東京老人Tokyorojin

こごとじじい増山静男のブログです。

昭和、平成を生きる、自分史-4

2013年03月07日 22時13分43秒 | 自伝
ロスケたちの進駐は書いたように大変なことがあったんだけど、まともな兵隊たちが来たこともあった、大人たちはにわかにロシア語の勉強をして、集団でロスケたちに物を売る屋台を作ったりした、ロスケが部屋に来ると、オーチンハラショ(大変よい)ムスコなんていって私に話しかけたりした、そのうちトラックを持ってきて計画的に満州国の物品を掻っ攫っていた、

インフラであるが、水道は出た、ガスはどうだったろう、ガス会社のタンクがだんだん減っていくのを不安な目で見ていた、電気はあったような気がするが、夕方電気がだんだん暗くなった、電圧が極端に下がったと思われる、それでも電力会社の職員は全力でがんばってくれたのだろう、

われわれは故郷に帰る日を待ち望んでいた、昭和21年の夏までの一年間はものすごく長かった、

私たち母子3人は急ごしらえのコタツにあたり、毎晩トランプをしていた、父はセメントをどこかでもらってきて(かっぱらって)臼をこしらえ、餅をついた、これは失敗、もち米を持っている人はほとんどなかったろう、それから麹を作った、押入れの布団の中に麹の蒸篭をたくさん入れたものである、ものになったものは、たばこ巻き器だけであろうが、考えてみれば父は器用だったなあ、

引き揚げはいろんな係りの人が力を合わせて行ったのだろう、いろんな通達が来て、要はリュックひとつの荷物が許可されるのだった、お金は千円だったか、大人たちの会話を必死に聞いていた、リュックなんてものはなかったので、母が帯芯を使って4つを作った、例によって東新京駅に集合するのだが、汽車は、無蓋車(床だけの貨車)少ない男が、材木を使って人が落ちないように側を作るのだ、高い塀はできなかったのではないか、父は貨車の後ろにあるブレーキハンドル(上が丸い)の上に腰掛けて眠っていた、

引き上げ港はコロ島というところである、今では新幹線ができて4,5時間でいくと思うが、なんと1ヶ月もかかった、途中の食料はどうだったのだろう、このような貨車で途方もない時間がかかるので、途中赤ん坊がなくなったりする、大人たちが停車駅で穴を掘って埋める、

引き揚げ船に乗るまでの順番待ちもあったんじゃないかな、船に乗り込んで、狭い船室(貨物船のそこ)に落ち着いて、人々はなんと気を抜いて安堵したことだろう、私もほとんど大人と同じ感情であった、船内の演芸では新しいりんごの歌が歌われた、船は3日ほどかかって、博多港に着く、懐かしい九州の土地が見えるとみんな半狂乱になって喜んだ、ところが、検疫のため1日停泊させられるというと、みんながっかりだ、この船の中で亡くなる人もあって甲板から水葬にした、私自身も熱を出して死ぬところだった、発明されたばかりのペニシリンがあって助かったらしい、

博多港では、汽車に乗り込んだか、一泊したか定かではないが、有名になった虱退治の薬品、なんていったっけ、BCGじゃないペニシリンじゃない、DDTだ、全身真っ白にさせられた、アメリカではこういう薬を大量に作っていたのだ、

広島原爆についてはある程度知っていたので広島駅で汽車が止まると、みんな窓から一生懸命に町の様子を見ていた、途中の大都市はみんな焼かれてしまって、これからの生活をおもう、なにしろリュックひとつなのだから、私たちは東京にまっすぐ行っても困るからと、一緒に引き揚げた静岡県芝川町の人の家に一時身を寄せることになった、

身延線に乗り換え一時間ほどで芝川に着いたところは、この世の天国だった、清らかな用水が流れ、青々とした田畑に作物が実っていた、都会と違って戦争の影響はないみたいである、親切な人の作ってくれた真っ白いおにぎりは今でも覚えている、

父が東京に偵察に行った、幸い父の妹の家が戦災にあっていなかったので、身をよせることになった、私たちの乗った汽車は夜遅く品川駅に着いた、直前にあわてて支度をしたものだから、父が降り遅れてしまい、新橋から引き返してくるのを待って、その時刻は0時を過ぎて山手線はなくなっていたので、芝区三田豊岡町の家まで歩くことにした、第一京浜国道、いまはビルがぎっしりと立っているが、当時は家一軒もなく全部焼け払われていた、外灯もない、瓦礫がはみ出した歩道を歩いた、月は出ていたのだろうか、真っ暗ではなかったような気がする、


昨日の様に覚えているが70年近く昔のことだ、私は、いつかまたこのようなこと、呼び出されて、24時間以内に集合といったことが起こると思っていた、平和が続いていることはほんとに幸せであるとおもう、



最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (いっこんま)
2013-03-08 14:23:41
小さい頃のことなのに、良く鮮明に憶えていらっしゃいますね。
藤原ていさんの「流れる星のように」のドラマを思い出しました。
満州からの引き揚げのことには、職場の先輩などから何度か聞いたことがあります。船の中で亡くなった時の水葬のことも。胸が痛くなりますね。

こんな苦しいことを沢山経験されて、今の東京老人さんがあるんですね。
返信する
いっこんまさま (東京老人)
2013-03-08 16:46:34
大人のすることをじっと見ていてみんな覚えていたので、
その代わり終戦時のことがあまりに強烈で、
それ以前のことがまったく出てこなくなっていました(笑)
戦後引き上げまでになくなった人は多く胸が痛みます、
今、悩みからトキハナタレタ私がいます。
返信する
拝読しました (オヤジな私)
2013-03-08 17:17:01
ふたり姉妹の従妹と叔母がいます。
叔母は先年亡くなりました。
母の兄(叔父)が戦前新京に転勤になり一家四人で満州に渡ったのです。
叔父は現地で召集され生死不明のままです。

戦後、どうにか帰国できましたが、多くを語ることのない叔母でした。
従妹たちも幼すぎたので記憶に残ってないようです。

東京老人さんの記憶力に驚いています。
これだけの体験あってこそのいまの東京老人さんがあるのでしょう。
生々しいご体験を伺えました。
ありがとうございます。

友人のひとりが「満鉄会」の役員をしています。
春になったら会います。
伝えておきますね。

※ 紙巻タバコ器、父が辞書の紙で作ってました ※
返信する
オヤジな私さま (東京老人)
2013-03-08 20:15:23
叔母さまもさぞご苦労なさったことでしょう、
この苦労をした人たちの多くはなにも語らなかったですね、うちの姉も同様です、
お読みいただき本当にありがとうございました、
満鉄方の方どうぞよろしくお願いします、
きっと私も小1ですから、間違っていたところが多いと思いますがもし訂正があったら入れます、

紙巻たばこ器、東京の方はぐっと洗練されていましたね、
返信する

コメントを投稿