原典を読んでいると、さまざまな発見、疑問があります。
【対訳聖書について】
創世記の対訳を持っているので、創世記の5章ぐらいまでならば、原典で読んでも、6割ぐらいは理解が出来ます。
【アダムとエバ】
日本語の聖書では、「アダムとエバ」と女を「エバ」と訳されています。
未信者の方は、「アダムとイブ」と女を「イブ」と読んでいる方がときどきいます。
日本語(他の外国語でも)での人名の訳し方は、発音表記をカタカナ(外国語では発音に近いように訳す)として訳しています。
ヘブライ語では、「エバ」が1番近い発音表記です。
【善悪の知識の木の実】
キリスト教の教えの中で、私たちの罪のことを原罪といいます。
それは、アダムとエバが「善悪の知識の木の実」を食べたことによって、罪がはびこりました。
よく、「善悪の知識の木の実」のことを「禁断の果実」、「リンゴ」などのように読み換えています。
『善悪の知識』の部分の理解が出来ない読み方をしていることに気がつきます。
どれだけのキリスト教の信徒で、『善悪の知識の木の実』と知っているのでしょうか?
【主なる神がダビデを選ぶ場面】
最近、最寄りの教会で、ダビデが初めて登場する場面を読みました。
説教では私が思ったことは触れていません。
しかし、主はサムエルに言われた。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
(サムエル上 16章7節 新共同訳)
エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。
彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。
主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
(サムエル上 16章12節 新共同訳)
「主は、心によって見る。」とは何か? その答えは「目は美しい」です。
【原罪と美しい目】
実は、創世記では次のように書かれてあります。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
(創世記 3章6-7節 新共同訳)
善悪の知識の木の実を、アダムとエバが食べた時、2人の目が開けたと書かれてあります。
主なる神は、人の透き通っている目を、美しい目と表現して、人の目の中に原罪を見ていることが分かりました。
だから、新約聖書ではイエス様は、次のように言われるのだと分かりました。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイによる福音書 7章4-5節 新共同訳)
これは、主なる神が目の美しさの中に原罪を見ている表れだと、私は思います。
【翻訳の著作権】
日本聖書協会は、さまざまな聖書を発行をしています。
しかし、原典から日本語に訳されること、翻訳には著作権が生じています。
なので、日本聖書協会では、著作権の理由より、(○○○○○書 ○章○節 ○○○訳)を明記するよう義務つけています。
また、1章以上を教会の礼拝(ミサ)などで使用する場合は、日本聖書協会に引用の許可の申請が義務つけられています。
参考サイト
日本聖書協会(著作権)より
【まとめ】
原典で読んでいると、さまざまなことを考えさせられます。
【対訳聖書について】
創世記の対訳を持っているので、創世記の5章ぐらいまでならば、原典で読んでも、6割ぐらいは理解が出来ます。
【アダムとエバ】
日本語の聖書では、「アダムとエバ」と女を「エバ」と訳されています。
未信者の方は、「アダムとイブ」と女を「イブ」と読んでいる方がときどきいます。
日本語(他の外国語でも)での人名の訳し方は、発音表記をカタカナ(外国語では発音に近いように訳す)として訳しています。
ヘブライ語では、「エバ」が1番近い発音表記です。
【善悪の知識の木の実】
キリスト教の教えの中で、私たちの罪のことを原罪といいます。
それは、アダムとエバが「善悪の知識の木の実」を食べたことによって、罪がはびこりました。
よく、「善悪の知識の木の実」のことを「禁断の果実」、「リンゴ」などのように読み換えています。
『善悪の知識』の部分の理解が出来ない読み方をしていることに気がつきます。
どれだけのキリスト教の信徒で、『善悪の知識の木の実』と知っているのでしょうか?
【主なる神がダビデを選ぶ場面】
最近、最寄りの教会で、ダビデが初めて登場する場面を読みました。
説教では私が思ったことは触れていません。
しかし、主はサムエルに言われた。
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
(サムエル上 16章7節 新共同訳)
エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。
彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。
主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
(サムエル上 16章12節 新共同訳)
「主は、心によって見る。」とは何か? その答えは「目は美しい」です。
【原罪と美しい目】
実は、創世記では次のように書かれてあります。
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
(創世記 3章6-7節 新共同訳)
善悪の知識の木の実を、アダムとエバが食べた時、2人の目が開けたと書かれてあります。
主なる神は、人の透き通っている目を、美しい目と表現して、人の目の中に原罪を見ていることが分かりました。
だから、新約聖書ではイエス様は、次のように言われるのだと分かりました。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
(マタイによる福音書 7章4-5節 新共同訳)
これは、主なる神が目の美しさの中に原罪を見ている表れだと、私は思います。
【翻訳の著作権】
日本聖書協会は、さまざまな聖書を発行をしています。
しかし、原典から日本語に訳されること、翻訳には著作権が生じています。
なので、日本聖書協会では、著作権の理由より、(○○○○○書 ○章○節 ○○○訳)を明記するよう義務つけています。
また、1章以上を教会の礼拝(ミサ)などで使用する場合は、日本聖書協会に引用の許可の申請が義務つけられています。
参考サイト
日本聖書協会(著作権)より
【まとめ】
原典で読んでいると、さまざまなことを考えさせられます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます