これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

広島の原爆と父

2018-07-21 09:20:59 | 原爆
 もうすぐ広島に原爆が投下された8月6日が来ますので、いままで家族以外に話したことの無い、私の父が広島で被爆した話しを書きます。
 広島に原爆が投下された時、父は広島に住んでいましたが、家族は福山市に疎開していました。父は被爆しましたが、奇跡的に助かり87才まで生きました。
 父はノモンハン事件、シンゴラ上陸作戦等々、戦争の話をよくしていましたが、広島の原爆にについて私に語ったのは2回だけでした。

【小学6年生の夏休み】
 私の父が被爆したことは、姉達から聞いていましたが、父は広島の原爆については一切話しませんでした。私が小学6年生の夏休みの夜、私だけを呼んで原爆の経験について話してくれました。(姉達には、死ぬまで話さなかった様です。)

 父から聞いた内容を長文の作文にして、学校に提出したのですが、何故かその作文は返してもらえませんでした。従って、私のおぼろげな記憶を頼りに、この記事は書きました。

【父は陸軍の軍人でした】
 私の父は旧姓”寒川(そうがわ)”で、船舶砲兵団司令部に勤務する少佐でした。原爆が投下された日は上官二人が東京に出張していたため、父が司令部の責任者だったそうです。
 『広島原爆戦災誌』によれば、船舶砲兵団司令部は『比治山』に有りました。父はそこで被爆したのだと思います。

【父が原爆について話したこと】
 高台の広場に兵隊を整列させ、父が台の上に立って朝の訓示をしていたそうです。父の背後、数百メートル(注記:1)の所で原爆が爆発し、父は十数メートルほど吹き飛ばされて、気絶していた様です。

 覚醒すると、多くの兵隊さんが焼け焦げて”呻いて”いました。生き残った兵隊さんは極少数だった様です。 父の背後に立っていた大きな木は、葉っぱが殆ど吹き飛ばされていました。この木が閃光を遮ってくれたので、父は助かったのです。

 焼け焦げた兵隊さんは、次々と息絶えていったそうですが、父は「何も出来なかった」と言っていました。 (注記:2)

 生き残った兵隊さん達を連れて、市内にリヤカーや大八車を調達しに出掛けると、夥しい人が亡くなっており、苦しそうに呻く人が沢山おられたそうです。

 それから何日も掛けて、兵隊さん達とリヤカーと大八車で遺体を運びました。余りにも多かったので、穴を掘るのは無理と考え、小さな谷の奥に運び、最後に土を被せた様です。二か所に埋めたと言っていました。

 遺体を運んでいた時、”黒い雨”が降ったとも言っていました。後に井伏鱒二の小説『黒い雨』を読んで、本当の話しだった事を知りました。

 注記:1) 父は爆心から数百メートルと言ってましたが、2kmが正しい様です。余りにも凄まじい爆発だったので、直ぐ近に落ちたと錯覚していたのだと思います。

 注記:2) 『広島原爆戦災誌』によると、『比治山』の船舶砲兵団司令部にいた500名の内、生き残ったのはわずか35名だった様です。

 {疑問} 『広島原爆戦災誌』の”ページ113”に、父達の活躍についての簡単な記述が有りますが、不思議な事に数日前に着任したばかりで、爆発時に不在だった主計大尉からのヒヤリングによるものです。何故、実際に遺体の処理に当たった(父を含めた)兵隊さんからヒヤリングしなかったのでしょうか? きっと、違った内容になっていたと思われます。

【終戦後の父】 
 父の残した記録では、1945年(昭和20年)12月1日まで、広島で残務整理をしていた様です。その後、福山市の家族のもとに帰りましたが、二か月ほど寝込んでいた様です。母は『原爆性白血病』だったと言っていましたが、真否の程は分かりません。

 1946年(昭和21年)の春先に、家族揃って和歌山県の山奥の貧しい父の実家に帰りました。

 開業医だった叔父が、『被爆者の無料検診』を受ける様に何度もアドバイスしましが、死ぬまで受診しませんでした。それでも84歳まで、元気に野良仕事をしていました。

  1952年に警察予備隊が出来ました。何回も入隊の誘いが有りましたが、毎回、丁重にお断りしていました。母・姉達・私も、都会に戻るために警察予備隊に入って欲しかったのですが。

【二回目に話したこと】
 1985年、「死ぬ前にもう一度広島に行ってみたい」といって、父が母を連れて出掛けました。何泊かの予定でしたが、二人とも疲れた様子で、その晩に帰って来てしまいました。

 次の日、「遺体を埋めた所は探し当てたが、二か所とも沢山住宅が建っていた。奥さん達に、この下に夥しい数の遺体を埋めましたとは言えなかった!」とだけ話しました。

 父は、埋めた場所に碑を建てるなどして、丁重に扱われていることを確認しに行ったのだと思います。自分の部下だった方も沢山眠っているわけですから。

 注記) 宅地造成で出て来た遺骨は、『原爆供養塔』に埋葬されているそうです。父が知ったら喜んだと思います!

【威力3,000倍の水爆】
 ロシアとアメリカは、広島の原爆より威力が3,000倍以上ある水爆を保有している様です。何と愚かなんでしょう!

 私は、「原爆や水爆を保有する国から、国連の安全保障理事会の”拒否権”を剥奪する世界的な運動」を提唱します。 剥奪出来るとは思いませんが、原爆と水爆を保有国が国連を支配する現実を問題視して欲しい!


【お詫び】
 私が小さいころ、「父が被爆した後で出来た子だから、染色体に異常があるかも?」と何人かに言われました。『10月10日』のひと月を30日で数えるとそうなります。真実は、原爆の前に母が身ごもった子です。

 説明が面倒なため、(若い頃から髪の毛が少ない事もあって、)年齢を誤魔化してきました。そんな訳で、このプログの自己紹介に『喜寿』を過ぎていると書きましたが、『古希』が正しいです。


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