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イエス・キリストのブログ
プロテスタント(バプテスト派)

ギリシャ語の本

2009-11-24 21:55:05 | 聖書の原典
今日は、東京の教文館に行ってきました。

新約聖書ギリシャ語入門を購入しました。
動詞について書かれてあったので、嬉しかったです。
頑張って、原典を読もうと思います。
※外国語なので、読める方は原典をお薦めしますが、そうでない方は日本語訳をお薦めします。

教文館の本は、本当に品ぞろえがよくて、すごいと思いました。
天の父の業だと思います。

ギリシャ語の動詞

2009-11-15 12:41:28 | 聖書の原典
今日も、睡眠障害より礼拝に行けませんでした。
いつも、天の父につながっていたいです。

聖書の原典を読んでいて、未だに分からないことがあります。
ギリシャ語の動詞の変化が、まだ分かりません。

能動態、受動態の2種類があります。
それぞれ、現在、未完了過去、不定過去、現在完了、過去完了、未来の6種類があります。
6種類×2より12種類の動詞の語尾変化があると思いますが、どのようになるのでしょうか?

聖書のギリシャ語なので、コイネー・ギリシャ語になると思います。
他には、古典ギリシャ語、現代ギリシャ語もありますが、あまり違いまでは勉強をしていません。

私が持っている本は、聖書ギリシャ語入門です。

人殺しについて

2009-11-12 15:55:21 | 社会について
最近の社会のニュースは、市橋容疑者がリンゼン・アン・ホーカーさんの殺害のニュースばかりです。

聖書というと、「聖なる書物」と書かれているので、とてもクリーンなイメージがありますが、読んでみるとそうでもないのです。

以外にも、聖書の初めから人殺しは出てきます。
創世記の4章には、アダムとエバの息子の兄カインと弟アベルの兄弟による人殺しが出てきます。
兄カインと弟アベルが、天の父へと献げ物をしました。
天の父が弟アベルの献げ物に目を留めましたが、兄カインの献げ物には目を留めませんでした。
それから、兄カインは怒り、弟アベルを殺してしまいました。

聖書の「聖」とはクリーンなイメージがありますが、読んでみると全然違って、人のドロドロした生々しいことが書かれてありまs。
そもそも、「聖」の漢字をあてた意味は、牧師より次のように教えて頂きました。
天の父と人を区別する意味として、それにふさわしい漢字を探したところ「聖」ということだと、教えて頂きました。
なので、聖書とは「聖なる書物」のことですが、さらに言えば、「天の父と人を区別する書物」と理解するようです。


十戒には、「人を殺してはならない」と書かれてあります。
(出エジプト記 20章 13節)

さらに、詳しく律法について書かれてある部分があります。
レビ記⇒申命記には次のように書かれています。

人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。
家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。
人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。
骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
(レビ記 24章 17-20節)

命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
(申命記 19章 21節)

レビ記⇒申命記を読めば分かりますが、被害を受けた方と同じことの傷害を受けなければならないと書かれています。

=== 補足と注意 ===
また、旧約聖書の時代の律法なので、ハムラビ法典にも似たような教えがあったので、当時には、そのような倫理観があったと推測している記述も見られます。
新約聖書にも、「目には目を歯には歯を」と同じ言葉が用いられている個所もあります。
(マタイによる福音書 5章 38節)
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新約聖書では、姦淫の罪については次のようなことが、ありました。

イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネによる福音書 8章 1-11節)


主イエスは、驚くべきことを言います。
それは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。

この時に、「はっ!」とさせられます。
私は、天の父の前では1人の罪人であることです。
そして、私には人を罪に定めることが出来ないことです。

旧約聖書での解釈では、人が人を罪に定めているのかと問われればそうではないのです。
天の父が律法の中で、「人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」と書かれてあるだけなのです。
つまりは、「命には命」と書かれているいますが、それは天の父が定めたことなのです。
新約聖書の主イエスも、同様に人が人を罪に定めていない点が共通している意味では同じなのです。


市橋容疑者は、日本の憲法の中の殺人罪を犯したことになります。
なので、日本の憲法の中では裁かれることが決まっています。


しかし聖書では、天の父だけが市橋容疑者を罪に定めることが出来ます。
天の父は、愛の方でありますから、どんな罪でも救うことが出来ます。

私は次のことを望んでいます。
天の父の御前で、自分の罪を告白して、主イエスの救いの福音を信じることを望みます。

なので、クリスチャンとしては人のことをあれこれということよりも、人が主イエスによって救われることを望みます。

聖書を読む

2009-11-09 21:02:08 | 聖書の原典
現在は、聖書の原典を通読しようと頑張っています。

ヘブライ語、ギリシャ語の文法は、あまり細かい部分は気にしないで読んでいます。
でも、なかなか原典で読むのは、難しいです。

現在は、創世記とマルコによる福音書を読んでいます。
少しづつ頑張ろうと思います。

親について

2009-11-05 10:33:31 | その他
親は、関西の病院で治療をして、11/4には、地元の病院に行って診察をしました。
命の危険性はなくなり、今後は薬物治療より様子を見ることになりました。
※このブログは「聖書は読んでいますか?」の記事から18日ぶりです。

べんちぬさん
お祈りをありがとうございました。