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イエス・キリストのブログ
プロテスタント(バプテスト派)

イエス・キリストの誕生の預言

2012-12-24 09:59:57 | 聖書
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。
見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうかわたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かずその口に偽りもなかったのにその墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。
===== イザヤ書 53章 1-12節(新共同訳) =====

イエス・キリストが、処女マリアより誕生して、十字架で処刑される様子を、預言者イザヤが語っています。

イエス・キリストは、なぜ地上へ降臨されたのでしょうか?
イザヤは、次のように語っています。
『そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。』
私たちの罪を赦すために、この地上へ降臨されました。

クリスマスは、イエス・キリストが「私たちの罪を赦すために」、この地上へ降臨されたことを、記念してお祝する日です。

メリー・クリスマス♪♪♪

「主にあって」とは

2012-05-21 12:20:16 | 聖書
フィリピへの信徒への手紙 4章4節

(口語訳)
あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

(新改訳 第3版)
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

(新共同訳)
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

(New King James Version)
Rejoice in the Lord always. Again I will say, rejoice!

(Today's English Version)
May you always be joyful in your union with the Lord. I say it again: rejoice!

「主にあって」、「主において」とは、どのような意味なのでしょうか?
何となくキリスト教の独特な表現に感じる方がいるようです。

Χαίρετε ἐν κυρίῳ πάντοτε· πάλιν ἐρῶ, χαίρετε.
これは、ギリシャ語のἐν(エン)の前置詞の訳し方で、ニュアンスが異なります。

ἐν(エン)とは「中に、間に、で、よって、に」という意味です。
直訳をすると、「いつも主の中で喜びなさい」、「いつも主の間で喜びなさい」です。

「主にあって」、「主において」とは「主の中で」、「主の間で」という意味です。

最近、心に響く御言葉

2012-05-11 07:40:49 | 聖書
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。
押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。
あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
===== ルカによる福音書 6:38(新共同訳) =====

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
===== テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18(新共同訳) =====

何だか、最近、心に響く御言葉です。

罪に定めない

2012-01-10 18:34:52 | 聖書
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

女が、

「主よ、だれも」

と言うと、イエスは言われた。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
===== ヨハネによる福音書 8章 1-11節(新共同訳) =====


主イエスに対して、律法学者などが、姦通の女を連れて来ました。
しかし、姦通の女に対して、主イエスは罪に定めないように取り計ります。

ここで、律法学者などは、律法についての内容を主イエスに話します。
「姦通の女は、石で打ち殺せ」と主イエスに話しました。


『罪』とは、何かを考えさせられます。
1:天の父が、人を罪に定める
2:人が、人を罪に定める
「1」、「2」のことを、深く考えさせられます。

律法学者などは、明らかに「2」です。
しかし、主イエスは「1」でした。

そして、主イエスは、「罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい。」と話します。
天の父が、人を罪に定めるとは、どういうことなのか?
本当に、考えさせられます。


そして、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ります」

そして、主イエスは姦通の女に対して、
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
と話しました。


これは、主イエスの愛の深さを物語っていると思います。

いつも、主イエスの愛に触れていたいです。

光あれ

2012-01-02 17:04:44 | 聖書
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。
「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。
創世記 1章 1-5節(新共同訳)

『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』
創世記の神の「光あれ。」の御言葉に信仰を、そして希望を持ちたい1年です。
神の初めの言葉を大事にして、この1年を歩みたいです。

聖書の始まり

2011-08-17 09:05:36 | 聖書
初めに、神は天地を創造された。
===== 創世記 1章 1節 =====

聖書の始まりは、この御言葉から始まります。

「創造する」は原語では、「形づくる」という意味もあります。
「神」は、複数形なので「神々」とも訳せます。 動詞が単数形なので、「神」と訳しています。
「天」は、複数形なので「多くの天」とも訳せます。


私の個人訳になりますが。
初めに、神々は多くの天と地を形づくられた。
とも訳せる内容です。


天地の始まりは、エロヒームが創造された。

天地を創造された、エロヒーム(神々)を信じて行きましょう。
アーメン!

夫婦で聖書を読む

2011-01-21 17:40:51 | 聖書
最近は、夫婦で聖書を読むようにしました。

現在は、マタイによる福音書を読んでいます。
1章から読んでいますが、預言者の言葉が書かれてあります。
その言葉がイザヤ書、エレミヤ書、ミカ書だったりと確認をしながら読んでいます。

なかなか、教会以外で一緒に読む機会がないので。
一緒に読むと新鮮です。

日々の糧

2010-05-05 11:36:19 | 聖書
日々の糧について


===== 創世記 3章 17節 =====
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
(新共同訳)

בעבורך בעצבון תאבלנה כל ימי הייך
(ヘブライ語原典)

生命を維持するそれぞれの日々は、苦労のために食べる
(Logicalの直訳)


===== マタイによる福音書 6章 33節 =====
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
(新共同訳)

ζητειτε δε πρωτον την βασιλειαν του θεου και την δικαιοσυνην αυτου,
και ταυτα παντα προστεθησεται υμιν.
(ギリシャ語原典)

まず、セオスの支配とセオスの正しさを探し求めなさい、
そして、すべてのこのことはあなたに増し加えられるだろう。
(Logicalの直訳)
※セオスは、天の父のことです。


<分かち合い>
アダムとエバは、天の父の約束を破り、善悪の知識の木から実を食べました。
そして、その約束を破ったことによって、「苦労のために食べる(Logical訳)」ことになりました。
しかし新約聖書では、「天の父の支配と正しさを探し求めなさい(Logical訳)」と主イエスは言われました。
つまりは、天の父の約束を破っても、天の父の支配と正しさを探し求めなさいと、聖書には書かれています。

翻訳について

2010-04-10 17:32:10 | 聖書
あくまでも、個人的な見解で記事を書いていることをお断りしておきます。


ヘブライ語のאלהים(エロヒーム)は、神と翻訳されています。
ギリシャ語のθεος(セオス)は、神と翻訳されています。


神道(しんとう)の神は、八百万の神々です。
神道の神とは。
火(カ)と水(ミ)で神(カミ)になる。
「尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物」が神

神道は、日本の最古の歴史書の『古事記』などに出てくる神から信仰している宗教です。
※神道は神社、仏教がお寺 のようです。


フランシスコ・ザビエルが来日した時に、エロヒーム(ヘブライ語)、セオス(ギリシャ語)を訳する時に、神と翻訳をしたようです。

無神論者の方が、「神」という響きを聴けば、畏れおおい方の意味に聴こえて来る感じです。
神道を信仰している方が、「神」という響きを聴けば、八百万の神々の意味に聴こえて来ると思います。

エロヒームとは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「天地の創造者」です。
無神論者の方が、「神」と聞けば、神道の神とエロヒームのどちらかなのかが分かりません。
神道の方が、「神」と聞けば、エロヒームとは違うと主張が出てきそうです。

なので、エロヒームを「神」と翻訳することは、神道の神と誤解を招くと思います。
だからと言って、エロヒーム、セオスをどのように翻訳をすれば良いかは現在は見当がつきません。

前置きに書きましたが、個人的にはエロヒームと神を分けた方が良いと感じました。
日本において、キリスト教が広まらないのは、日本人の神の概念が紛らわしい部分があるからだと、少なからず思いました。

江戸時代、明治、大正、昭和とエロヒームを「神」と翻訳したことが間違いだとは思いません。
しかしある程度、キリスト教が普及すると、神道の神との違い、神の概念が異なる部分あるならば、「神」と翻訳をしていることが良いのか?
と疑問を持ちました。

個人的には、エロヒーム、セオスを「神」以外の翻訳があれば、良いと思っています。
あくまでも、個人的な見解で記事を書いています。