原罪とは、何でしょうか?
キリスト教では、大切な教えが原罪です。
よく、クリスチャンになるとき自分の罪を認めないといけないと言われます。
私は、両親にも、友人にも、社会にも罪を犯した覚えはないのに、なぜ、自分の罪を認めないといけないのか?
と言われる方も多くいます。
反面、私は人にいたずらばかりして、悪い人間です。 こんな私でも主イエスは赦してくれるの?
と言われる方も多くいます。
ローマ 5:13では、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
と書かれています。
<Logicalの原文直訳>
なぜなら律法に至るまで、この世に罪があった、そして罪は、ない律法には、責任を負わせない。
律法とは、モーセの十戒のことを言います。
モーセの十戒には、偽証してはならない。(原文では、未来の否定形の命令形) と書いてありますが、「律法がなければ、罪は罪と認められない」とは、相手に嘘を言うことは、律法によって知っているからです。
そうすると、モーセの十戒を守ることによって、罪を犯さないのことが、よいことと考えがちです。
創世記をよく読んでみると。
原罪の原因は、「善悪の知識の木」にあります。
<注意>
これも、よく誤解されることですが、「禁断の木の実」、「リンゴのような実」を食べたとか、比喩的な言い伝えがあります。
1)「禁断の木の実」とは、天の父が食べてならないと言った所から表現されていますが、聖書を忠実に読むという観点からでは、「善悪の知識の木」の比喩的な表現だと分かります。
2)「リンゴのような実」とは、聖書にいかにもおいしそうな実であったと表現されていることから、これも比喩的な表現だと分かります。
そうです、この「善悪の知識の木」が原罪の原因なのです。
原文を読むと、はっきりと「善」と「悪」と「知識(理解)」と書かれてあります。
この「善悪の知識の木」を食べたことによって、アダムとエバはどのような変化があったのでしょうか?
1) 天の父との約束を破った(天の父に対して従順ではない、天の父に背いた)
別の観点から言えば、天の父との正しい関係が壊れたことを意味します。
つまりは、創造主を創造主として敬わないことも意味します。
人は肉親の親も親とは思わない、会社の社長を社長と思わない、国の首相を首相とは思わない傾向も、持ち合わせていることが分かります。
2) 人は裸であることを恥ずかしい(羞恥心)と思うようになった。
天の父が人の前に現れて、アダムは裸なので隠れました。
学校の授業とかで、宿題を1人だけ忘れて恥ずかしい思いをしませんでしたか?
つまり、周りのみんながしているのに、自分だけ違うことをした経験はありませんか?
つまりは、他人と比べることによって、人と差をつけたい自分がいます。(社会の格差)
3)人は死ぬ者となりました。
人は死ぬ者とは、文字通りに寿命によって死ぬことも意味します。
反面、人を殺す存在でもあることも意味します。
人を殺すとは、弱者を切り捨てて、強者のみが生き残ることを意味します。
つまりは、人の悪い面ばかりを見て、見下すそうな自分がいることです。
まとめると、原罪とは「善悪の知識の木」より天の父の関係が壊れ(敬ないこと)、恥を知り(人と比べる)、自分が死ぬ(人を殺す)ようなになったことを意味します。
そのような性質をアダム、エバの時代から受け継いでいます。
なので、律法を守ればよいという考え方ではなく、「善悪の知識の木」からの性質を受け継いでいる自分を受け入れること。
その性質は、救い主である主イエスの十字架の血潮によって贖われること。
<<< 注意 >>>
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エホバの証人が使われている新世界訳は原典⇒英語⇒日本語と2重訳をしている聖書を使っています。
神に対して、誠実であるならば、原典⇒日本語の翻訳をするべきであります。
また、原典のヘブライ語の解釈、ギリシャ語の解釈をそれぞれするべきですが、英語の解釈をそのまま当てはめています。
エホバの証人は、キリスト教のカトリック、プロテスタントに対して、偽りの宗教と勝手に決め付けていますが、キリスト教の教会に行ったこともなく、勝手に批判をしています。
私は、エホバの証人を批判する意図はありません。
ただ、事実を書いているだけ。
聖書に書かれてあるとおり、「否、否」、「然り、然り」と言われているからです。