたら思い違いであることがわかりました。

こちらで働き始める少し前のことですが、私は調査・研究のためインドネシアに7回渡航しました。当時は小牧にあった名古屋空港からシンガポール経由でジャカルタへ。(8時間ぐらいだったかな?)そこで1泊して翌日国内線でスマトラ島南部のバンダール・ランプン市へ移動するのが常でした。ところが1997年のアジア通貨危機後の出張ではそのフライトがキャンセルされ、急遽陸路移動となったことが2度ありました。タクシー(貸し切り)を呼んで午前中にホテルを出発し、夕方にジャワ島西端に到着。その後は夜行のフェリー(注)でスンダ海峡(この前地震なしで津波が発生した所)を渡り、翌朝上陸して再びタクシーでランプン大学の宿舎に夕方着くというものでした。(注:美しい星空は堪能できたものの、同時に「こんな所で沈んだらおしまいだなぁ」という不安も抱えていました。明らかに定員オーバーしているようにしか見えなかったので。)100%陸路ではないものの、空路以外の移動時間ということならこれが最長だと思います。

また大学院生時代に学会で札幌の北大へ行った時は、ワイド周遊券(学割は30%引き)を購入し、名古屋から東京まで普通列車を乗り継ぎ、そこから夜行の青森行き急行「八甲田」に乗車、翌日は快速で北海道入りし、道内は特急の自由席という旅をしました。これも丸1日を超え、鉄道旅としては人生最長のはずです。

それでもバス乗車時間に限定すれば今回が最長なのでは・・・・と考えたのですが、これもたぶん間違いです。1991年7月のこと、JICAボランティアとしてパラグアイで活動していた私は休暇を取ってボリビア4都市を巡ったのですが、その前にアルゼンチン(ブエノスアイレスのみ)も訪れており、そのアスンシオン(パラグアイの首都)からブエノスまでの移動が長距離バスでした。(現在は親戚関係にある、つまりLindaの従姉妹の旦那であるK君がバスターミナルまで見送りに来てくれたことも思い出しました。)Googleマップでは陸路移動の最短が14時間台となっていますが、こちらによるとバスの乗車時間(Duración)は約18〜23時間。ゆえにそちらの方が人生最長のバス旅だった可能性が高いです。にもかかわらず、それが辛かったという記憶は全くありませんので、よほど快適でサービスも良かったのではないかと今になって思います。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« お互い様 | TOP | 人生最長の日1(悪魔の罠) »
最新の画像もっと見る

post a comment