MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

証し人たち

2013-12-19 00:00:00 | その他の音楽記事

12/19          証し人たち



          これまでの 『その他の音楽記事』




                関連記事

               ヤン・ホラークさんを悼む
                  チェコからの声
                    色トリドリ
                 表記にも願いが
                   河に託して
                   証し人たち




    「ヴルタヴァ川は聖ヤン (ヨハネ) の急流で渦を巻く。

   そこを抜けると、川幅が広がりながらヴィシェフラド

   の傍を流れてプラハへと流れる。 そして長い流れ

   を経て、最後はラベ川 (ドイツ語名エルベ川) へと消えて

   いく。」



    これは、交響詩『ヴルタヴァ』の解説ページに
   書かれた一節です。




     「ヴルタヴァは、ヴィシェフラドに象徴される
    チェコの歴史をも貫流して流れている。」

     こちらは、菅野浩和の一文でした。

          関連記事 河に託して




 “ヤン” は、Jan Horák さんのお名前でもあります。




 「誰からもそう言われていましたが、やはり誠実な
人間だったと思います。 家族に対しても、音楽に
対しても、言葉少なかったですが、誠実でした。」

 ご家族が語る、ホラ―クさんの横顔です。



 「お酒が大好きで、食べるのが大好きなの
はチェコ人らしいところでしたが、チェコ人の
同級生にお会いしても、こうなんです。

 “ホンザ (ヤンの愛称です) はチェコ 人らしく
なくて真面目だった!”」



 愛称のほうが長い。 それに、
チェコ人は真面目じゃないって!?




 「自分には本当に厳しかったので、何十年もずっと弾いて
いる曲でも一切妥協することなく常に練習していて、本当に
文字どおり、ずっと練習している人…という印象です。」

 ……。



 「丸い風貌と、必要以上に丁寧な敬語で喋る日本語が
相まって、マスコットキャラクター的な不動の立ち位置を、
大学では得ていたように思います。」

 そうですか……。




 「“ずっと練習している” なんて…。 子供の頃、とても
じゃないけど、こんなのは真似出来ないと思っていまし
たが、大人になってみて、なおのこと、そう思います。」

 ご自身ピアニストの、ご子息のお言葉です。



 「それから、人格的にも非常に出来た人だったと思います。
僕が反抗期の頃にでも、よくレッスンをしてくれたのですが、
あの態度の生徒に対してもレッスンを淡々とこなすのは、
相当な精神力だったのではないかなと、今は思います。」



 ご家族の間で教え、教えられるのは、とても難しい
でしょうね。 近しい間柄だけに。

 「本人は、“アラブの王様の子供をお預かりしている
つもりで頑張った” と、後に語っていましたが。」

 ハハハ…。




 ホラ―クさんは、病院の一室から旅立たれました。
もちろんそこには、愛する楽器、ピアノが無い。

 しかし、どうしても弾きたかったのでしょう。 ご家族
に頼んで、楽器を病室に入れてもらったのです。



 考えた末、ご家族が用意したのは電子ピアノでした。

 もちろん、音漏れを防ぐための、最善の措置です。



 スピーカーの音量を絞って、ホラ―クさんは弾かれた
のでしょうか? それとも、ヘッド-フォンを当てて…。



 その楽器に、実は私も先日お世話になりました。
ひょんなことからですが。

 そんな偶然もあった。





 最後にご紹介するのは、生きた証という随筆です。

         トップページは、私の書棚です。

 万一のリンク切れに備え、勝手ながら全文を転載させていただきました。





 ピアニストとして活躍し、多くのファンから愛された
ヤン・ホラーク氏が、去る1月18日、脳腫瘍のために
逝去なさいました。



 ホラーク氏は旧チェコスロヴァキア生まれ、チェコ、オストラヴァ
音楽院を経て、プラハ音楽アカデミーピアノ科をご卒業、芸術家
コンクール、ショパンコンクール、チェコ新人演奏家コンクール
などにおいて次々と優勝を果たされた後、1971年には武蔵野
音楽大学から客員教授として招かれ来日されました。

 日本国内においても、オーケストラとの協演、室内楽、ソロ-
リサイタルなど、幅広く演奏活動を繰り広げられると共に、大学
では多くの日本人学生の指導にあたり、また日本音楽コンクー
ルの審査員としても大きな功績を残されました。 母国チェコの
音楽の紹介や、バロック音楽からロマン派、そして現代音楽に
いたるまで、その幅広いレパートリィは多くの音楽ファンを魅了
してきました。



 1月23日におこなわれた葬儀には、大変な数の音楽関係者や
教え子達が参列し、生前のホラーク氏の優しいお人柄を偲びま
した。 告別式の会場には、故人ご自身が演奏されたピアノ曲
が絶え間なく流れ、在りし日のご活躍のようすがDVDの映像で
映し出されるなど、参列した者の心に深い感動を残す音楽葬と
なりました。




 私が “ピアニスト、ヤン・ホラーク” というお名前を、初めて目に
したのは、1970年代の後半頃、ホラーク氏が来日されて数年後
のことでした。 当時私は30代の終わり近く、娘は小学校の2年
生か3年生だったと思います。

 幼稚園の頃にピアノを始めた娘は、お近くにお住いの先生の
もとに、毎週楽しくお稽古に通っていました。 その頃、娘が
次々と弾けるようになっていくピアノ曲の数々は、私にとって
まさに人生の希望であり、憧れでもありました。



 ちょうど4歳で終戦を迎えた私の少女時代には、学校での音楽
の授業以外に、音楽とふれる機会は皆無で、ピアノという楽器で
さえ、学校の講堂においてあった軍艦のような古いグランドピアノ
を遠くから眺めていたにすぎませんでした。

 そんな私にとって、幼い娘のために最初に買ってあげたアップ
ライトピアノの鍵盤にふれて、聞き覚えた歌の旋律を弾いてみる
時など、美しい音色は歌の翼となって大空をかけめぐり、胸の高
なるのをおぼえたものでした。




 ある日のこと、偶々セールスマンが我が家に届けにきたピアノ
レコード全集
のパンフレットを見ているうちに、こんな名曲を是非
娘に聞かせてやりたい、もちろん私も聞きたいと、決して安価で
なかった全集を衝動的に購入することになりました。

 レコード10枚がセットになっていたその全集には、古典音楽
から現代曲まで、誰もが知っている有名なピアノ曲がたくさん
収められていました。 ピアノの演奏をなさっていたのは、どこ
かで名前を聞いたことがあったり、何かの本でお名前を拝見
したことがあった、10名の有名なピアニストの方達でしたが、
その中のお一人に、来日まだ間もなかったヤン・ホラーク氏
がおられました。



 レコード全集には、立派な解説パンフレットが添えられていて、
そこには演奏者の写真入りで、興味深いインタヴュー記事が
掲載されていました。 もう処分してしまったのか、それとも物置
のどこかに埋もれているのか、そのパンフレットの1冊の中に、
ホラーク氏が日本人の奥様と並んで写真におさまっておられた
ことが、不思議なことに今でも私の記憶に残っているのです。



 もちろん、ヤン・ホラークというお名前は、当時の私にとって、
縁もゆかりもない、自分とは別世界に住むお人のものでしか
なく、それは映画スターや各界の著名人の名前を眺めるのに
も似て、はるかな遠い存在であったことは言うまでもありませ
んでした。 自分の娘がやがてクラシック音楽の道を目指す
ことになるなどと、夢にも思っていない時代のことでした。





              この頃のホラ―クさん




 今にして思えば、人間の出会いとは、天の定めた不思議な
運命の糸に手繰られていくもののようで、実はヤン・ホラーク
先生は、娘の大学院時代の恩師でいらっしゃいました。 音
楽大学での4年間の勉強を終えて、さらに大学院への進学
を希望していた娘に、ある日、大学時代の教授がご紹介くだ
さったお方が、何とあのヤン・ホラーク氏だったのです。



 「紹介状を書きますので、何曲かを持参して、ホラーク先生を
訪ねなさい。」と言われた時には、娘も私も一瞬教授の言葉が
すーっと宙に舞いあがり、自分達の耳を疑ってしまいました。

 10数年前に、ひょんなきっかけで手にしたレコード全集のこと
や、その解説のパンフレットの中で、お写真を拝見したことの
ある憧れのお人のことが、ぱあっと脳裏をかけめぐり、私は胸
がどきどきするばかりでした。



 大学入学の頃までは、娘が新しい先生のもとへうかがう
たびに、必ず一緒に付き添ってご挨拶をするようにしてきた
私も、さすがに大学卒業後まで親が顔を出しては過保護す
ぎると遠慮し、ホラーク先生のお宅には、娘一人で行かせる
ことにしました。 外国のお方に娘を託すことになった私達
両親の気持を、どうしたら一番綺麗に伝えることが出来るか
と、さんざん心を砕いた末に、私は両手いっぱいの黄色い
バラの花束を持って行かせることに決めました。

 何かのご縁があって、すばらしいピアニストの先生にご指導
をいただくことになった娘のことを案じて、はらはらどきどきし
ながら帰宅を待っていた私達は、先生がバラの花束の贈り物
を大喜びしてくださったという娘の報告を聞いて、それまでの
心配が跡かたもなく消えていくのを感じました。



 大学院での2年間は、遠くから祈るような気持で娘を見守る
ばかりで、私がホラーク先生と言葉を交わしたことは一度も
ありませんでした。 大学院の卒業式の日、娘から紹介され
て深々とお辞儀をした私に、先生はその1週間ほど前に私が
書き送った英文の御礼状のことを、「Beautiful English」だった
と、英語と日本語を織り交ぜながら、にこやかにおっしゃいま
した。

 後にも先にも、私がピアニスト、ヤン・ホラーク氏と言葉を交わ
したのは、その一瞬だけのことで、とてもノーブルなお顔立ちで
あったことと、綺麗な目をしたお方だったということを記憶に残し
ているばかりです。




 葬儀の日に、会場に流れていたDVDの映像は、ホラーク先生
が緊急手術を前にして、最後のお仕事として舞台に立たれた
チャリティコンサートの日の記録でした。 ご子息と共にピアノ
演奏をされたこの日のコンサートは、カンボジアの子供達に
学校を寄贈するためのチャリティコンサート
で、舞台のそで
には万一に備えて主治医が待機しておられました。

 すでに脳腫瘍のために、先生はピアノの鍵盤が二重にも三重
にも見えるほどの状態であられたにもかかわらず、最後の一音
まで一糸乱れぬ完璧な演奏を為し遂げられました。 最後のコン
サートを無事に演奏し終えられた先生は、その足で入院、そして
緊急手術となりました。



 葬儀の日に、このコンサートの一部始終をうかがい、DVDの
映像を拝見した教え子達は、誰もが感動で言葉を失いました。
演奏家として、最後まで真摯な姿勢を貫かれた先生の生きざま
をお手本にして、そのご遺志を継いで生きていくことこそ、何よ
りの供養になると、みんなで心に誓いあいました。

 帰路の電車の中では、ユーモアにあふれ、茶目っけたっぷり
だった先生の思い出話が後を絶たず、教え子達は、あんなこと
があった、こんなこともあったと、お腹をかかえて笑いころげ、
笑いながらいつしか涙が頬を流れ落ちて、誰もがハンカチに
顔をうずめてしまいました。




 葬儀の翌日、ピアノのレッスンのために我が家にやってきた娘
が、食事中に懐かしい先生の思い出話を聞かせてくれました。



 「ホラーク先生って、すごく上手な生徒にも、それほどでもない
生徒にも、本当に分けへだてなく温かい言葉を忘れない先生だ
ったの。 あれは大学院に進級して何度目かの試験の時だった
かしら…もう死ぬほど猛練習して、それなりに自信を持って演奏
に臨んだのに、ちょっとしたところで失敗した私は、それがどんな
些細なミスであったとしても、自分で自分が許せなくて、舞台を
おりてから号泣しちゃったのよね。 そうしたらホラーク先生が、

 『ゆかさん、どうして泣きますか? 綺麗なところ、いっぱい
いっぱいありました。 よい演奏でした。 泣くこといりません。』

って慰めてくださって・・・先生の片言の日本語が、とっても
懐かしい!



 ポワティエの夏季大学に参加するために、私がフランスに
行くって言った時にも、指導をうける先方の先生について、
細々と教えてくださったり、どんな曲を持っていったらよいか、
どんな準備をして行ったらよいか、親身にアドヴァイスして
くださったし・・・

 そうそう、結婚してから後、まだ子供が生まれないうち
にって、ソロリサイタルを開いたでしょう? あの時も、
演奏するラベルやドビュッシーの曲を、それはそれは
丹念に見ていただいたの・・・



 ふりかえると、感情的になるとか、言葉を荒げるよう
なことが一度もない先生でいらっしゃったわ・・・。」




 思い出を語りながら、時折言葉に詰まって涙ぐんで
いた娘が、やがて真顔になってきっぱりと言いました。




 「夏のゆめ会コンサートには、ホラーク先生に特訓していただ
いたことのある思い出の曲の中から選曲することに決めたの。
先生への追悼をこめて、一生懸命に弾こうと思う。 先生はもう
この世にいらっしゃらないけれど、楽譜を開けば、そこには先生
のご注意が全部書きこんであるんだもの・・・先生の言葉に耳
を傾けて、精一杯真摯に演奏することが、私に出来る一番の
供養よね。



 きっと先生はもっともっとピアノをお弾きになりたかったと思う
し、もっともっと私達に教えてくださりたかったに違いないのに
……どんなに無念でいらっしゃったか、それを思うと胸が苦しく
って……私が今こうして健康に恵まれ、弾こうと思えばいくらで
も弾けることに感謝しなければいけないのよね。



 最後の舞台となったチャリティコンサートでの演奏を聴いて、
“音楽と共に生きる” ってどういうことなのか、よくわかった気
がしたの。 先生は、演奏家として何を目指して生きていこう
となさっていたのか、そして音楽を教えてきた多くの弟子達
に、どんなことを言い残しておきたかったのか、その深い心
を感じることが出来たような気がするの・・・。」




 娘の話を聞いていて、私は深く心をうたれました。 恩師の
死を通して、人生の真髄の一端にふれることになった娘の
言葉は、もう若くない私にも、今一度襟を正して人生を考え
させる力を持っていました。

 神様は私達一人一人の身の丈に応じた何かを必ず授けて
くださっていること、そして人生の限られた時間を生きるあいだ
に、それぞれが必ず何かの “生きた証” をこの地に残していく
ことが出来るように、多くの機会を用意してくださっていること
を、あらためて心に刻みました。

 私達は往々にして、何かを成し遂げることにエネルギー
を傾けるよりも、何かをすることが出来なかった言い訳を
探すことに、一生懸命エネルギーを費やしてしまいますが、
言い訳だけに終わるには、人生はあまりにも魅力にあふれ、
“いつかそのうちに” と悠長なことを言うには、私達に与え
られている人生の時間が短かすぎます。




 「ひさしぶりに会った同級生達は、誰もが母親として一番忙しい
時代を生きていて、演奏が出来ない言い訳を数え始めればきりが
ないの。 結婚して家庭を築いた以上、家族の誰か一人を生かす
ために、他の家族が犠牲になることは許されないことでしょう?

 それでも、家族の協力を得ながら、何とか音楽と共に生きて
いこうねって、あらためて誓いあったのよ。 弾けない言い訳を
探すエネルギーがあるなら、それをすべて弾くエネルギーに
変えていこうって…その決意を先生の霊前で誓い合ったの。」

と、娘は爽やかな笑顔で言い切りました。




 この世に残していく “生きた証” とは、名誉でも、財産でも、
人との競争でもなく、もっと謙虚でもっとつつましく、人生の
一瞬一瞬を、ひたすら誠実に生きる姿勢なのだと思いました。

 ヤン・ホラーク氏の “生きた証” とは、世界的なコンクールで
優勝をなさったことや、多くのレコードやCDを残されたこと、
さまざまな音楽活動を通して、日本の音楽界に築かれたその
不動の地位などとは別に、神様から与えられたその音楽の
天分を、世界の多くの人々に還元していこうとなさった、高邁
な理念にあったことを理解することが出来ました。




 “生きた証” を残すために、神様が私にお与えに
なったものは何だったのでしょうか。 私の身の丈
にあった贈り物とは何だったのでしょうか。



 夫の死から10年、それまで手紙や葉書を書く以外にペン
持つことのなかった私が、唯ひたすら彼の思い出を書き続け
てきたのは、彼が生きた証を書き残してあげたい一心からで
した。 書いても書いても、まだ書き残したことがあるような気
がして、こんなに長い年月、ペンを捨てることが出来なかった
私は、一生懸命に彼の生きた足跡を書き記しながら、実は
そのことが、私自身の生きてきた10年をも書き残している
ことに気づいていませんでした。

 神様が私にくださったもの、それは書くということであったの
かもしれません。 一人の男性の妻であった私、二人の子供
達を育てた母親の私、そして今では4人の可愛い孫達の祖母
である以外に、社会的に何か特別のことを成し遂げたわけで
もない平凡な人生の中で、愛情のすべてを傾けて守り続けて
きた家族のことを書き残すことだけが、ひょっとすると、私の
身の丈にあう “生きた証” になるような気がしています。



 人生とは不思議なご縁の綾が織りなす舞台にも似て、最後
の幕がおりる瞬間まで、そこで何を演じるのか、観客に何を
伝えるのか、人さまざまの “生きた証” は、まさにそれ自身
が芸術なのだと思いました。








最新の画像もっと見る

コメントを投稿