01/05 傷を抱えて生きた巨匠
これまでの 『その他の音楽記事』
珠玉の作品で親しまれている、フリッツ・クライスラー。
名演奏家であると同時に、優れた作曲家でした。 近来で
は、“それを両立させた最後の例” と言われることもある。
奏でる音色は、この上なく甘かったとか。 あいにく録音は
どれも古く、その美しさが充分伝わって来ません。 まことに
残念です。
クライスラーと言えば、次のエピソードが有名ですね。
[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験を受けた
こともあったが、「音楽的に粗野」、「初見演奏が不得手」と
いう理由で落とされている。] [wikipedia] より
これは、23~24歳の頃の話ですが、そのときの審査員
は、一体誰だったのでしょう? 知りたくもなります。
[wikipedia の英語ページ]には、次の記載内容があり
ます。 ただし、信憑性は “今一” ですが。
"He was turned down by the concertmaster Arnold Rosé.
It is easy to understand why upon hearing a recording of
the Rosé Quartet? Rosé was sparing in his use of vibrato,
so Kreisler would not have blended well with the orchestra's
violin section."
「クライスラー受け入れに反対したのは、コンサート-マスター
のアルノルト・ロゼである。 ロゼ四重奏団の録音を聴けば、
なるほど頷けるであろう。 そのヴィブラートは控えめである。
よってクライスラーは、このオーケストラのヴァイオリン-セク
ションにはあまり溶け込めなかったであろう。」 (拙訳)
もっとも彼が団員になっていたら、その生涯は、まったく
違ったものになっていたはずです。 今日親しまれている
幾多の名曲が、果たして生まれたかどうか。
これより早く20歳の年、彼はオーストリア帝国の将校となって
いました。 “ヴァイオリンの神童” としての期待を振り捨てて。
しかし家庭の事情もあったのか、翌年には軍歴を離れます。
再び演奏の世界に生きようと決心した、フリッツ…。
自身の言葉によれば、「引きこもること8週間、私は長足の
進歩を遂げ、機敏な手の動きを取り戻した。」…そうです。
そして再開された演奏活動…。 上記の “落第” は、その
矢先の出来事でした。
オーディションに落ちたクライスラー。 しかし奇妙なのは、
同じヴィーン-フィルのソリストとして登場していることです。
指揮者はハンス・リヒター。 1898年のことですから、この
“落第” と、ほぼ同じ時期に当る。
翌1899年には、アルトゥール・ニキシュ指揮するベルリン-
フィルと共演し、名声はいよいよ高まります。 やがて二度の
大戦を経て、最後は新大陸へ。
ソリストとしても不動の地位を築いたがゆえに、その美しい
作品の数々が、今日まで親しまれることになったのでしょう。
しかし、彼に付き纏っていた “不運” は、一時の落第だけで
はありません。
それは怪我との闘い。 原因は、戦争、そして交通事故です。
肉体のどの部分に、いつ、どんな傷を負ったのか? 詳細
は確かめられませんでした。 しかし晩年の交通事故では、
視力障害や突発的な記憶喪失などの “後遺症” があったと
も書かれている。
功成り、名を遂げた後は、窮する若手演奏家に、様々な形
で愛の手を差し伸べたと言われます。 一例は、その名器の
コレクション (ドイツ語ページ) 。 それを惜し気も無く貸し与え、
時には寄贈したそうです。
彼が最後に聴衆の前に姿を現わしたのは、72歳となった
1947年、カーネギー-ホールでの演奏会です。 1950年には
完全に引退してしまいました。
1955年、80歳の誕生日を迎える頃には、ほぼ盲目となって
おり、聴覚もほとんど失っていたようです。 そして、あと数日
で87歳を迎えようという1962年の1月、ニュー-ヨークで亡くな
りました。
しかし、「交通事故に遭い、死去した」…という[wikipedia
日本語版]の記述は、定かではありません。
別の資料を総合すると、「老衰によって心不全が悪化し、
入院後、数日して亡くなった。」…ことになります。
[演奏例の音源]は、『愛の悲しみ』で、ピアノは H.さん。
ある祝宴の席で演奏したものです。
音量が小さいのは、低質の録音機器や、その位置のせい
だけではありません。 終始、弱い音で弾こうと努めたから。
小さめの音量のままお聴きいただければ幸いです。
その場で、急に “大きくした” 箇所もありましたが。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます