東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

東横線副都心線に乗り入れ・九段下駅バリア撤去

2013年03月16日 11時53分56秒 | 交通
16日3月2013年

すでにニュースでもご覧になっていることと思うが、2つの出来事があったので見に行った、

九段下駅

白金高輪駅から乗った、九段下に行くためには都営三田線・神保町乗換え、東京メトロ・永田町乗換えがあるが、神保町乗換えのほうが楽なので普通そうすると思う、ところが、料金は都営が210円、メトロが190円で、横浜方面からでも九段下までの客は多いだろうから、都は大幅減収になってしまう、これが6ヶ月定期だと何万円も違うのだけど、いいのだろうか?いずれにしてもお客はどちらの線に乗ってもいいのだから便利になったものだ、



こうなったら都営、メトロ料金体系を一緒にするしかないのだが、何でぐずぐずしているのだろうか、一本化すればお客が増えては、すぐ元を取れるのだが、

渋谷駅

東横線の利用客はとても多いから今のエスカレーター、階段では間に合わないはずである、そのためメインの階段を朝ラッシュ時間出口専用にするそうだが、それでは間に合わなさそうである、下の写真は東横線到着からずいぶんたってまだお客がエスカレーターに乗り込めない状態である、この対策には、エスカレーターの右側を追い越し用にしないで、2列で乗るようにしないといけない、その辺考えているのだろうか?



これは新しく作った階段である、ところが近くにあった階段を閉鎖してしまった、しばらく同時に使えばよいのに、



いずれにせよ渋谷駅は大変な混雑になる、入ってきた電車のお客がコンコースに上がりきらないうちに次の電車が入ってくるような事態になるであろう、月曜日からのラッシュに対応できないような気がする。

東横線、地・副都心線乗り入れ

2013年03月14日 19時43分43秒 | 交通
17日から地下鉄乗り入れに伴い、使われなくなる渋谷駅を見てきた、
狭いホーム、通路もあと少しで見納めとなる、たくさんのカメラ人が来ていた、







文化会館(今はヒカリエという)方面の歩道橋も架け替えられ、渋谷は大きく変貌する、東京メトロの乗り入れ第一号であった日比谷線は、17日から東横線への乗り入れがなくなり、中目黒とまりとなる、





17日にまた来ないといけないな、この日はもっとたくさんのカメラ人が来るだろうな。

すごい風

2013年03月13日 16時05分58秒 | Weblog
ものすごい風だった、台風並みである、

JR線はのき並み運休か本数削減、

千葉の妹が昨日泊まったのだけど、総武線は運休で帰れない、一部開通ということで2時ごろ新橋の駅まで送ったのだけどその後どうだったろうか、

佐賀の義兄も今朝ついた、午前中におばあちゃんを見舞って、お昼は六本木の福寿司でお食事、ここは、ちらし、にぎり、2625円で、別室でコーヒー、ケーキがつく、お得だと思う、



義母、入院で少し気分はよくなったと思う、だけど病院では、黒アメが食べられない、塩辛が食べられないということで困っていた、黒アメが食べたいので、早く退院したいと思ってくれるといいのだが、




義母

2013年03月12日 10時50分03秒 | Weblog
 今朝3時、S赤坂(老人ホーム)から電話があって、義母の様態が悪いので、救急車で病院にいくとの事でS会病院に入院した、心筋梗塞か、早いうちに手当てしているので助かるようである、

 ばあちゃんの歴史は以下のとおりである、

 生まれは福島の相馬である、義母の母が横須賀(義母の父が海軍で戦艦三笠に乗っていた)に住み横浜のキリスト教系の学校に行っていたので、母から習った賛美歌の少しを今でも歌える、北海道の帯広に移り、女中さんのいる生活をしたという、徒競走が早く、勉強ができるおてんばであった、小学校の教科書の3年分くらいを暗記している、結婚して、家内も帯広で生まれたが、佐賀に引越しをした、こどもが3,4人いたはずだ、幼い子供をつれて戦時中の日本を横断するとはずいぶんと大変であったろう、私から見たらガバイバーチャンだけど本人は佐賀の生活に慣れなかった、

 儀父であるが、東京で法政大学を卒業して銀行員になった、北海道に軍隊でいる時義母と結婚、それから佐賀に転居して田んぼを買い、馬もいる本格的な農家になってしまった、のんべいで、私たちが結婚したころ、朝から飲んでいた、左利きの皆様ほどほどにしておいた方だよいと思う、この人は60歳くらいで亡くなった、忘れられないエピソードがある、儀父が死んだ時、義母は一晩、なきがらと一緒の布団で寝た、嫁は私と一緒に寝てくれるかしら、

 ついでにうちの母鳩山(こんなとこでなんで鳩が出るんだと思ったら、は富山)父は兵庫県の明石で、帯広、佐賀とあわせて、日本の4隅から来てるから、うちの子供はとても混血でホントの日本人である、

 4月28日の100歳まで生きるであろうか、104歳までもってほしいものである、104の根拠は特にないけど、

 一日に黒アメ一袋、食事は烏賊の塩辛を、一週間に一個食べている、



 佐賀県歌人協会に載った歌を書いてみたい、


 
   孫たちは                   古賀イネ


   我がままを咎めたことが仇となり徒歩で帰った曾孫の反抗

   目のふちに涙ひとつぶ落ちもせず抱けばにっこり孫は目覚めて

   小城山荘見下ろす夜景おさな孫町は花火のごとしといえり

   北国の種を求めて蒔きにけり莢豆付き始めてふるさとの顕つ

   写真入賀状の主はおさな友想いははるか故郷の正月

 

 



3月10日、11日

2013年03月11日 12時37分57秒 | Weblog
3月11日がめぐってきた、

おととしのこの日アメリカ、ワシントン・DCのホテルにいた、テレビは朝から晩まで、津波の放送を続けていた、それまで一日中放送していた東部アメリカのハリケーン報道を全部やめて、

そのご、被災した人々はほとんど仮設住宅にお住まいで、恒久住宅はわずか84戸しかできていないそうである、被災地の写真を見ても復興はものすごく遅く、住宅一軒も立っていない、

これは、当たり前で、堤防も壊れた市街地に建物が建てられるわけもない、もう一度復興方針を作り直さないといけない、


復興計画

震災で出た瓦礫を海岸線に沿って積み上げ、その上に周囲の山地からの土砂を盛って堤防にする、これは堤防というより高い土地であり、津波を予想してそれより高くする、幅が100メートルー200メートル、その内側は今のレベルの土地であるが、家を建てられる、その土地の一番内側に、山を削って200メートルの平地をこしらえ(削った土を瓦礫の上に盛るのだ)そこも利用すると以前より少し広い面積の土地が利用できる、

瓦礫を積み上げ、土をかけた部分は安定するまで時間を要するので、できた土地はすべて公園とする、東北地方の平地の海岸線が、すべてこのような公園となったら観光的にも大きい資源となる、堤防と違って、平地であるから、少しぐらい壊れたって大丈夫である、このようにすれば、瓦礫の処理に頭を悩ますこともなく、無駄なコンクリートを使うこともない、

いかがであろうか、


3月10日東京大攻撃について

B29(アメリカの第2次大戦末期に作られた爆撃機)の映画を見た、この爆撃機を企画し、量産し、サイパン、テニアンの島を取り、を奪い取り、そこを基地として東京までのルートを作り、転々と救助用船舶を配置し、大都市の地図を作り、非戦闘員である女子供を計画的に殺す映画だ、

実写の後半は爆撃の様子、援護戦闘機による汽車、船、逃げ迷う人々を機銃で狙い打つ様子が写り身の毛もよだつ鬼のようである、人間としてこれらの行為のどこかの部分で、非戦闘員をこのように殺していいのか考える人はいなかったのか、焼夷弾をあれだけばら撒かれたら逃げる方法はなく、10万、20万という人たちが一晩で殺されたのである、

あまつさえ、敗戦国だからといって戦争裁判を起こし、多数の戦犯者を死刑にした、捕虜虐待といっても、戦闘員であり、このように残虐に爆撃した犯人は死刑にするほかなかったじゃないか。

昭和、平成を生きる、自分史-7

2013年03月10日 14時47分37秒 | 自伝
 大学入試である、担任のT先生(あだな、お元気で今でも学年の会に出てこられる)に相談すると学習院大学がよかろうというので、こちらを受けた、こちらではあまりがつがつ勉強をする人はいないと思われ、前の総理(今の副総理)のように漫画ばかり読んでいる人も現れる、漫画ばかり読んでいても、うちの3男もそうだが、まともな生活はできる、ちょっと話は飛ぶけど、漫画家の杉浦日奈子さんの絵が好きだ、実に上品で、江戸時代のことをとても愛していて、ものすごく上手い、見ていただきたい、

 M君との仲も長い、入学式の日にあって、たまたま英語で同じクラスだったのでつき合った、彼はめったに大学に来なかったがよく卒業できたものである、愛知県一宮にあった家は、もとは某宮様の家だという、妹が7,8人いるというたいした家族である、一番上の妹から手製のネクタイをプレゼントされた時はうれしかった、彼とは将棋友達だ、将棋は彼に教わったのだが、彼はプロ棋士に習っていて、アマチュア4段である、いま、今度どこで彼との名人戦を戦うのか考えている、このところ互角なのでとても面白い、彼の奥さんが利き腕を骨折してしまったので出かけられない、年をとるとこのようなことがあるので気をつけよう、毎年夏になると彼の家に6人の仲間と遊びにいった、下呂の別荘になることもあった、ずいぶん迷惑であったろうとおもう、6人が1週間も10日もいて、彼の家にはアメ車があり、運転手がいて、毎日どこかに連れて行ってくれるのだから、

 T君という人は物知りだ、どんなことでも「いやそれわね」といって解説してくれる、M君以下3人は経済学課、T君以下3人の政治学課合計6名が卒業まで仲がよかった、6人は目白駅を降りると右の大学に行かないで、左のM君の下宿に言って終日だべったりマージャンをしていた、

 Aという女学生も忘れられない、授業の時つかず離れず彼女を見ていた、それはストーカーじゃないの、清楚という字を見ているような人だった、ノートを借りたこともあったけど誘う勇気がなかった、そういえば先日B術部の会合の時ずいぶん久しぶりに会った、Aさんから話しかけられてびっくりしたな、もうすこし長くお話をしたかった、

 ゼミはK先生という方である、東大の先生で講師でありながらゼミを持たれ、長く続いてたくさんの学生が今でも参加している、去年99歳でなくなられた、大きな外車のハイヤーで大学にこられる、多忙な方だった、先生のお宅にお邪魔すると模擬店ができて広い庭で遊んだ、30人ぐらいはいってもおり昔へいきだった、かわいいお子さんがいたが、先日の会合でお会いすると、ホテルOの総支配人になっておられた、

 就職について、M君のお父さんにお願いした、わざわざ東京に出てきていただいて、ご友人のTラジエターの社長室に連れて行ってもらった、いいですよといって採用は決まったのだが、大学に募集が来ていたR光学の試験を受けて、決まるとあっさり断ってしまった、M君のお父さんには大変迷惑をかけた、こんな時に謝っても申し訳ないけど、もうひとつ姉の嫁ぎ先のお父さんがお勤めのAブレーキにも案内していただいたのだが断ってしまった、2つともいい会社であったのに、申し訳ないことをしました、

 R光学、面白い会社である、今でこそ1兆円を超えるような売り上げを持っているけど、昭和35年当時はそんなにたいしたものではなかった、しかし、当時考えられないような、日経新聞に広く人材を募集という1ページ広告を出した、これは大変評判となり、たくさんの応募者があって、われわれが書類の整理をしたりした、

 会社のことを書くと、これがとても面白いんだけど(自分で言ってるだけでしょう)社史の一部みたいなことになるし、このあたりにしておこうかと思う、

 読んでいただいて本当にありがとうございました、

昭和、平成を生きる、自分史-6

2013年03月09日 13時06分07秒 | Weblog
 6年生の時だ、母が家を建てると言い出した、家を建てるといったって、どうするのだ、土地は?と聞くとすでに買ってあるという、みんなで見に行った土地は今も私たちが住んでいる港区麻布本村町○番地の場所だ、母が、夜なべに夜なべを重ねて作ったお金である、すんでいた豊岡町から三の橋を渡って、ちょうど私の行くことが決まった麻布中学校に近いところだった、母は進学ママだったけど、私も中学の試験に受かって本当によかったと思ったことを覚えている、土地まで買っていたのだから、

 ちょうどそのころ兄弟行進曲という子供の本を読んでいた、そのお父さんはお金に無頓着でお母さんが土地を全部手配して吉祥寺に家を建てるという、うちとおんなじ状況の話であった、そのころでも新築の家は吉祥寺など郊外なのに、港区に土地を買った母の働きは並々ならぬものであった、

 この家というのは、父が自分で立てたのである、父は大工の腕があり、家ぐらい自分で立てられたのだがうちのみんなが手伝うことになった、30坪の土地に15坪の家、その家は半分しかできていなくて、天井も張ってない、障子も入っていない状況だった、姉の嫁入りで相手の人たちもこの半分しかできてない家に招いた、都内といっても当時ガスがない、下水がないという状況で、まきを使って外でご飯を炊く、私もまき割がうまくなった、

 私は人前に出ることが嫌いで、たとえばおみこしでみんなと一緒にワッショイなんていうのが絶対できない、朝鮮の演芸会でハーモニカの演奏をしたのがうそのようで、人に聞かれたくない、少し練習すれば人より上手になるんだけど、それがいや、近所の人にいいハーモニカをもらったんだけどそれから一度も吹かないという子だった、人前で歌えるようになるにはそれから30年もかかった、ある時(会社時代)社屋ができて演芸会をやったんだけど、そのころは人前で歌なんか絶対できないから、なんか歌えといわれて本当に困った、そこで歌ったのが「君が代」その後、歌も歌えるようになったのだが、

 中学に入ってびっくりしたのがみんな頭がいいこと、小学校ではそこそこいい成績だったが、この中学では100点満点で成績がつく、勉強をしなかったわけではなかったのだが、優等生には到底なれず、平均点は80点かつかつだったと思う、後に総理になった人たちも優等生ではなかったのではないだろうか、鉄道趣味も人様に知られると困るからやめてしまうようなありさま、しかし電車の絵は相当上手にかけた、友達に見つかり、鉄道クラブの雑誌にEF58(当時の最新型電気機関車)の絵を描いてくれとずいぶん頼まれたんだけど断ったりしていた、その絵は友達が私の絵を見て描いていたのだけど惨めなものだった、

 中学一年で隣の席に座ったM君、なんと満州国で私のすぐ近くに住んでいたひとだった、15年くらい前に彼らとうちの奥さんと4人で新京市を訪れた、なんと彼の家はそっくりそのまま実在した(私の家はわからず)満州興○銀行の社宅で、長い塀に囲まれて、裏の一角にスチームゼネレーターの小屋があり、サンルームを備えた洋館である、彼はスケートが得意で、少年倶楽部かなんかの表紙になっていたな、(没)

 Kという友達はいろんな趣味を持っていたけど、鉄道は私の影響である、彼の年賀状はその後すべて鉄道の写真、高3のころから、社会人になるまで、毎月雑誌を作って彼と交換していた、今のようにコピー、パソコンがないので、すべて手書き、ずいぶん一生懸命に作ったものである、Kは一部上場企業の役員になったけど、早く亡くなってしまった、晩年も鉄道が写った年賀状をくれた、

 友達といえばTである、彼は高校時代は横須賀から通っていたが、卒業するころ表参道に引っ越した、私は大学まで明治通りを通るトロリーバスで通っていたので、彼が浪人して勉強しているところに、毎日押しかけていた、彼とはクロスワードパズルを作って交換していたが、ずいぶん迷惑であったろうと思う、その後慶應義塾大学に受かったけど、もし落ちていたら、それは間違いなく私のせいだったろう、ずうずうしく彼の家族とマージャンやトランプで遊んでいたのだから、Tも若くしてなくなってしまった、

 生きている友達をご紹介しないといけない、年中あっている横浜のK君、浅草のK君である、横浜のK君は根性のある人だ、3年浪人して芸大に入った芸術家である、浅草のK君は実業家である、建築資材を扱い、よほど儲かっていたのだろう、ポルシェ、ジャガー、ベンツなどの名車を乗り継いでいる、この二人はこのブログに時折登場する、

 中学高校時代、成績はたいしたことはなかったのだが、唯一好きだったのが生物、これは一所懸命勉強して全問100点だった、生物学者になっていてもよかった、

 

 

 


昭和、平成を生きる、自分史-5

2013年03月08日 20時16分59秒 | 自伝
東京の住所は芝区三田豊岡町○番地、父の妹の家だ、この一角はごく狭い場所なんだけど不思議に焼け残っていて父の兄、妹と2軒の家に住んでいた、われわれが割り込むにはあまりに狭く、まもなく近くの大きい家に移った、その家はたくさんの部屋があり(勿論一階の一室を借りた)2階には当時の有名アナウンサー高橋敬三氏も住んでいた、このとき父は例によって広島、北海道に働きに行っていた、

母は裁縫の仕事で夜なべが多かった、しかし昼夜兼行で働いたためかなりの金額をためたと思う、姉も東京に来てすぐと近所の安田銀行に勤めた、2,3年の後少し余裕が出て、夏の夜は3人で麻布十番までお散歩をして欠き氷を食べるのが楽しみであった、

母の妹一家は小石川水道町で、洋服屋をやっていた、だんなはオートバイが趣味という飛んだ人、この店は当然焼け出され、その前に新潟県高田市に疎開していた、夏にこの疎開先に2度遊びに行った、当時の信越線は、日本一の急勾配碓氷峠をアプト式で上る、これが楽しみだった、この小母一家は東京の豊岡町のすぐそばに越してきて店を開いた、繁盛していたのだが、おじさんは若くてなくなってしまった、

小学校は御田小学校、三田と書かなかったのはいわれがあるのだろう、この学校は焼け出され、高輪台にある高輪台小学校に間借りをした、この小学校は関東大震災の復興に立てられた何校かのひとつで鉄筋コンクリート、大変大きな窓のあるモダンな建物だった、私が通った頃は迷彩色にむられていたなあ、間借りだから運動場は使えず屋上である、ボールが落ちると大変である、ここからは12時に勝鬨橋のあがるのが見えた、この学校には4番の都電で通った、三の橋ー二本榎間の電車通学は大変楽しみで、入り口にがんばっていた私たちは運転手のドア開閉を手伝った、ブレーキをかけて止まる寸前に掛け金をはずすと、反動でがちゃんとドアが開く、運転手もありがたいと思っていたのだろう、なんともいわれなかった、

姉がお嫁に行った、京王線代田橋のちかくである、当時の京王線は都電みたいな車両であったが、夏は3両連結の全部の車両がドア開けっ放しで走るのだ、涼しかったね、しばらくして2600型という大型車3両連結ができて、これはさすがにドアエンジンがついていた、当時の鉄道ファンはMTM編成なんていった、モハ(モーターつき)+サハ(付随車)+モハという意味である、

さて、クラス一組(二組まであった)にはKという女性がいて、学年で一番大きく、うつくしかったようである、集合写真ではちょっと首をかしげてまるで高校生みたいだった、(だから女の子の間ではあまり好かれていない)この子と私と二人で警察まで出かけることになった(なにか章をもらいに行ったのだ)二人は道路の左右に分かれて、なんとも気まずくあるいたものだ、この子はその後近所のS会病院に勤め、私が会社に就職して少したったころ、この病院に一週間入院したことがあって、毎日見舞いに来てくれたな、もしかしたら、この子と、なんていうことを考えていたんだけど、

組み分けは6年まで変わらなかったので、みんな仲良しであった、今でも年一回は会うようにしている、Y新聞のK君は親友で、この間なくなったときは弔辞を読んだ、彼は健康で、検診なんか一回もいっていないというのが自慢だった、日本テレビの午後のニュースで今の評論家桜井よし子さんとでていたな、

6年のころかな、父が、道でばったりと、満州国時代の会社の社長にあって、東京の、しかも近くのDというこの会社に勤めるようになった、父と母は久しぶりに同居するようになり、喧嘩は次第にすくなくなっていった、
それでも仲がよい訳ではなく、二人が一緒に出かける場合でも必ず別々に帰ってきたものである(はぐれて)

昭和、平成を生きる、自分史-4

2013年03月07日 22時13分43秒 | 自伝
ロスケたちの進駐は書いたように大変なことがあったんだけど、まともな兵隊たちが来たこともあった、大人たちはにわかにロシア語の勉強をして、集団でロスケたちに物を売る屋台を作ったりした、ロスケが部屋に来ると、オーチンハラショ(大変よい)ムスコなんていって私に話しかけたりした、そのうちトラックを持ってきて計画的に満州国の物品を掻っ攫っていた、

インフラであるが、水道は出た、ガスはどうだったろう、ガス会社のタンクがだんだん減っていくのを不安な目で見ていた、電気はあったような気がするが、夕方電気がだんだん暗くなった、電圧が極端に下がったと思われる、それでも電力会社の職員は全力でがんばってくれたのだろう、

われわれは故郷に帰る日を待ち望んでいた、昭和21年の夏までの一年間はものすごく長かった、

私たち母子3人は急ごしらえのコタツにあたり、毎晩トランプをしていた、父はセメントをどこかでもらってきて(かっぱらって)臼をこしらえ、餅をついた、これは失敗、もち米を持っている人はほとんどなかったろう、それから麹を作った、押入れの布団の中に麹の蒸篭をたくさん入れたものである、ものになったものは、たばこ巻き器だけであろうが、考えてみれば父は器用だったなあ、

引き揚げはいろんな係りの人が力を合わせて行ったのだろう、いろんな通達が来て、要はリュックひとつの荷物が許可されるのだった、お金は千円だったか、大人たちの会話を必死に聞いていた、リュックなんてものはなかったので、母が帯芯を使って4つを作った、例によって東新京駅に集合するのだが、汽車は、無蓋車(床だけの貨車)少ない男が、材木を使って人が落ちないように側を作るのだ、高い塀はできなかったのではないか、父は貨車の後ろにあるブレーキハンドル(上が丸い)の上に腰掛けて眠っていた、

引き上げ港はコロ島というところである、今では新幹線ができて4,5時間でいくと思うが、なんと1ヶ月もかかった、途中の食料はどうだったのだろう、このような貨車で途方もない時間がかかるので、途中赤ん坊がなくなったりする、大人たちが停車駅で穴を掘って埋める、

引き揚げ船に乗るまでの順番待ちもあったんじゃないかな、船に乗り込んで、狭い船室(貨物船のそこ)に落ち着いて、人々はなんと気を抜いて安堵したことだろう、私もほとんど大人と同じ感情であった、船内の演芸では新しいりんごの歌が歌われた、船は3日ほどかかって、博多港に着く、懐かしい九州の土地が見えるとみんな半狂乱になって喜んだ、ところが、検疫のため1日停泊させられるというと、みんながっかりだ、この船の中で亡くなる人もあって甲板から水葬にした、私自身も熱を出して死ぬところだった、発明されたばかりのペニシリンがあって助かったらしい、

博多港では、汽車に乗り込んだか、一泊したか定かではないが、有名になった虱退治の薬品、なんていったっけ、BCGじゃないペニシリンじゃない、DDTだ、全身真っ白にさせられた、アメリカではこういう薬を大量に作っていたのだ、

広島原爆についてはある程度知っていたので広島駅で汽車が止まると、みんな窓から一生懸命に町の様子を見ていた、途中の大都市はみんな焼かれてしまって、これからの生活をおもう、なにしろリュックひとつなのだから、私たちは東京にまっすぐ行っても困るからと、一緒に引き揚げた静岡県芝川町の人の家に一時身を寄せることになった、

身延線に乗り換え一時間ほどで芝川に着いたところは、この世の天国だった、清らかな用水が流れ、青々とした田畑に作物が実っていた、都会と違って戦争の影響はないみたいである、親切な人の作ってくれた真っ白いおにぎりは今でも覚えている、

父が東京に偵察に行った、幸い父の妹の家が戦災にあっていなかったので、身をよせることになった、私たちの乗った汽車は夜遅く品川駅に着いた、直前にあわてて支度をしたものだから、父が降り遅れてしまい、新橋から引き返してくるのを待って、その時刻は0時を過ぎて山手線はなくなっていたので、芝区三田豊岡町の家まで歩くことにした、第一京浜国道、いまはビルがぎっしりと立っているが、当時は家一軒もなく全部焼け払われていた、外灯もない、瓦礫がはみ出した歩道を歩いた、月は出ていたのだろうか、真っ暗ではなかったような気がする、


昨日の様に覚えているが70年近く昔のことだ、私は、いつかまたこのようなこと、呼び出されて、24時間以内に集合といったことが起こると思っていた、平和が続いていることはほんとに幸せであるとおもう、


昭和、平成を生きる、自分史-3

2013年03月07日 08時48分38秒 | 自伝
満州国新京特別市の小学校は新和在満国民学校といった、勿論鉄筋コンクリートで、一般的な日本の学校より上等であった、日本人街のわれわれは日本と同じ生活いや以上の生活を送っていた、内地では空襲、学童疎開、食糧難、で大変であったのに対し満州では少しの間平和な暮らしである、この平和な暮らしは終戦まで続いた、

そのちょっと前、応召があった、新婚の家庭でも赤紙が来て、その家では奥さんが泣き叫んでどうにもならない、近所の人がみんなで引き剥がしたりした、

終戦の少し前である、ロシアが攻めてくるから疎開をする話になった、明日の朝までにリュックサック一つを持って東新京駅に集合という命令である、女性と子供だけで逃げることになった、うちでは当時交通部(運輸省)の前庭に作った畑のトマトを収穫して食べた、たくさん取れたけどもっていくわけには行かない、列車は2日ほどかけて北朝鮮の定州というところについて、小学校に落ち着いた、体育館である、布団がないのが困った、うちの母は、わらくずを拾ってきてにわか作りの布団を作った、これでどんなに助かったかわからない、この学校には無数の赤とんぼが飛んでいて、きれいな川では女が洗濯をしていた、

終戦の日がきた、翌日すべての家に韓国旗が揚がっているではないか、これにはびっくりした、誰が指示したのだろうか、それからしばらくして、われわれは満州国に帰ることになった、これからは本当に大変なことが起こったのだが、私はあまり感じなかった、父が帰ってきた、男性のほとんどはシベリヤ送りとなった、

疎開の人たちの演芸会が行われた、私はハーモニカで予科練の歌を演奏した、一時の演芸会でみんな結構すばらしい芸を披露したようである、

近所の家では庭に5つの土饅頭ができていた、自決とのことだ、しばらくしてロスケ(ロシア軍)が入ってくるという話を聴いた、うちの姉は髪を切り、男の服を着て押入れに隠れ、どうにか被害を免れたようである、ドアは厳重に板でおおって防御したのだが相手はマンドリン(自動小銃)をもっているのだ、狙われたらおしまいである、彼らに連れて行かれて翌日半狂乱になって帰ってきた婦人が何人にもなった、大人は井戸に飛び込もうとする女性を必死でおさえたのである、

ロスケたちは満州のほとんどの財産をもっていった、たとえば、近所に電話の自動交換機が設置してあったのだが、丸ごと取り出してもって行った、

われわれは長い長い一年間をこういう場所で過ごしたのだが、その間国民軍と八露軍(中共軍)の戦闘があった、家の外で撃ち合っているんだからたまらない、建物に弾痕がいくつもできる始末、家から見える原っぱでは中央に、一人の兵隊が倒れていた、一日目は何とか起き上がっていたのだが、2日目には起きられなかったようである、

ひとついえることは、日本ほか先の大戦でひどい目にあった人たちは、本気で絶対に戦争なんかいやだと思っているのに対して、毛沢東率いる中国は国民政府と戦い、そのずっと後でも文化大革命によって
2000万人の自国民を殺した、今尖閣諸島にちょっかいを出している彼らのやり方を見ると、本当に油断ならない、うまく付き合っていく方法はないだろう、

少し落ち着いてくると、何とかして食料を買わなければならない、満人が売りに来るのに、なけなしの着物を出して卵などと交換した、父はタバコ巻き器を通って売った、タバコは少しあったが、紙巻はない、そこでコンサイス辞書の紙(これがちょうどいい)でタバコを巻くための機械といっては大げさだが、長さ15センチくらいのものだ、桐のたんすを壊してたくさん作り母と姉が売りに行った、のちに東京でもたばこ巻き器を見たが実にコンパクトに進化していたなあ、こういう露天がたくさん出ており、私の友達のM君のところでは漬物を作って売りに行ったとの事だ、

このとき、新京よりさらに北の開拓地から逃げてきた人々は悲惨だった、途中匪賊に2回も、3回も会うのだからたまらない、ほとんど身に着けるものもなく、ぼろくずのような姿で新京に来たのだ、いや、たどり着いた人たちは幸運だった、殺されたり、自決した人も多く、中国人の家庭に預けられた子供は残留孤児となって何十年か後に日本に帰った、

だから国民学校の一年間は学校に行っていない、2年のはじめごろ先生の家に行っての寺子屋が始まったけど、この新和在満国民学校時代の先生、ほんとにお世話になった、誰かネットに出していないかと定期的に調べるのだが勿論発見できない、うちの下の階に住んでいたのは同級生の長谷川寛治君である、名乗り出てくれたらいいのだが、


幸手市(埼玉県)

2013年03月06日 19時11分48秒 | Weblog
6日3月2013年

今日の遠足は幸手、午後から出かけたので、あんまり遠くではなくクロスシートの電車で出かけられるとなると、東武沿線である、東武のは京浜急行にやや近い2ドアクロスシートのを一時間に1回運転している、

都営地下鉄押上乗り換え東武、ちょうど区間快速に追い越される急行だったので、北千住で乗り換える、この列車は東武動物公園までの区間春日部しかとまらない、、その先は各駅停車なんだけど、3月16日のダイヤ改正でぐっと止まらない駅が増えるようで、もう一回乗ってみよう、

         

   
駅前はこぎれいにしてあるが、あまりにも東京にチカすぎて、ビジネスホテルの類は見られない、関東平野の真ん中なので、だだっ広い畑が、住宅街になっている、利根川、利根運河、その他の河川は水位が地上より上にあるため、集中豪雨の際は浸水するだろう、そのためところどころに遊水地が設けてある、写真の家は少し高く作ってあるがこれでも効果はあるだろう、これからは異常気象が標準になって集中豪雨がやたらにあると思われる、

         
   


できたらうなぎを食べてこようと思ったのだが、駅前には聴くようなところがなく、自力で見つけようと思ったら、なかった、駅前の地図を見てはずれにある市立図書館に向かった、ここは2階に郷土資料館があって、よく観察したら面白いはずである、郷土資料館は係りに言うと鍵を開けてくれる、

         

利根川隋歩(昭和16年)は面白い、当時の幸手駅に降りた様子が書かれていた、羽生も、本当は今日は羽生(ハニュー・はぶではない)にいこうと思ったのだが、先ほどの区間快速が来たので乗ってしまったのだ、羽生に行くには伊勢崎線となる、

押上駅で、エアチカカードなるものを宣伝していたので入ることにした、ANAカードにもなっている、地下鉄に乗るとポイントがつくし、入会で1000ポイント、地下鉄のフリーカード一枚などおまけがつく、今までのANA・アメックスがあまり使い勝手がよくないので、切り替えることにした。

お勧めしておきます。    

   


昭和を生きる

2013年03月05日 17時24分08秒 | Weblog
自分史を書いている話を近所のWさんに話したら、彼は昭和2年1月の生まれで、昭和元年はほんの少ししかないので、実質昭和を全部生きた人だ、すこし暇になったら彼の自分史を書きたいなと思った、それにしてもWさんはお若い、お顔の色艶がよく、髪は黒々としている、10歳若い私が髪では完全に追い越されている、代謝がいいのだろう、風邪を引くこともない、

東町小学校を卒業して、山口瞳と同級生だ、山口の息子正介の

「麻布新堀竹谷町」

という本(確か私も買ったかしら)はこの辺の幼きころの物語である、古川が、金杉橋から天現時まで両側が強制疎開で原っぱになった話、Wさんの軍隊の話、サッカリンで大もうけした話、そういえば、このあたりは機械(金属加工などの)屋さんが多くあって、戦後はこれも大もうけした話、彼らの中には焼けた機械を修理して売ってクレームになった話などを聴いた、

正介より面白い小説が書けるかな、

山口瞳と同級生の人と友達の東京老人の作ですとかいって、

昭和、平成を生きる、自分史-2

2013年03月05日 08時39分21秒 | 自伝
順序として父、母のことである、

この2人は本当に仲が悪かった、若いとき父はほとんど長期出張をしていて、時々帰ってきた、だから小さいときは母子家庭みたいなものであった、兄弟は姉が2人それぞれ10、11くらい年が違った姉弟である、私が生まれたのは父が46、母が41位のときで、高齢出産である、考えると父は10年ごとにやっと帰ってSEXをして、2番目の姉ができ私ができた、不思議なものだね、たった一回のそういうことで、私の人生が出来上がったんだもの、

父の留守の間母は何をしていたのかというと、和裁、その前は富山県伏木(今で言う高岡市伏木)で、学校の先生をしていた、新しい学校ができると、転勤があったらしい、だから、勤務地の城端、小杉、という名前は記憶している、当時開通したばかりの鉄道越中線で通勤していた、あるとき、降り遅れて汽車から踏み切りに飛び降りた話を何回も聴いた、当時の教え子の一人は死ぬときまでお手紙をくれていた、

その母は女ばかりの姉妹の一番上であった、父は兵庫県明石の出身で婿である、その後父の転勤で東京へ、そして静岡に、母は教員を辞めて父の元についていったのだけど、父は仕事とか家に関する考えがめちゃくちゃで、それが元でけんかが絶えなかった、私は静岡で生まれた、その後父は新しい世界を求めて満州に行き、満州国新京特別市和光胡同1111という場所のアパートに落ち着いた、ここでも父は外に出がちで、母の和裁が生活の大部分を支えたようである、

私は4才だったが、一番上の姉は女学校を卒業して保険会社につとめていた、満州国にいく事に関しては大変な夫婦喧嘩の種を作ったに違いない、上の姉は聡明な人だったようである、母はこの人に期待を寄せていたのだが、大事なときに満州に行くなど変化があってうまくいかなかった、あるとき感染症にかかりあっという間に死んでしまった、姉がもっていた大きなエンパイアステートビルの写真は今でも覚えている、真ん中の姉は満州に関してはいい思い出がないらしく、後に私が新京(今の長春)にいって、姉の錦が丘高等女学校の写真などを見せてもけして真剣に見ようとはしなかった、そうだろうね、終戦のとき、われわれは大変な思いをした、私と同年代の子供のうち多くが、中国人に預けられ後に残留孤児として日本に帰ってきた、これは後で書いてみたい、

満州国に行った後、2,3回母と東京まで帰ってきた記憶がある、汽車は一日がかりで鮮満国境の新義州まで、さらに朝鮮半島を横断して釜山へ、関釜連絡船に乗り下関へ、それから東京へ帰った、連絡船は米軍の攻撃に対して全員救命胴衣をつけて訓練した記憶がある、

新京特別市の近代的な生活に慣れていた私は、はじめてみる朝鮮鉄道、下関についてさらに小さく、トロッコのような日本鉄道の小ささにびっくりしたものである、満州国にはそれほど資材をつぎ込んでいた、

首都である新京特別市では、80メートル幅の大道路、途中大同広場には円周1キロに及ぶ巨大な広場があり、すべて新しく設計した街で、電力は地中線になっており電柱がなく、下水が完備し、水洗便所が普及していた、勿論ガスも、アパートではペーチカがあって二重窓ガラスで寒くはなかった、私は鉄道が好きだったので、3日に及ぶ片道の間熱心に外を見ていた、下関に上陸すると、あと2日もかかるのに、もう東京に戻ったような気がしたものである、

走り始めた新京の市電も最初からビューゲルをつけた大型車で、都電のポールつき単車や、木造ボギー車がいかにも古臭い感じだった、学校では冬に校庭を氷らせてスケートをする、私は運動神経に乏しくほとんどすべれなかったが、姉二人はフィギアの靴で凍った道路を帰ってきていた、


ついこの間まで、終戦時の記憶があまりにも鮮烈で、その前のことは全部忘れたようになっていた、終戦の事も次に書いてみたい。


昭和、平成を生きる、自分史-1

2013年03月04日 10時18分31秒 | 自伝
自分史を書いてみようと思う、

いま75才であるが家族に恵まれた、カナイ(普通に家内と書くべきだろう・笑)70才、
当然であるが2人一緒のベッドである、
仲はいいほうといえるであろう、
毎晩「Anatato kekkonshite yokatta]という、

そういえば、今日は結婚記念日である、
昭和39年3月4日北海道は今年と違ってとても暖かい日々であった、札幌はコートなしで歩けるほど、
十勝にもいった、帰りに青函連絡船、東北本線で帰ってきたのは印象ふかかった、勿論蒸気列車であった。

仕事は介護保険のヘルパー派遣・ケアマネージャー業である、数年前から三男が社長を引き受けてくれて、
私たちは月の数日お手伝いをすればいい、2人住まいであるが、三男が毎日家に出勤してくれる、

健康面であるが、8年前に腎臓がん、3年前に肝臓がんになってそれぞれ治療した、
特に肝臓はラジオ波という治療で抗がん剤を使わず、開腹手術もなく、その後4ヶ月ごとの検査でよい
このところ健康だ、昔は毎日咳が出る、めまい、腰痛、風邪、足の攣り、逆向け、いろんなところ悪かった、
このような悪いところがなくなった、


子供は3人の息子で、

長男46才、with妻、子供が、小4の長女、小2の次女、

次男45才、妻がいて、子供が、T高等専門学校の長男、Yサイエンスフロンテイア高校の長女、E高校に受かった次男、

三男43才、妻あり、子供は、2才の長女、


このように3人とも結婚して、子供がいるというのは現代では未曾有なことである、
長男千葉に持ち家、次男厚木の私の家、三男世田谷に持ち家、
と、住まいに問題はなく、それぞれ仕事を放り出したりしていない、


もっと早く書かなければいけなかったのは、日本国の現状である、

こんないい国になるとは思わなかった、

経済が安定して、失業者がすくない、
少子高齢化といっても中国ほどじゃない、
人口が減って6000万位になったらもっとよいと思う、
泥棒とか、チンピラとかの割合が少ない、
いや中国と比較したら、どんな問題でも数倍引き離している、
40年前、東京の空気汚染がひどい時代に厚木に引っ越した、
だから子供たちの健康上はよかったと思っている、

しかし考えてみると、小学校の友達で今も都内にすんでいるのは、
とても少数である、みんな同じ事を考えていたのだろう、











不覚

2013年03月03日 21時25分20秒 | Weblog
本日新宿で、通ったことのない道を走っていた、新宿のメイン通りは歩行者天国になっているので、池袋方面に行き、明治通り渋谷方面に急角度で左折しようとした、

直行車線は車が詰まっていたが、左方面は一台も車がいなくてそのまま左折してしまったら、パトカーに呼び止められて、信号無視だというのだ、

反則金9000円!

これはうっかりした、類似の交差点では左折可となっているので、スムーズに左折するんだけど、ここでは信号に従ってもらいたいんだそうだ、しかし、渋谷橋でも、札の辻でもこういう交差点では左折可なんだけどな、もっと言うと、アメリカではほとんどの交差点が右折可(日本で言う左折可)だ、アメリカの習慣が、たまたま近所の交差点で通用するので、なんて言い訳しても仕方がない、

不覚だった。