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MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

意に介さない天才

2013-10-10 00:00:00 | その他の音楽記事

10/10        意に介さない天才



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 23歳のヴィルヘルム・リヒャルト・ヴァーグナは、4歳年上の
ヴィルヘルミーネ (ミンナ) と結婚しました。

 場所はケーニヒスベルク郊外の小さな教会。 彼は当地の
劇場の音楽監督に就任していました。



 二人の結婚生活は不幸に終わります。 特にミンナにとって。

 それは、避けられなかったのでしょうか。 またミンナとは、
どのような女性だったのでしょうか?



 以下は、何度かご紹介した『ワーグナーの世界』 (オードリー・
ウィリアムソン 著、中矢 一義 訳、1976年、東京創元社) (以後、*1
約す)
からの引用です。




 1834年、マグデブルク劇場の音楽監督として契約したワーグ
ナーは、その劇場の美人女優ミンナ・プラナーと激しい恋に落ち
て、1836年11月24日彼女と結婚したのである。

 家庭という点からみれば、ふたりともこの結婚を維持すべく長い
間努力を重ね、過労と経済的に追いつめられていたワーグナー
にとっていくらか報いられるところがあったけれども、知性という
点からすれば、ちぐはぐな悲惨な結び付きだった。

 ワーグナーの硬いコンクリートを思わせる本質的エゴイズムと
芸術的な誠実さだけが、おそらく彼を安易な成功にひざを屈する
ことから救ったのである。

 借金はかさむうえに、ミンナからは、もはや大衆の要求に迎合
した初期の “通俗的な” スタイルによるオペラを書くことができな
い理由をまったく理解してもらえなかったにもかかわらず。 (*1




 二人の間のやり取り。 それは今となっては不明ですが、
辛うじて残っているのが、作曲家自身が書いた手紙です。

 ここではそのうち、ミンナに宛てたものの一部を見てみたい
と思います。



 なおミンナが作曲家に宛てたものは、今日では残っている
ものは皆無に近いでしょう。 作曲家の死を看取ったコジマ
の手で、取捨選択の上、処分されて。

 以下は、『音楽家の恋文』 (クルト・バ―レン 著、池内 紀 訳、
1996年、西村書店) (以後、*2 と約す)
からの引用です。




 「君は、人生はぼくに捧げたいが、しかし劇場での経歴は
捧げるつもりはなく、それがぼくたちを分け隔てる前に、ぼく
がそれを踏みにじっている、というわけだ。 誓っていうが、
ミンナ、ぼくは君の舞台生活など少しも意に介していないし、
そんなもののために二人の愛を犠牲にする前に、即座に君
を劇場から完全に奪いとり、その場で600ターラーの月給
つきで君と結婚する。」

 1835年11月7日、マグデブルク (*2




 「もう決して邪悪な猜疑、邪悪ないさかいを、ぼくの口から
聞くことはあるまい。 ぼくは生涯、君の騎士となり、保護者
となろう。」

 1835年11月11日 (*2




 「夏の終わりにケーニヒスベルクへいき、君と急いで結婚し、
それから一年以内に、一緒にベルリンへもどる。 おそらく君
はそのとき劇場にかかわる必要はまったくないだろうと思う。
そのときまでに作品もいくらかできているはずだから。」

 1836年5月24日、ベルリン (*2




 「名誉、名声、黄金、絢爛たる美がぼくに手招きしてくれます
ように。 … 君は知っているに違いないが、ぼくほど愛した者
は誰もいない
のだから。 君ほど愛された者も誰もいない!!」

 1836年5月27日、ベルリン (*2

 (下線は、原文にあるものです。)




 「おお今、この今、君をかたわらにおき、君を感じ、君の
眼差しのなかに身を沈め、君のいとしい身体と婚礼をあげ、
ぼくの苦しみすべてを甘美なる抱擁の中で溶かすのだ!」

 1836年6月1日、ベルリン (*2




 権力、影響力、支配へのかぎりない望みが彼を揺さぶって
いたが、そのための道を彼はまだ知らなかった。 しかしそう
した力を夢みて、手にする前からすでにそれを感じていたの
である。

 その道をみつけ、切りひらくためなら、何はばかるところ
なかった。 もらえるところから金をもらい、それを返さねば
ならないとは考えなかった。 まさに生きのびて、決断の日
のために力を蓄えたいと思っていた。 ミンナという女性を
強引に腕に抱きしめ、自分のなかで彼女の情熱の炎を燃え
あがらせようとした。 その情熱で、彼はいつの日か、燃え
上がるような音楽 (*) を書くことになる。

 すべてが彼には結局のところ唯一の目的、すなわち作品
のための手段にすぎなかった。 目的は手段を正当化する
だろうか? ふつうの道徳観念はこの問いをきっぱりと否定
する。 しかしヴァーグナ―はふつうの人間ではない。 彼
は天才であり、とてつもない任務をはたさねばならないので
ある。 彼がすべてを唯一の目的に従属させるとき、それも
無意識にやっているのだとすれば、彼を非難することができ
るだろうか。 (*2



 (*) 『タンホイザー』、『ヴァルキューレ』など、激しい情愛
を描いた作品を指しているのでしょう。 おっと、後者は別
の女性が関連したか?

 なお、この著者は男性です。




 その年の秋、二人は結婚式を挙げました。 しかしミンナは、
僅か半年でヴァーグナの下を去ります。 幼い娘と共に…。

 彼女には不幸な過去がありました。 15歳のとき、怪しげ
な男に誘惑されて…。 その娘をミンナは、表向きは “妹”
と呼んでいました。 自身の死のときまで。



 さてヴァーグナは、ミンナの行く先を調べ上げ、ドレスデン
の両親の家にいることを突き止めると、次のような手紙を
送ります。




 「わが善良なる愛する、愛するミンナ! 君はぼくの妻と
なり、そしてぼくから逃げ去った!」

 「ミンナ、君のもとにもどる前に、まだ、このうえなく真剣に
いうべきことばがある。 君がぼくの妻となったのは、ぼくが
生涯で最高に不幸な状態にあったときだった。 君はぼくと
ともに不幸と困窮を背負いこんでしまった。 それが君の素敵
で素晴らしいところだった。 君は、ぼくの残酷な態度を非難
しているわけだが、残念ながら君にはその権利がある。 …」

 「もう一度ぼくを信頼し愛する事ができるかどうか、自分の
心と相談してほしい。 もしできぬのなら、明日の朝ぼくが君
を訪ねたとき、ぼくを突き出してくれ。」

 1837年6月20日、ベルリン (*2




 ヴァーグナは、7月にリガの劇場と契約しました。

 1837年10月、ミンナは舞台生活から引退します。
二人は、もう一度一緒に暮らし始めました。




 秋、夫妻はリガへ移り、リヒアルトは二年間その地の劇場
の音楽監督にとどまって、… この過重な分量の仕事も、彼
が第三作目のオペラ『リエンツィ』に着手する妨げにはならな
かった。 … 劇場での務めによって強いられる、作曲とは無
関係な仕事、増大する借金の重荷、それにすでに彼の結婚
生活に伴っていたところの、彼がのちに述べた言葉でいえば、
“家庭的苦難の数々” とに苦しめられていたので、彼はこの
歴史小説への逃避の中に唯一の心の安らぎを見出したの
だった。 …

 1839年、ワーグナーがリガを去らねばならなくなったの
は、ほかでもない、被債権者としての立場が危険なもの
になったからだった。 妻のほかにセント・バーナード犬
のロバ―というやっかいなものまで引き連れてロンドン
経由でパリへ行くつもりで…。 (*1




 債権者の監視が厳しかったので、夫妻は “変装までした”。
また犬は、彼にとって終生お気に入りの動物でした。




 なお、ミンナの人柄に触れて、渡辺護氏は次のように記して
います。



 ミンナはワーグナーを愛していたのだろうか?

 暖かい心をもったこの理知的な女性は、何よりもこの貧乏な
音楽家の、不安な生活に同情した。 そして、この年下の男の
はげしい、官能的な愛をうけ入れたのであろう。

 しかし、この異常な天才の心の奥にひそむ、真の苦悩と不安
を救済することはできなかったのである。

 (『リヒャルト・ワーグナーの芸術』 新版 (渡辺 護 著、1987年、
音楽之友社)
より)




 さて、彼の舞台作品を年代別に大きく分けると、前半期
には次のような作品が見られます。



 (1) 『妖精』、『恋愛禁制』、『リエンツィ』。

 (2) 『オランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』。



 ちょうどミンナと知り合った頃 (1834年) に始まり、
ドレスデン蜂起事件で逃亡、別離を余儀なくされる
(1848年) までの時期に当ります。




 さて、リヒャルトの父親問題が、要因の一つとなって生まれた
作品…。

 私は前回そう書いたのですが、今回は触れていませんね…。



父が与えた苦しみ

2013-10-08 00:00:00 | その他の音楽記事

10/08        父が与えた苦しみ



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 以下は、Richard Wagnerからの引用です。




 ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーは、1813年の5月22日に
ライプツィヒで生まれた。

 しかし、洗礼を受けたのは8月16日になってからである。 当時
の習慣によれば、生まれた翌日に受ける事になっていたのである
が、この時はそんな事はできなかったのである。 それは5ヵ月後
にこのライプツィッヒでは、プロイセンとオーストリアとロシアの連合
軍がナポレオン軍と戦う事になるので、その準備のために市中は
混乱を極めていたからである。

 戦いは連合軍の勝利に帰した。 “ライプツィッヒの戦い” と言う。
彼が洗礼を受けた教会は、かつてバッハが合唱長をしていた、
あのトマス教会であった。



 父親カルル・フリートリッヒ・ワーグナー(1770-1813)は、
ライプツィッヒの徴税官をしていた人の長男である。 市の裁判
所の副書記をしていた28歳の時に、24歳のヨハンナ・ロジ-ナ
(1774-1848)と結婚した。 パン屋の4女である。 特別の教養
はなかったが、美人で明るい性格の人であったという。



 “ライプツィッヒの戦い” は10月の16日から19日まであり、連合軍
の勝利となった。 しかし間もなく、この地方一帯はチフスに襲われ
る事になる。 父親はこの犠牲となって、11月22日にわずか43歳で
この世を去ってしまった
。 リヒャルトが生まれてから半年後の事で
あった。



 父親の死後9ヶ月して新しい父が来た。 母親が再婚したので
ある。 ルートヴィッヒ・ハインリッヒ・クリスチャン・ガイヤー(1779
-1821)と言った。 俳優であり、台本作者であり、また画家でも
あったという多才な人である。

 一家はドレスデンに移った。 2月に妹のチェチリエが生まれた。
演劇一家として有名になった彼らは、それぞれ舞台に立ったが、
幼いリヒャルトも子役として働いたという。 ピアノもいじるように
なった。

 1820年に7歳になった彼は、ドレスデン近郊のポッセンドルフの
聖職者の家に預けられ、初等教育を受ける事になったが、翌年
の9月20日に新しい父親も死んでしまい…。




 生まれて半年で父を亡くし、7歳のときには継父を…。

 こと、父親の愛に関しては、ヴァーグナは恵まれませんでした。



 ところで、以下の5人については、前回も触れましたね。
後にヴァーグナの作品に登場するヒーローたちで、ほとんど
が劇中で命を落とします。

 タンホイザー、トリスタン、ジークムント、ジークフリート、
パルジファル。



 では、この同じ5人の中で、生まれる前に父親を亡くし、
父親の顔を知らない人物は?

 もちろん作曲家が、そう設定したもので、3人います。

 解答は、この記事の奥にあります。



 いずれにせよ、自身の不幸な体験が、作中
に反映されている…。 たとえ無意識でも。

 そう見ていいでしょう。



 

 ところが、実態はさらに複雑なようです。

 以下は、前回ご紹介した『ワーグナーの世界』 (オードリー・ウィリ
アムソン 著、中矢 一義 訳、1976年、東京創元社)
からの引用です。




 カール・フリードリヒが実際、彼の実父であったのか、かなり
疑わしいところである。 … 母は俳優のルートヴィヒ・ガイヤー
と再婚した。

 ガイヤーは毎年ライプツィヒ劇場での興業期間中はワーグナー
家に寄宿するのが慣わしだったし、彼らの娘、つまりリヒアルト
の妹チェチリエが、しかるべき時期よりも相当早く生まれたこと
も確かなことである。

 そしてリヒアルトはその生涯も終りに近いころ、チェチリエ
に彼女の出生の意外な事実を知らされてからは、ガイヤー
が自分の父親であることをほぼ間違いのないものとして、
妻コジマともども認めていたようだ。




 もし、このとおりなら…。



 リヒャルトは “実父”、カルル・フリートリッヒの顔を知らない。

 さらに、ガイヤーが実父だとすれば、彼は私生児である。



 いずれにせよ、リヒャルトは苦しみ続けたことになります。

 少なくとも、多感な少年期には確実に。




 何度も引用させていただいた『リヒャルト・ワーグナーの芸術』
新版 (渡辺 護 著、1987年、音楽之友社) には、次の記述があります。




 ワーグナー自身、ガイヤーの深い情愛には、感謝の心をもって
語っていた。 1870年、ワーグナーが57歳になった時に、彼はチェ
チリエに手紙を送り、「われらの父ガイヤーが、全家族のために
献身的な面倒を見てくれたのは、彼が一つの負い目を償っている
と信じていたのではないかと思われる」と書いている。

 ……  ……

 この問題が解決できれば、遺伝学の方面からは興味あること
にちがいない。 なぜならワーグナーがガイヤーの実子であると
すれば、その包括的な芸術才能は、父親から受けついだことに
なるからである。

 しかしワーグナー自身は、これを表面的には重大な問題とは
しなかったこと、そしてワーグナー自身にもはっきり判らなかった
ことも事実である。 後年ワーグナーの妻コジマが夫にそのこと
を尋ねたとき、彼は「ガイヤーが私の父であるとは思われない。
私の母が彼を愛したことは事実だが」と言ったそうである。




 最後の部分は、おそらくコジマの証言だろう。 だから、とても
“信頼がおける” とは言い難い。

 自分は “コジマ・ガイヤー” になってしまい、バイロイト音楽祭
は、“リヒャルト・ガイヤー” の名作上演の場になりますから。



 今日の末裔たちの中で、“遺伝学的調査” に協力する者は、
おそらく皆無でしょう。




 さて、リヒャルトにとって深い苦悩だったろうと思われる、
この “父親” 問題

 「それが、要因の一つとなって生まれたのではないか。」



 私が勝手にそう考えている作品があります。

 これ、何だと思われますか?



 ただし、先ほどの5人が登場する作品ではありません。

 これについては次回に…。




 さて、“クイズ” の解答です。

 タンホイザー、トリスタン、ジークムント、ジークフリート、
パルジファルのうち、生まれる前に父親を亡くし、父親の
顔を知らない人物3人は?



 貴方がヴァグネリアンでしたら、簡単ですね。

 解答は、トリスタン、ジークフリート、パルジファルです。



 ジークフリートは、ジークムントの子。 しかし父親は、
戦いの最中に命を落としてしまいます。



 そのジークムントは、ヴェルズンク族の大神ヴォータンが、
人間の女性に産ませた存在。 「父ヴォータンを知りながら、
戦いの最中にはぐれてしまう」…という設定になっています。

 生き別れ…。




 “父親の顔を知らない” 件は、これでお終い。 でも、
さらに問題が…。

 ジークムントは、死の直前にジークリンデと知り合い、
愛し合って生まれた子が、ジークフリートです。



 ところが、この父母は、実は兄妹の関係であった…。

 つまりジークフリートは、“近親相姦” という複雑な問題を
抱えて、この世に送り出された英雄…ということになります。



女性的なる愛

2013-10-07 00:00:00 | その他の音楽記事

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 白鳥の騎士の物語は、デンマークとアングロサクソンの
スキフ (シェアフ) の伝説や、アイルランド統治下にあった
時代のウェールズの四つのマピノーギオン (ウェールズの
民間に流布していた中世騎士物語集)
伝説に盛り込まれている。

 このケルト的背景は、アーサー王と円卓の騎士たちの
伝説の創造にも影響を及ぼし、聖杯 (キリストが最後の晩餐
に用いた杯で、アリマテアのヨゼフが、それで十字架上のキリストの
傷口から流れる血を受けた)
の物語は、このアーサー王伝説
に由来するものなのである。

 もっと後の時代の伝説になると、聖杯の安置されている
場所がスペイン、ピレネー山脈のモンサルヴァ―トへと移り
変わり、そこで聖杯を守護する者は、罪なく圧迫されている
人々を救うために旅に出るという、中世騎士道の形式を、
いまだに取っている騎士たちとなる。

 パルジファル (ときにはペルセヴァルと呼ばれることもある) は、
その聖杯守護の騎士たちの頭であり、窮地に立たされた
エルザを救いにやって来るのは、ほかならぬこのパルジ
ファルの息子なのである。



          『ワーグナーの世界

(オードリー・ウィリアムソン 著、中矢 一義 訳、1976年、東京創元社) より




 タンホイザー、トリスタン、ジークムント、ジークフリート、
パルジファル。 いずれもヴァーグナの作品に登場する
ヒーローたちです。 

 ほとんどが劇中で命を落とす。 生身の人間だから。



 この中で唯一の例外、パルジファルは、伝説中では
神的な存在です。 ただしヴァーグナ作品では、その
前半生だけが描かれている。 もちろん “創作” です。

 人間、それも “聖なる愚か者” として、まず登場する。
これについては、また後日触れたいと思います。




 パルジファルの息子、ローエングリンは、したがって神的、
超人間的存在。 悩める女性エルザを救うために、人間世界
に下って来る。

 しかしそこには矛盾がありました。 神的な愛は、人間同士
の愛とは相容れない要素があるから。



 前者は、ひたすら信じることを要求する。 いわば超自然
的な愛です。

 エルザが求めたのは、知的思考によって、理性的に安堵・
納得させてくれるような愛でした。 両者は本質的に異なる。
それが、悲劇の大きな原因でした。




 「名、氏、素性を尋ねてはならぬ。」

 無理な話ですね。 夫の名も呼べないなんて…。



 これほど特殊な例でなくても、好奇心、詮索好きな行動は、
愛情関係を破綻させる。 …よくあることです。

 歌劇では、思い付くものだけでも、青髭公の城夕鶴

 それぞれは、ペローの童話、新潟県の民話が元になって
います。



 ユングの言葉を借りれば、集合的無意識でしょうか。
伝説、説話、民話、寓話などに、時代や場所を超えて、
共通にみられるモティーフです。




 さて、清らかな、第一幕への前奏曲。 一方
で、無慈悲な結末。 あまりにも対照的ですね。

 神的な愛と、人間的な愛との、歩み寄り難い
乖離を示すものでもある。

 作曲は、第三幕の終結部、第三幕、第一幕、
第二幕、前奏曲…の順で行われました。



 私は最初の前奏曲を聴き始めると、ほんの数秒のうちに
必ず涙が浮かんでくる。 今も、これを書きながら。

 この曲について、作曲者は次のように記しているそうです。

 前回もご紹介した『リヒャルト・ワーグナーの芸術』 新版 (渡辺 護 著、
1987年、音楽之友社)
によるもので、上記の作曲経過についても同様です。




 「グラ―ルの聖杯が奇跡力を蔵しつつ、天使の群に
伴われながら、至福の人々のもとに下ってくる。」

 「…あるいは喜ばしき苦痛が身をはしり、あるいは
見る者の胸に至福の快さが湧き起こる…ついに聖杯
みずから奇跡のまま、あからさまなる現実に現われ、
これをみとむる資格のある人のまなざしに届く。」



 エルザは、その資格に、あと一歩及ばなかった。

 自分を窮地から救い出してくれる “白鳥の騎士” を、夢の
中で認めながら。 そして、結婚式まで挙げたというのに。




 それでは騎士ローエングリンは、ただの超人間的存在
にすぎないのか? 人間界にエルザを認め、これを神的
な愛で救おうとしたのですが。

 同著によれば、作曲者は次のように記しているそうです。
ローエングリンを “精神的、人間的な存在” として捉え、
自己の思いを重ね合わせています。



 「このような最高の頂点へと、思索する者はのぼってゆき、
…。 しかしこのような至福の孤独に到達するや、私の心に
は新しい、圧倒的な力をもつ憧憬が目ざめ、高所から低所
へと、もっと貞節高き純潔の陽光にみちた輝きから、人間的
な愛の抱擁のなつかしい陰へとあこがれる。 この高所から、
私の欲求するまなこは “女” をみとめる。 “女” こそ、陽光
の高所からローエングリンを、大地の暖かき胸へと引き降ろ
したものなのである。」




 私には難しい。 日本語で読んでも。 詩人の文体です。



 “低所” から人間の愛を希求するのは、オンディーヌであり、
人魚姫ですが。 いずれも水の中の存在だね…。

 “水” から連想する言葉。 無意識、混沌、羊水、原初…。



 天上から、祈りによってファウストを救うのはグレートヒェン。

 Das Ewig-Weibliche……“永遠に女性的なるもの”。



 “女”……。




 同著の巻末の年表には、以下のように記されていました。

 「1883年2月13日。 随筆『人間的なものの中の女性的なもの
について』を執筆中、狭心症の発作におそわれ死去。 69歳。
彼が書きつけた最後のことばは “愛 - 悲劇” である。」



 ヴァーグナは、妻コジマの腕の中で息を引き取りました。





    『ローエングリン』 第一幕への前奏曲 音源サイト

  [音源ページ 1  [音源ページ 2  [音源サイト



考えすぎの私

2013-10-06 00:00:00 | その他の音楽記事

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 結婚式、披露宴…と言えば音楽が付き物ですね。

 中には録音ものではなく、音楽仲間が楽器を持ち
寄って祝う、微笑ましい光景も珍しくありません。



 私も先日、披露宴で楽器を弾くよう頼まれました。 目下
曲目を選定している最中です。  (何がいいかな…。)

 カップルから具体的に指定された曲目もあります。



 でも、今頭を悩ませているのは、“新郎新婦入場” の際
の音楽なのです。

 一般的なのは、結婚行進曲ですね。 メンデルスゾーン、
ヴァーグナ…。




 華やかなのは、何といっても前者でしょう。

 パカパ パーン、パカパ パーン! 原曲は、
トランペットのファンファーレです。



 でも、ふと頭をよぎるのが、この一言…。



 “That is an evil marriage.”

 「この “結婚” はね、道徳的によろしくないんだよ。」



 これ、指揮者のペーター・マークさんのコメント。 生前
来日された際、オケのリハーサル中、口にしたものです。

 「『夏の夜の夢』の中の “結婚” は、むしろ乱交のような
ものだから、自分としては、神聖なイメージは持てないよ。」



 音楽は、あれほど颯爽としており、清潔この上ないのにね。

 これじゃ何も選曲できないじゃん…。 そこまで考えちゃうと。




 その意味では、後者のほうがいいのでしょうか。

 名作ローエングリン中の、“婚礼の合唱” です。




   Treulich geführt ziehet dahin,

   wo euch der Segen der Liebe bewahr’!



   誠実に 歩み行け

   愛の恵みぞ 満てる場へ  (拙訳)




 こちらは華やかというより、歩みが落ち着いている。
歌詞も荘重で、結婚式には相応しいでしょう。



 ところがこれも、問題が無いとは言えない。 寺院
へ赴く新婦エルザの心中は、不安に苛まれている
からです。

 事実、終幕では、大変な悲劇が訪れてしまう…。




 この作品は、貴方もよくご存じでしょう。 台本の制作は、
作曲家自身です。

 ただし内容は、ヴァーグナの完全なオリジナルではない。
ただし、伝説そのままの形でもありません。 例によって、
何種類かの説話を基に創作されました。



 白鳥の騎士の説話は、周辺のドイツ、フランスには、
何種類も伝説として広まっており、シェルデ河、ライン
河の間の地域が、発祥地なのだそうです。

 作品の舞台は、シェルデ河畔のアントワープです。
ローエングリンは、白鳥の引く小舟で河を下って来る。
以下の説話にあるとおりの場所です。




 劇の詳細は、上記の解説ページに委ねます。



 ここでは、説話のうちもっとも代表的なもの、『パルツィファル』
(Parzifal) 中に記された概要を、『リヒャルト・ワーグナーの芸術』
新版 (渡辺 護 著、1987年、音楽之友社) から転載させていただき
ました。 説話、伝説についての記載部分も同様です。

 原著は中世の詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ
(1170-1220) によるものです。




 ブラバント国の公女は才徳兼備の美人であったが、神から
つかわされる男とでなければ結婚しないとちかった。 ブラバ
ントの貴族たちは、早く国王を選べと公女に迫った。

 聖杯の守られている城ムンサルヴェッシュMunsalvaesche
にいた騎士ロへラングリン Loherangrin は、父パルツィファル
の命により、敬虔なる公女を救うために、白鳥の引く小舟に
乗って河を下り、アントワープに到着した。 公女は彼を心から
喜んで迎えたが、結婚をするにあたってこの騎士は、決して彼
の素姓を問いただしてはならないとちかわせたのである。

 二人は長い年月を幸福に暮らし、多くの子をもうけたが、
公女はついに夫の名と素性とをたずねてしまった。 すると
かの白鳥が、騎士を連れ去るべくふたたび現われ、騎士
ロへラングリン は、形見として剣と角笛と指輪を公女に残し、
ふたたび聖杯に仕えるためにブラバント国を去って行った。




 さて、『ローエングリン』の構想が纏まったのは1846年。
スコアの完成は1848年とされています。

 作曲家自身は、すでに結婚していました。



 ヴァーグナは生涯に、結婚式を二度挙げました。

 最初は1836年11月24日。 23歳の年で、相手は、
かつての女優で年上のミンナです。 『タンホイザー』、
『ローエングリン』は、共に暮らしていた時の作品です。



 しかしこの結婚生活は、幸せとは言えなかった。 誰が見ても。

 法的な “結婚状態” は、一応1866年まで続きます。



 持病の心臓疾患や、心労などが重なり、別居中に
ドレスデンで、ミンナがこの世を去るまで。





       “Wedding March” 音源サイト

     MENDELSSOHN   WAGNER



幻の馬

2013-10-01 00:00:00 | 私の室内楽仲間たち

10/01 私の音楽仲間 (544) ~ 私の室内楽仲間たち (517)



                 幻の馬




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 “dem Grafen von Browne gewidmet”.



 私のパート譜には、そう書かれていました。

 曲は、Beethoven の弦楽三重奏曲 “ニ長調 Op.9-2”。
27~28歳頃の作品です。



 【フォン・ブラウン伯爵に献呈】。




 ヴァン・スヴィーテン男爵、リヒノーフスキィ伯爵、フォン・ロプ
コヴィッツ侯爵、ラズモーフスキィ伯爵、ルードルフ大公なら、
私も知っています。 作曲家のパトロンの数々で、中には曲の
成立に深い関わりを持つ人物もいます。

 ところが “von Browne” 伯爵というのは、私にとっては初めて
の名でした。 綴りは、ドイツ語でも英語でもなさそうです。




 そこで調べてみると、以下の解説に行き当った。

 “Count Johann Georg von Brown-Camus [1767-1827] -
one of the chief early Viennese patrons. Gave horse to B.
after the dedication of op10#1-3 to the Countess along
with other dedications.”

 BEETHOVEN; Teachers, Patrons, and Associates より)



 なるほど、「作品10のピアノ-ソナタ3曲、他を献呈」…とあるね。

 “他” というのは、この弦楽三重奏曲、作品9の3曲のことだな。



 以下は前回もご覧いただいた、作品番号、作曲年代が記された
サイトです。

        Liste der Werke Beethovens




 …と、ここで納得すればいい私。

 でも、“Gave horse to B.”…って書いてあるね。 これ何だ?



 素直に読めば、「Beethoven は馬を賜った。」 確かに馬は、
貴重な財産です。 この時代には、手柄のあった部下などに、
勲章と共に与えられていました。

 まさか絵馬じゃないだろうしな…。




 それに、“a horse” なら解るけど、冠詞の “a” が無い。

 これ、イディオムかな? 本当の馬のことじゃなくて。

 そうなると、どういう意味なんだろう?



 かくて、さらに検索は続きました。 よせばいいのに…。




 「Johann Georg von Browne-Camus 伯爵は、アイルランド系。
ロシア宮廷に仕え、財と名を成す。」

 なるほど。 だから “Braun” でも “Brown” でもないんだな。



 「作品10 のピアノ-ソナタ3曲は、伯爵夫人の Anna Margarete
von Browne に、先に献呈されていた。」

 ははあ、ソナタの方が先なんだ…。



 「作品9 の三重奏曲を献呈すると、“作曲者の最高傑作”…
との賛辞を伯爵から賜った。」

 …それだけか…。 で、は?




 “his patron, who had already given him a horse in response
to an earlier dedication to the Countess…,”

 あった、あった!

 「(作品10 のソナタ3曲の)献呈に対し、伯爵はすでに Beet-
hoven に馬を与えていた…。」



      Keith Anderson 氏による録音解説 より




 やっぱり本物の馬だったんだ…。 伯爵にしてみれば、
大変な財産を与えたことになる。

 「そなたには馬を授けよう。」



 でも Beethoven は軍人でも貴族でもないからな。 そんなの
貰っても、まさか、ピアノの下で飼うわけにはいかないもんね。

 餌代だけで脚、出ちゃうよ。 収入どころか、大赤字になる。

 ヴィーンの街中を作曲家が馬に跨って…なんて、とても想像
できないし。 きっと誰かに売っ払っちゃったんだろうな。



 じゃ、この三重奏曲を献呈したときは、何を期待したんだろう?

 二匹目の “どぜう”…じゃない、二頭目の馬かな…。

 「今度は現金がいいのに…」とか言いながらね。 で結局、
何を貰ったんだろう?



 “そなたの最高傑作だ” …っていう賛辞だけだったりして…。

 これ、大惨事。




 [譜例]は、弦楽三重奏曲 ニ長調 Op.9-2から、第Ⅳ楽章
Rondo “Allegro” の一部。 ニ長調、2/2拍子です。

 空白部分は、“絵馬” が消えた跡です。 どうかお好きな
をイメージしてください。







 冒頭のテーマAが何度も現われ、テーマBが出てきたところ
ですが、演奏例の音源]は駄馬のように重々しい “Allegro”
になってしまいました。

 原曲では、Aの前半がチェロ、後半で Violin が応えますが、
編集で Violin だけになっています。





              音源サイト