最近の社会のニュースは、市橋容疑者がリンゼン・アン・ホーカーさんの殺害のニュースばかりです。
聖書というと、「聖なる書物」と書かれているので、とてもクリーンなイメージがありますが、読んでみるとそうでもないのです。
以外にも、聖書の初めから人殺しは出てきます。
創世記の4章には、アダムとエバの息子の兄カインと弟アベルの兄弟による人殺しが出てきます。
兄カインと弟アベルが、天の父へと献げ物をしました。
天の父が弟アベルの献げ物に目を留めましたが、兄カインの献げ物には目を留めませんでした。
それから、兄カインは怒り、弟アベルを殺してしまいました。
聖書の「聖」とはクリーンなイメージがありますが、読んでみると全然違って、人のドロドロした生々しいことが書かれてありまs。
そもそも、「聖」の漢字をあてた意味は、牧師より次のように教えて頂きました。
天の父と人を区別する意味として、それにふさわしい漢字を探したところ「聖」ということだと、教えて頂きました。
なので、聖書とは「聖なる書物」のことですが、さらに言えば、「天の父と人を区別する書物」と理解するようです。
十戒には、「人を殺してはならない」と書かれてあります。
(出エジプト記 20章 13節)
さらに、詳しく律法について書かれてある部分があります。
レビ記⇒申命記には次のように書かれています。
人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。
家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。
人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
(レビ記 24章 17-20節)
命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
(申命記 19章 21節)
レビ記⇒申命記を読めば分かりますが、被害を受けた方と同じことの傷害を受けなければならないと書かれています。
=== 補足と注意 ===
また、旧約聖書の時代の律法なので、ハムラビ法典にも似たような教えがあったので、当時には、そのような倫理観があったと推測している記述も見られます。
新約聖書にも、「目には目を歯には歯を」と同じ言葉が用いられている個所もあります。
(マタイによる福音書 5章 38節)
================
新約聖書では、姦淫の罪については次のようなことが、ありました。
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネによる福音書 8章 1-11節)
主イエスは、驚くべきことを言います。
それは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。
この時に、「はっ!」とさせられます。
私は、天の父の前では1人の罪人であることです。
そして、私には人を罪に定めることが出来ないことです。
旧約聖書での解釈では、人が人を罪に定めているのかと問われればそうではないのです。
天の父が律法の中で、「人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」と書かれてあるだけなのです。
つまりは、「命には命」と書かれているいますが、それは天の父が定めたことなのです。
新約聖書の主イエスも、同様に人が人を罪に定めていない点が共通している意味では同じなのです。
市橋容疑者は、日本の憲法の中の殺人罪を犯したことになります。
なので、日本の憲法の中では裁かれることが決まっています。
しかし聖書では、天の父だけが市橋容疑者を罪に定めることが出来ます。
天の父は、愛の方でありますから、どんな罪でも救うことが出来ます。
私は次のことを望んでいます。
天の父の御前で、自分の罪を告白して、主イエスの救いの福音を信じることを望みます。
なので、クリスチャンとしては人のことをあれこれということよりも、人が主イエスによって救われることを望みます。