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イエス・キリストのブログ
プロテスタント(バプテスト派)

いちじく

2008-07-26 14:37:14 | 聖書
主がわたしに示された。
見よ、主の神殿の前に、いちじくを盛った二つの籠が置いてあった。
それは、バビロンの王ネブカドレツァルが、ユダの王、ヨヤキムの子エコンヤ、ユダの高官たち、それに工匠や鍛冶をエルサレムから捕囚としてバビロンに連れて行った後のことであった。
一つの籠には、初なりのいちじくのような、非常に良いいちじくがあり、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないいちじくが入っていた。
主はわたしに言われた。
「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは言った。
「いちじくです。良い方のいちじくは非常に良いのですが、悪い方は非常に悪くて食べられません。」
そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。
「イスラエルの神、主はこう言われる。
このところからカルデア人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。
彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。
彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。
そしてわたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。
彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。
彼らは真心をもってわたしのもとへ帰って来る。
主はまたこう言われる。
ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。
わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。
彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となる。
わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす。
===== エレミヤ書 24章 1~10節 =====

預言者エレミヤは、神様と直接に話が出来たようです。

今回は、神様に従う者と従わない者の話であります。
神様に従う者には、どんな苦難の道においても、必ず神様の祝福が与えられます。
神様に従わない者には、どんなに幸福でも、必ずイバラの道が与えられます。

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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
エレミヤ書 (12nobu)
2008-07-27 07:58:08
 新約の優しい神様をイメージしましょう。私は「どっちを選べば神様の御旨か」という問いに○×を付けない方が良いと思います。×の方を選んでも神様を中心に考えていくなら必ず道は開けてくると思います。プロセス神学です。
 エレミヤ書で不思議なのは「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。のにエジプトへ連行されて最期は石打でなくなった。のと、バビロニアはエルサレムの真西のはずなのに「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」主はわたしに言われた。「北から災いが襲いかかる」という2点です。
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Re:エレミヤ書 (Logical Space)
2008-07-27 12:00:19
12nobuさん、こんにちは。

旧約の神とか、新約の神とか、私の中にはそんな神はいません。 今、生きておられる神が私の神です。 その神は、旧約、新約、現在に至るまでと歴史を背負って来た神であることも事実だと思います。

ここの箇所は、マルコ10:17-19
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

今回のエレミヤ書とここの部分を重ね合わせて読む方が正しいと思います。大事なのは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」とイエス様が言っていることです。なので、よい神をお手本にすることを、エレミヤ書でも、マルコでも、言っていると思います。

十戒でも言っている通り、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」とあります。 神は民には従順であって欲しいという気持ちがあり、しっとする神がいることも事実だと思います。 旧約の神とか、新約の神とか区別することが、ある意味では、偶像礼拝になると思います。 自分勝手に神をくくってはいけないと思います。
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誤解を招く書き方でした (12nobu)
2008-07-28 15:26:16
 これは私の書き方が悪かったですね。申し訳ないです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と書いてあるとおり神様はお一人です。でもモーセによって旧い契約をした時代の神様と、イエス様の犠牲によって新しい契約をされた神様は、イエス様ゆえ人と和解された分、聖書からくみ取る愛を変えなければならないと感じます。
 イエス様が亡くなったとたん神殿の垂れ幕(至聖所を隔てる分厚い幕)が神の手で裂かれたように上から下へ裂けたのは、神殿中心の律法主義の終焉の象徴だと思います。パウロがキリスト者から割礼問題を無くしたように、唯一の神への信仰は時代に適して守らなければならないと思います。そのために使徒から現代まで聖職者が続いているのだと思います。
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Re:誤解を招く書き方でした (Logical Space)
2008-07-28 18:13:33
12nobuさん、こんにちは。

いえいえ、神様が1人であることを理解して頂ければ。

イエス様は律法を廃止するためでなく、完成するために、私が来たと言っています。マタイ5:17-20より
なので、今でも律法は守るべきものです。 ただし、律法より大事なことをイエス様は教えてくれました。 あなたと神様の関係の中で律法が重要でなく、イエス様がメシア(救い主)であることを信じることが、さらに重要なことです。
イエス様を信じることであなたと神様の関係が正しくなることが律法より重要なことだと、聖書に書いてある通りです。
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信仰による義 (12nobu)
2008-07-29 05:40:37
 律法はミシュナー、トセプタ、メチルタと細則化されていき、イエス様の時代には律法本来の精神が失われて、形骸化した細則だけが言い伝えられていたのですね。「主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。」(イザ29:13)と預言されたとおりになっていました。
 そこで、神様はイエス様を地上に送り、福音を告げ知らせ、最後はあがないとされました。パウロが「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(ロマ3:21)と書いているとおりです。
 神様との関係は人間の方からは「正しい(義しい)」と評価するのは難しいと思います。結局、神様が裁かれます。でもそれに近づいていく事は出来ると思います。イエス様は「「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。自分のどんな小さな執着をも断ち切って、イエス様に従わなければなりません。イグナチオ・ロヲラはこんな事を言っています。「神様につかえる人々は、大きな執着(金銭、名誉)はすっぱり断ち切っている人が多い。でも小さな糸のような執着を捨てきれずずるずる生きている人は多い。」信仰を守る上で、私たちを神から引き離そうとする、些細な執着をも断ち切れるかどうかに、本当に神様を中心に生きられるかどうかに、その人がかかっているような気がします。
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Re:信仰による義 (Logical Space)
2008-07-29 08:25:07
12nobuさん、おはようございます。

そうですね! 当時(2000年前)の律法は細かい規定によって成り立っていました。
「木を見て森を見ず」という言葉があります。 その時の細かい律法が木なんですね! イエス様を信じることが森なんですね!
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