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イエス・キリストのブログ
プロテスタント(バプテスト派)

預言と予言の違い

2010-07-24 13:10:13 | その他
キリスト教の方ではないと思いますが、預言と予言の違いを調べているそうです。

聖書に出てくる預言の語源は次の単語です。
ヘブライ語:נביא(ナビー)
ギリシャ語:προφητης(プロフェーテス)
この原語の単語が「預言者」を表します。

英語では、「預言者」、「予言者」は同じ単語の「prophet」と訳されています。


聖書では「預言者」しか使われません。
預言者とは、天の父から言葉を預かって、ユダヤの民に使える方のことを言います。

例えば、モーセは天の父からの言葉をユダヤの民に話をしました。
ダビデ王も、天の父の言葉をイスラエルの民に話をしました。
同様に、イザヤ、エゼキエル、エリヤなどなどが、預言者です。


予言者とは、未来を予告する方のことを言います。
ノストラダムスの大予言、ブラジルの英語教師のジュセリーノの予知夢などが、未来を予告する方なので、予言者になります。


ヘブライ語、ギリシャ語の原語 ⇒ 英語の単語(区別しない) ⇒ 日本語訳(区別して使われる)

確かに、聖書の言葉から派生している単語ですが、無神論者から見れば、混乱する原因になる感じです。
とても似ているので、紛らわしいと思います。

最近の日課

2010-07-21 20:56:08 | 聖書の原典
最近の日課は、聖書を読むことです。

2つの目的があります。
1つ目は、原典をそのまま読むこと、聴くことです。
ヘブライ語の原典を、毎日約5章つづ読んで聴いています。
分からなくてもいいので、毎日続けています。
ヘブライ語は、古典文字だから、当然、理解するのはかなり大変です。

2つ目は、対訳を読み、聴くことです。
ヘブライ語、ギリシャ語の対訳を読み、聴いています。
ヘブライ語は、創世記とイザヤ書より約6章づつ。
ギリシャ語は、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書より3章つづ。
ヘブライ語、ギリシャ語の単語を覚える目的で頑張っています。
そして、ヘブライ語、ギリシャ語を原典で読めるようになりたいのが1つの目標です。

つまり、約5章、約6章、3章なので、合計約14章を読んで聴いています。
大体、2時間ぐらいかかります。


原典で読んでいると、文字通りに理解をすれば良いので、そのままの聖書を読んでいる感じがします。
ときどきですが、新しい発見もあります。 でも、独学で頑張っています。

原罪とは

2010-07-08 09:07:52 | 分かち合い
原罪とは、何でしょうか?
キリスト教では、大切な教えが原罪です。


よく、クリスチャンになるとき自分の罪を認めないといけないと言われます。
私は、両親にも、友人にも、社会にも罪を犯した覚えはないのに、なぜ、自分の罪を認めないといけないのか?
と言われる方も多くいます。

反面、私は人にいたずらばかりして、悪い人間です。 こんな私でも主イエスは赦してくれるの?
と言われる方も多くいます。


ローマ 5:13では、律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
と書かれています。

<Logicalの原文直訳>
なぜなら律法に至るまで、この世に罪があった、そして罪は、ない律法には、責任を負わせない。

律法とは、モーセの十戒のことを言います。
モーセの十戒には、偽証してはならない。(原文では、未来の否定形の命令形) と書いてありますが、「律法がなければ、罪は罪と認められない」とは、相手に嘘を言うことは、律法によって知っているからです。

そうすると、モーセの十戒を守ることによって、罪を犯さないのことが、よいことと考えがちです。


創世記をよく読んでみると。
原罪の原因は、「善悪の知識の木」にあります。

<注意>
これも、よく誤解されることですが、「禁断の木の実」、「リンゴのような実」を食べたとか、比喩的な言い伝えがあります。
1)「禁断の木の実」とは、天の父が食べてならないと言った所から表現されていますが、聖書を忠実に読むという観点からでは、「善悪の知識の木」の比喩的な表現だと分かります。
2)「リンゴのような実」とは、聖書にいかにもおいしそうな実であったと表現されていることから、これも比喩的な表現だと分かります。

そうです、この「善悪の知識の木」が原罪の原因なのです。
原文を読むと、はっきりと「善」と「悪」と「知識(理解)」と書かれてあります。


この「善悪の知識の木」を食べたことによって、アダムとエバはどのような変化があったのでしょうか?
1) 天の父との約束を破った(天の父に対して従順ではない、天の父に背いた)
別の観点から言えば、天の父との正しい関係が壊れたことを意味します。

つまりは、創造主を創造主として敬わないことも意味します。
人は肉親の親も親とは思わない、会社の社長を社長と思わない、国の首相を首相とは思わない傾向も、持ち合わせていることが分かります。

2) 人は裸であることを恥ずかしい(羞恥心)と思うようになった。
天の父が人の前に現れて、アダムは裸なので隠れました。

学校の授業とかで、宿題を1人だけ忘れて恥ずかしい思いをしませんでしたか?
つまり、周りのみんながしているのに、自分だけ違うことをした経験はありませんか?
つまりは、他人と比べることによって、人と差をつけたい自分がいます。(社会の格差)

3)人は死ぬ者となりました。
人は死ぬ者とは、文字通りに寿命によって死ぬことも意味します。
反面、人を殺す存在でもあることも意味します。
人を殺すとは、弱者を切り捨てて、強者のみが生き残ることを意味します。
つまりは、人の悪い面ばかりを見て、見下すそうな自分がいることです。


まとめると、原罪とは「善悪の知識の木」より天の父の関係が壊れ(敬ないこと)、恥を知り(人と比べる)、自分が死ぬ(人を殺す)ようなになったことを意味します。
そのような性質をアダム、エバの時代から受け継いでいます。

なので、律法を守ればよいという考え方ではなく、「善悪の知識の木」からの性質を受け継いでいる自分を受け入れること。
その性質は、救い主である主イエスの十字架の血潮によって贖われること。


<<< 注意 >>>
差別をする訳ではありませんが、トラックバックをしている方は、エホバの証人です。
なので、エホバの証人に関するコメントはしないでください。
愛を説く、キリスト教がやみくもに削除をするのは、また変な話なので、あえて削除は致しません。

エホバの証人が使われている新世界訳は原典⇒英語⇒日本語と2重訳をしている聖書を使っています。
神に対して、誠実であるならば、原典⇒日本語の翻訳をするべきであります。
また、原典のヘブライ語の解釈、ギリシャ語の解釈をそれぞれするべきですが、英語の解釈をそのまま当てはめています。

エホバの証人は、キリスト教のカトリック、プロテスタントに対して、偽りの宗教と勝手に決め付けていますが、キリスト教の教会に行ったこともなく、勝手に批判をしています。

私は、エホバの証人を批判する意図はありません。
ただ、事実を書いているだけ。
聖書に書かれてあるとおり、「否、否」、「然り、然り」と言われているからです。

義について

2010-07-02 21:48:10 | 聖書の原典
keikoさんより、ギリシャ語についてコメントを頂きました。

ローマへの信徒への手紙の「義について」の聖書箇所について紹介がありました。

<新共同訳>
11 神は人を分け隔てなさいません。
12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
===== ローマへの信徒への手紙 2章 11-14節 =====

義について書かれてある箇所だと思います。
律法を実行することによって、天の父の前で正しい人になる訳ではなく、イエス・キリストを信じることによって天の父の前で正しい人にされます。
イエス・キリストによって、義にされるということです。
聖書全体のメッセージは、イエス・キリストによって、義にされるということですが、ローマの信徒への手紙ではさらに、詳しく書かれています。


<ギリシャ語>
11:ου γαρ εστιν προσωποληψια παρα τω θεω.
12:οσοι γαρ ανομως ημαρτον, ανομως και απολουνται, και οσοι εν νομω ημαρτον, δια νομου κριθησονται.
13:ου γαρ οι ακροαται νομου δικαιοι παρα τω θεω, αλλ οι ποιηται νομου δικαιωθησονται.
14:οταν γαρ εθνη τα μη νομον εχοντα φυσει τα του νομου ποιωσιν, ουτοι νομον μη εχοντες εαυτοις εισιν νομος.

<Logicalの直訳>
11:なぜなら、神からえこひいきはない。
12:何事でも、なぜなら律法なしに(彼らは)罪を犯した、律法なくそして(彼らは)滅ぼすだろう、そして、何事でも律法の中で(彼らは)罪を犯した、律法を通して(彼らは)裁かれるだろう。
13:なぜなら、律法を聞く者は神から正しいのではなく、しかし、律法を行う者が正しいことを証明されるだろう。
14:なぜなら、律法がない異邦人が律法の本性を持つことをするとき、この律法を持たないことが、彼自身の律法である。


私の発見は、「παρα τω θεω」の「神から」と書かれている部分です。
11節の「神からえこひいきはない」、13節の「神から正しいのではなく」の部分です。 「神から」の「えこひいき」や「正しさ」ではないことが分かりました。

12節は、動詞が(アオリスト⇒未来)と2回続けて書かれていることです。 「罪を犯した・・・滅ぼすだろう、罪を犯した・・・裁かれるだろう」の部分です。
ギリシャ語の過去形は3種類あります。
未完了過去:行為が継続している過去
アオリスト:過去の行為があったこと
過去完了:ある過去から以前の出来事。
ここでは、過去の行為があり、未来へと書かれてあることです。

12節の動詞が3人称複数なので、直訳では「彼らは」(新共同訳では「・・・者」)と複数の人々を表していることが分かりました。


ギリシャ語で読むと、誰からとか、動詞の時制の違いが分かり、なるほどと聖書の御言葉がストレートに入って来る感じです。

今後とも、よろしくお願いします。