これ!どう思います?

マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

紙幣と貨幣の話し (その1)

2020-01-18 12:34:03 | 歴史
 今回から、貨幣の収集が切っ掛けで知った、紙幣と貨幣の話を書きます。 3回ほど連載する予定です。

【母の不思議な習慣】
 私の母には変わったところが色々有りました。その一つが、全ての引出し、文箱、その他の収納箱に昔の貨幣や紙幣を入れる事です。(紙幣は全て少額で、使い古したボロボロの状態でした) 臍繰り(ヘソクリ)か?迷信の一種か?と思っていたのですが、小学生になった頃に、「引出しの貨幣や紙幣を貰ってもいいか?」と聞いたら、あっさりと許可してくれました。

 箪笥や長持にも入っていて、貨幣は千枚ほど、紙幣は少なかったですが数十枚は有りました。大正時代から戦中まで日本で発行された物でした。それ以来、貨幣を収集する様になりました。満州や朝鮮半島から引き揚げて来た家の子供達から、持ち帰った貨幣を物々交換して手に入れました。

 一文銭や四文銭は、我が家には一枚も有りませんでしたが、村のどの家にも沢山残っていたので、物々交換で沢山入手出来ました。(江戸時代の銭を、2メートル程の紐に通したのを見せて貰った事も有ります。)

【コイン収集のその後】
 古銭や古い紙幣の取引価格が記載された本を入手しましたが、価値の有るのは殆どまだ所有していませんでした。簡単な発行時の経緯なども書いていて、後で考えると良い勉強をしたと思います。

 小学館出版の小学◎年生と漫画の雑誌を購読していたのでが、懸賞に応募したら大きくて/豪華な玩具が当たりました。開封していた時、たまたま近所の一歳年上の男の子が通り掛かり、早速動かして見ました。(彼が家に帰るには、我が家の庭を必ず通る必要が有ったのです。)

 暫くすると、彼が、明治7年の50銭か?20銭硬貨か?を持って来て、「これと交換してくれ」と言うのです。前述の本で、その貨幣の価値を知っていました。玩具を持って彼の家に行って、彼の両親に「このコインは高価だけど、交換しても良いか?」と聞くと、逆に「お前の方こそ親の許しが必要では?」と言う様なやり取りがあり、何と!取引が成立したのです。それ以来、私の宝物になりました。

 1916年~38年に発行された”桐一銭銅貨”を数十枚収集していたのですが、東京で働いていた姉が、「自動切符販売機で、十円硬貨として使えるかも知れない」と言って、二、三枚持って行きました。次に帰って来た時に、数枚を残して、強引に全部持って行ってしまいました。(桐一銭銅貨と十円硬貨ではだいぶ違いますが、当時の自動切符販売機はいい加減な物だったのです。)

 私は、段々紙幣の方に興味が湧いて来て、コインの収集は殆どしなくなっていました。私には十歳も違わない甥がいるのですが、甥が中学生の頃コイン収集を始めたので、ほぼ全てプレゼントしました。最近、どうなったか聞いたところ、直ぐに興味が無くなって、今ではそれらのコインの行方は分からないそうです。

【貨幣と紙幣の本】
 私は町の高校に入ったので、貨幣と紙幣に関する本が買えました。これから書く記事は、その頃から貯えた知識がベースになっています。今でも、古い紙幣には興味が有りますが、明治初期の紙幣は高価なので収集は諦めました。

【徳川家康と小判】
 「お金の有難さ」を別の意味で理解して頂きたいと考えています。 イギリス人の女性・イザベル・バードが1894年(明治27年)から朝鮮半島に行った時の記録『朝鮮紀行』を読んで見て下さい。 当時、まだ朝鮮半島では貨幣経済は未発達で、高額貨幣は発行されていませんでした。 彼女が、半島を旅行しようとした時の問題の一つは、旅行費用の運搬でした。 「穴明き銭しか無く、銀行や両替商は、彼女の旅先には一軒も無かった」と書いています。 従って、彼女は穴開き銭を多量に運ぶ必要が有ったのです。

 1円が穴明き銭3,200枚に相当し、100円は320,000枚になりますから、「100円分の銭を運ぶのに、馬一頭か、男を6人雇う必要が有る」と書いています。 当時、既に日本では100円(≒100ドル)札が発行されていました。 (彼女は、結局・日本の銀貨を持ち歩いたと書いています。)

 豊臣秀吉が天正大判を1588年に発行しましたが、流通貨幣では有りませんでした。(大判に含まれる金の量と、その時の金の相場で、流通貨幣の”一文銭”と交換したのです。)

 日本で最初の高額の流通貨幣を発行したのは、徳川家康です。 関ヶ原の戦い(1600年)の翌年に、慶長小判が出ました。 日本の経済発展に、家康は多大な貢献をしたと私は思っています。 この事は、高校の歴史の教科書で取り上げるべきです。(小判の金の含有率を下げた事は書かれている様ですが。)

 ウイキペディアによると、慶長小判の1両で、米3~4石が買えたそうです。 当時は一人一年に1石も食べた様ですが、二、三両有れば大家族の1年分の米が買えました。 米1石=150kgですから、10kg=5,000円をベースにして計算すると、1石=75,000円になります。 (1両≒225,000~300,00円) 慶長小判は、13,000~14,700万両発行されたと言われています。 当時、流通経済がどれほど発展していたのか?想像する事が出来ます。

(私の勉強方法) 「江戸時代初期の江戸の人口は15万人ほど、幕末には武士、出稼ぎ、旅人などを含めると150万人ほどいた」と言う記事を読みました。 「江戸の周辺は関東ローム層で、田圃が少ないですから、米は殆ど採れません。1年間に米を15万人×1石(150kg)/1,000=22,500トンも運び込む必要があった」・・・「船で運ぶとしたら何隻必要か?」などと考えてしまいます。 学校で歴史は”暗記のするもの”としないで、私の様な教え方をしたら歴史好きが増える様に思います。

(余談 :悪貨は良貨を駆逐する) 江戸時代に小判は11種類発行されましたが、金の含有量は、段々少なくなりました。 最初の慶長小判は重さ17.73g(金は15.19g)、最後の万延小判は3.90g(金は2.24g)です。 1871年に発行された、明治・最初の旧1円金貨は1.67g(金は1.50g)です。

(余談 :小判を金色に見せる工夫) 小判は金と銀の合金で、慶長小判は20Kほどですが、万延小判14Kほどです。 小判を作る最後の工程(?)で、薬品を用いて表面の銀を除去していました。 表面は金の含有量が多くなり、金色に発色します。 表面が擦り減ると輝きは低下します。(小判の表面には凹凸が有りますが)凹の部分は金色を保ちます。

(注記) 造幣局は純金を『24K』と、金含有量が75%の物に『18K』と表示する様に決めています。 『K18』とか『18金』と表示した物もありますが、造幣局の規定値よりも金の含有率が低いものが有るので注意が必要です。

(余談) 母の実家も山奥に有りました。 その村の古い家を、1960年頃に建て替えることになり、私の親戚の方が古家を壊すのを手伝っていた時の話しです。 梁(はり)の上から小判が十数枚落ちて来たそうです。 私は、「こんな山奥にも小判が流通していたのだ!」と驚きました。

【明治の最初の貨幣と為替】
 1871年(明治4年)に新し通貨”円”が制定されました。1両=1円=米1ドルとしたのです。その年から貨幣を発行し始めました。20円、10円、5円、2円及び1円金貨と、1円、50銭、20銭、10銭及び5銭銀貨の10種類です。 (この時に発行された5銭銀貨は直径16.15mm、質量は1.25gしかありません。)

 明治政府は最初、金本位制として『金貨は国内流通用』、当時の世界では貿易の決済は銀でしたから『銀貨は貿易用』と考えていた様です。然し、貿易赤字が続いたために多量の金貨が海外に流失してしまいました。 困った政府は、1878年(明治11年)に銀貨の国内流通を認めました。→実質的には金銀複本位制になりました。

 江戸時代の貨幣制度では、1両=4分=16朱=4,000文で、1文銭と4文銭が有りました。1871年には、5銭未満の貨幣は発行されませんでした。 1両=1円とすると、5銭=200文になりますから、5銭はかなり高額の貨幣です。 その為、2年間ほどは江戸時代の一文銭や4文銭を使ったのです。 1873年(明治6年)に2銭、1銭、半銭と1厘銅貨が発行されました。

注記:1) 新貨幣制度の単位は、 1円=100銭=1000厘(りん)です。 1厘=10毛(もう)ですが、毛単位の貨幣を私は見た事が無いので、発行されていないと思います。

注記:2) 1871年(明治4年)に発行された貨幣の内、20円、5円、2円金貨と、1円50銭、20銭、10銭及び5銭銀貨は年号が『明治三年』になっています。

注記:3) 1871年に、1円は金貨(φ13.51mm、1.67g)と銀貨(φ38.58mm、26.96g)の2種類が発行されました。金貨:銀貨=1:2程の割合で発行されました。発行総数は550万枚程です(550万両に相当します。) 当時の1円は現在の1万円札よりもずっと高額でが、こんな小さな貨幣では紛失する恐れが有るので、(政府の方針に反して)「1円銀貨は国内でも流通していたのでは?」と私は考えています。(ちなみに、1円アルミ貨はφ20mm、1gです。)

【荒野の用心棒の時代】
 クリント・イーストウッドが主演したマカロニウエスタンは、明治維新より少し前(1865年)くらいの話しです。 当時の1ドルは、現在のアメリカの価値で25,000円~30,000円ほどの様です。 『許されざる者』で娼婦達が、ならず者・二人に掛けた懸賞金は1,000ドルでした。

 落語の『時そば』は、二八=16文(0.004両)です。 ”ちくわ”だけが入った”かけそば”を食べたのです。 蕎麦の価格をベースにして、江戸時代の一両を現在の価値に換算すると100,000~130,000円ほどになるそうです。 昔の通貨の価値を換算する時、何をベースにするか?によって値が大幅に違います。

【記念硬貨】
 1964年(昭和39年)の東京オリンピックから記念硬貨(100円と1,000円)が発行される様になり、近年は特に多いいです。 興味の有る方は、造幣局のホームページの『記念貨幣一覧』で検索して下さい。

 記念硬貨は、①金融機関で両替する、②造幣局からの発行予定案内に応募して当選した人に送る、2種類の方法で発行しています。 大体、高額の物は②の方法でしか入手出来ません。

 2019年までに発行された金貨の記念硬貨だけでも、10種類あります。 最初は、1986年と87年(昭和61年と62年)に天皇陛下御在位60年記念の十万円硬貨です。 バブル景気が始まる前でしたが、日本は豊になっていたのだと思います。2年間で1,100万枚(金額にすると1.1兆円)発行されました。

 2004年(平成16年)の国際博覧会記念の一万円硬貨から、刻印金額の10倍以上の金額で頒布される様になっています。 これらの硬貨を金融機関で両替しよとしたら、一万円にしかなりません。 最近の金の価格は1gが6,000円程ですから、金として売ったら15.6×6,000=93,600円になります。 記念硬貨は流通通貨では無くて、コイン商を儲けさせる『商品』なんです。

昭和61、62年 30mm、20g 純金 :天皇陛下御在位60年記念 :100,000円
平成2年  33mm、30g 純金 :天皇陛下御即位記念 :100,000円
平成5年  27mm、18g 純金 皇太子殿下御成婚記念 :50,000円
平成9年  27mm、18g 純金 長野オリンピック :50,000円
平成16年 26mm、15.6g 純金 :国際博覧会記念 :10,000円
平成21年 28mm、20g 純金 :天皇陛下御在位20年記念 :10,000円
平成27年 26mm、15.6g 純金 :東日本大震災復興事業記念 :10,000円
平成30年 26mm、15.6g 純金 :東京2020オリンピック競技大会記念 :10,000円
平成31年 28mm、20g 純金 :皇陛下御在位30年記念 :10,000円
平成31年 26mm、15.6g 純金 :ラグビーワールドカップ日本大会 :10,000円

(注 :自動販売機) 日本銀行は、「自動販売機で使用出来ない記念硬貨が有るので、その場合は金融機関で両替して下さい」と言っています。

(余談) 親戚に記念硬貨の収集をしている方がおられるのですが、彼は今でも超多忙なので、家内と私が手分けして金融機関での両替や造幣局への応募をしたりしています。去年、発行された『天皇陛下御在位30年記念』の500円硬貨は500万枚も発行されたのに、金融機関を走り回りましたが、超人気で30枚ほどしか入手出来ませんでした。 明仁上皇(平成天皇)の人徳で、記念硬貨が飛ぶように捌けたのだと思います。 近年、発行された東京オリンピックの100円・記念硬貨は余り人気が無かったのか、金融機関に沢山残っていたので、360枚入手出来ました。 36,000円分で1.7kgも有り、とても財布には入りませんでした。

(余談) これは、1988年頃の話しです。 仕事が出来て、無理な依頼をしても必ず期日までにやってくれる社員がいました。 彼は何時も財布に十万円の記念硬貨を入れていて、時々見せてくれました。彼の欠点は『大酒飲み』で、ある夜・姫路で飲んで清算しようとしたら現金が足りなかったのだそうです。十万円硬貨で払おうとしたら、受け取って貰えず、十万円硬貨は質にも取ってくれ無かったので、時計を置いてきたと言っていました。


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