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MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

考えすぎの私

2013-10-06 00:00:00 | その他の音楽記事

10/06          考えすぎの私



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 結婚式、披露宴…と言えば音楽が付き物ですね。

 中には録音ものではなく、音楽仲間が楽器を持ち
寄って祝う、微笑ましい光景も珍しくありません。



 私も先日、披露宴で楽器を弾くよう頼まれました。 目下
曲目を選定している最中です。  (何がいいかな…。)

 カップルから具体的に指定された曲目もあります。



 でも、今頭を悩ませているのは、“新郎新婦入場” の際
の音楽なのです。

 一般的なのは、結婚行進曲ですね。 メンデルスゾーン、
ヴァーグナ…。




 華やかなのは、何といっても前者でしょう。

 パカパ パーン、パカパ パーン! 原曲は、
トランペットのファンファーレです。



 でも、ふと頭をよぎるのが、この一言…。



 “That is an evil marriage.”

 「この “結婚” はね、道徳的によろしくないんだよ。」



 これ、指揮者のペーター・マークさんのコメント。 生前
来日された際、オケのリハーサル中、口にしたものです。

 「『夏の夜の夢』の中の “結婚” は、むしろ乱交のような
ものだから、自分としては、神聖なイメージは持てないよ。」



 音楽は、あれほど颯爽としており、清潔この上ないのにね。

 これじゃ何も選曲できないじゃん…。 そこまで考えちゃうと。




 その意味では、後者のほうがいいのでしょうか。

 名作ローエングリン中の、“婚礼の合唱” です。




   Treulich geführt ziehet dahin,

   wo euch der Segen der Liebe bewahr’!



   誠実に 歩み行け

   愛の恵みぞ 満てる場へ  (拙訳)




 こちらは華やかというより、歩みが落ち着いている。
歌詞も荘重で、結婚式には相応しいでしょう。



 ところがこれも、問題が無いとは言えない。 寺院
へ赴く新婦エルザの心中は、不安に苛まれている
からです。

 事実、終幕では、大変な悲劇が訪れてしまう…。




 この作品は、貴方もよくご存じでしょう。 台本の制作は、
作曲家自身です。

 ただし内容は、ヴァーグナの完全なオリジナルではない。
ただし、伝説そのままの形でもありません。 例によって、
何種類かの説話を基に創作されました。



 白鳥の騎士の説話は、周辺のドイツ、フランスには、
何種類も伝説として広まっており、シェルデ河、ライン
河の間の地域が、発祥地なのだそうです。

 作品の舞台は、シェルデ河畔のアントワープです。
ローエングリンは、白鳥の引く小舟で河を下って来る。
以下の説話にあるとおりの場所です。




 劇の詳細は、上記の解説ページに委ねます。



 ここでは、説話のうちもっとも代表的なもの、『パルツィファル』
(Parzifal) 中に記された概要を、『リヒャルト・ワーグナーの芸術』
新版 (渡辺 護 著、1987年、音楽之友社) から転載させていただき
ました。 説話、伝説についての記載部分も同様です。

 原著は中世の詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ
(1170-1220) によるものです。




 ブラバント国の公女は才徳兼備の美人であったが、神から
つかわされる男とでなければ結婚しないとちかった。 ブラバ
ントの貴族たちは、早く国王を選べと公女に迫った。

 聖杯の守られている城ムンサルヴェッシュMunsalvaesche
にいた騎士ロへラングリン Loherangrin は、父パルツィファル
の命により、敬虔なる公女を救うために、白鳥の引く小舟に
乗って河を下り、アントワープに到着した。 公女は彼を心から
喜んで迎えたが、結婚をするにあたってこの騎士は、決して彼
の素姓を問いただしてはならないとちかわせたのである。

 二人は長い年月を幸福に暮らし、多くの子をもうけたが、
公女はついに夫の名と素性とをたずねてしまった。 すると
かの白鳥が、騎士を連れ去るべくふたたび現われ、騎士
ロへラングリン は、形見として剣と角笛と指輪を公女に残し、
ふたたび聖杯に仕えるためにブラバント国を去って行った。




 さて、『ローエングリン』の構想が纏まったのは1846年。
スコアの完成は1848年とされています。

 作曲家自身は、すでに結婚していました。



 ヴァーグナは生涯に、結婚式を二度挙げました。

 最初は1836年11月24日。 23歳の年で、相手は、
かつての女優で年上のミンナです。 『タンホイザー』、
『ローエングリン』は、共に暮らしていた時の作品です。



 しかしこの結婚生活は、幸せとは言えなかった。 誰が見ても。

 法的な “結婚状態” は、一応1866年まで続きます。



 持病の心臓疾患や、心労などが重なり、別居中に
ドレスデンで、ミンナがこの世を去るまで。





       “Wedding March” 音源サイト

     MENDELSSOHN   WAGNER



このクソ餓鬼め!

2013-06-10 00:00:00 | その他の音楽記事

06/10        このクソ餓鬼め!


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 「ウクライナにおいては相手を罵倒する表現として “チェルノ
ボクに殺されてしまえ” というものが残っている。」

 これは、ある解説サイトの記述ですが、怖いですね。


 チェルノボークは悪魔の一つで、直訳は “黒い神”。 ムーソ
ルクスキィの『禿げ山の一夜』にも登場するので、きっとご存じ
のことでしょう。

 ロシア語の “チョ―ルヌィ” (黒い) は、語源的には、“チェルノ
ブィリ” (にがよもぎ) とも関連があるのだそうです。



 以上の一部は[『頭の体操 (129) 漢字クイズ 問題/解答』
(18) チェルノボーク] にも記した内容です。

 そこには、こうも書きました。


 「やかましい餓鬼だ。 魔女にでもさらわれてしまえ!」
…と口走ると、本当に魔女が現われる…という言い伝え
が、スラヴの民話では、あちこちに見られます。


 ドヴォジャークに、Polednice” (ポレドニチェ) という交響詩が

あります。 通常は『真昼の魔女』と訳される作品です。

 原詩はカレル・ヤロミール・エルベンによるもの。 この詩人
は、ほかにも幾つか、ドヴォルジャークの作品にインスピレー
ションを与えています。


 さて、上記の曲目解説ページには、こう書かれています…。

 魔女が自分の悪口を言った母親に復讐するために子供を殺す。


 しかし詩の内容を追ってみると、「母親が悪口を叩くのは、自身
の子に対して」…です。 そうなると、ちょっと違ってきますね。


              音源ページ


 以下は、遊び半分に訳したもので、忠実な逐語訳では
ありません。 ほんの参考程度にお考えください。

 チェコ語の知識はほとんど無いので、内容も、いい加減
で不正確。 詳しいかたは、ぜひご教示ください。



 音楽は、大きく分けてⅠ~Ⅳまでの4部から成っています。



         [


   幼子 (おさなご) 椅子に 立ちおりて、

   喚き 騒ぐよ ギャーギャーと。

   「少しは 静かに 出来ないの?

   シラミのくせに うるさいわ!」


   「そろそろ お昼になる頃ね、

   父さん 戻るわ 仕事から。

   母さんが 食事を 作るのも

   うるさい あんたの ためなのよ!」


   「玩具 (おもちゃ) の 騎兵で 遊んでな!

   コケコッコーの 笛よ、 ほれ!」

   笛や 兵隊 手に取ると

   叩いて 投げ出す 童 (わらべ) かな。


   またも 始まる 喧騒に

   「お前 みたいな クソ坊主、

   刺されて しまえ 蜂にでも!

   それとも 魔女に しようかな!」


   「こんな クソ餓鬼 要らないわ!

   真昼の魔女さん、持ってお行き!」



         [


   すると 二人の部屋の 戸が

   そーっと 開 (ひら) く 誰だろう。


   茶色で 小柄な その姿

   頭巾 被って 顔は 粗野、

   杖を 片手に 脚 曲がり、

   大風のごとき しゃがれ声!


   「その子 貰うよ!」 「ああ、赦して、

   我が主に 背く 深き罪!」

   これほど 驚く事は 無い、

   真昼の魔女が いるなんて!


   魔女は 食卓 眺めると

   影のごとくに 忍び寄る。

   母は 恐怖で 息 止まり、

   膝に 我が子を 載せたまま。


   振り向くよ 母 おずおずと

   ああ 幼 (いた) けなき 子ぞ 憐れ!

   魔女は 母子 (ははこ) の 後を 追い、

   もう すぐそこまで やって来た。



         [


   今や その手に 力 込め

   母は 我が子を 掻き抱く。

   「キリスト様の 苦しみ!」と、

   気を 失って くず折れる。


   一つ、二つと 鳴り出すは

   教会の 鐘 正午 (ひる) 告げる。



         [


   取っ手が 鳴って 戸が 軋 (きし) み

   大きく 開 (あ) くと そこに 父。


   我が子を 胸に 押し当てて、

   倒れた 母は 意識 無し。

   必死に 介抱 尽くしたが、

   還らぬ 童 息 出来ず。


 “poledne” (ポレドニェー) は、直訳すると “一日の極”。
太陽がもっとも高く昇った、“highnoon” のことです。

 “Polednice” は、“真昼間の女性” の意味になりますね。

 魔女に限らず。



 世のお母様がた。

 お子さんのことを、「このクソ餓鬼め!」
…なんて言っちゃ、駄目ですよ?


 少なくとも、真昼間にはね。

 “奥様は魔女”…になっちゃう…。



内側から聞える

2012-12-30 00:00:00 | その他の音楽記事

12/30         内側から聞える



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 「1969、70年頃でしたか…。 学園紛争の嵐が吹きまくり、
我々の高校にも影響があった。 生徒がね、色々な要求
を待ち出してきて、教職員も頭を痛めていたんですよ。」



 告別式後、会席の場での挨拶。 石井先生の大泉高校
での同僚、O先生のお話が続きます。



 「それで石井先生と私が、教頭に呼ばれたんですね。
そういう生徒たちに対応せよ…ということで。」

 いわゆる “団交” の場でしょうか。



 「その時の石井先生の対応が、実に見事だった。 私
なんかは、“何を身勝手な事を言ってるんだ”…と思った
だけなのに、彼は真摯に…。 あれは忘れられません。」




 その頃の石井先生…。 計算してみると、30代前半になります。
なるほど、生徒と年齢の近い、二人の “若手教師” に与えられた
大任です。

 教師は、授業や受験指導だけやっていれば済むわけではない。
思春期の多感な生徒たちと接し、深刻な悩み、生活の赤裸々な
現実と立ち向かわねばなりません。

 そんな環境に30年以上身を置き、接した生徒数は、大変な数
に上るでしょう。 最初にお世話になった私たち18期だけを見て
も、50人以上 × 10クラス…という、恐ろしい人数がいました。




 しかし後年、私が卒業後にご一緒した折には、そんな大変さ
や悩みなど、先生はおくびにも出しませんでした。 ましてや、
「だいぶ齢をとって、疲れて来たようだな」…と感じさせたこと
など、先生の現役中、一度もないのです。



 懐かしい…。 共に味わった、南千住の鰻料理、隅田川の
屋形船、羽田の蛸料理…。 同じ一年四組以来の友人、A
君の計画に従い、3人で足を運びました。 また私の結婚式
では、貴重な記録写真を何枚も撮ってくださいました。

 私自身は、むしろ卒業後に、先生には色々心配をかけました。
いや、今だに心配をかけ続けている…というべきでしょう。

 そんな中で、先生は旅立たれました…。



 「見守っていてください。」 …悲しい別れのとき、誰しも胸に
抱く実感ですが、今ほどこれを強く感じたことはありません。

 頻繁にお目にかかれなくなってからも、折に触れて強く意識
したものです。 「こんなとき先生なら、一体何と助言してくれ
るだろうか?」



 教師は、生徒と絶えず一緒にいるわけではない。 むしろ
“一緒にいないとき” に、生徒が何を考え、どう行動しながら、
自身で打開していくか?

 それを教える存在が、教師なのでしょう。




 小さい存在や、弱い者を愛しむ。 情熱を剥き出しに
表現するばかりでなく、冷静沈着に、時間をかけ、緻密
に対処する。

 …先生のご性格の一端ですが、これ、先生のお好き
な作曲家、ラヴェルにも通ずるものがあります。



 かのストラヴィンスキィは、“スイスの時計職人” と呼びつつ、
ラヴェルの精巧な筆致を称えました。 あの “ツィガ―ヌ” で
さえ、“精妙に演出された狂気” と言えるのです。

 ラヴェルの代表的な写真…。 あの右を向き、こちらを見て
いる写真ですが、私には石井先生にそっくりに見えてしまうの
です。



 晩年は、深刻な記憶障害に悩んだラヴェル…。 天職
の作曲も出来ず、また生活にも支障をきたしました。

 そんな点まで、石井先生が “似てしまった” わけでは
ないのでしょうが、返す返すも残念でなりません…。




 ラヴェルは、同時代、近時代の社会情勢と関連するような
事件や戯曲は、作曲の題材として選ばなかった。 遠い古代
ギリシャや、お伽噺、夢や空想の世界が多い。 その作曲の
姿勢は、“現実から逃避していた” とさえ言えます。

 この点、石井先生とは大違いです。 先生は、学問の世界
に閉じこもるのでなく、卒業生を含む多くの人間と、分け隔て
なく接し、歩き回った。 そして教え子たちの悩み事に耳を
傾け、場合によっては、実の父親以上に恩恵を被った生徒
さえいた…。



 でも人間である以上、先生も疲れたり、悩んだりすること
だって、きっとあったでしょう。

 ラヴェルの音楽は、そんな先生の心の奥深くに入り込み、
内側から、その美しさと優しさで癒してくれる存在だったの
かもしれません。




 先生と一緒の、最後のクラス会に先立って、私はCDを
一枚作り、お迎えに来られた奥様にお持ちいただきまし
た。 拙い自分の演奏を録音したもので、今回の4曲が
含まれています。

 先生がそれを聞いてくださったかどうか、わかりません。
たとえ聞いてもらえたにせよ、耳の肥えた先生のことです
から、「相変わらずだね」…と、一笑に付されたはずです。



 “もっとマシな音での実演” を聞いていただく望みは、
ついに叶いませんでした。 それが私のもっとも大きな
後悔です。




 それでも私には聞えるのです。

 「まあ、いつか出来るように頑張りなさい。」

 右を向いて軽く微笑み、私を見やる先生の声が!

 「物事には時間がかかるよ。」

 先生、ごめんなさい…。




 認知症ということで、ご自分の履いてこられた靴が
どれなのかも、思い出せなかった先生…。

 その直後、私は思い切って訊いてみました。

 先生! ぼく、ヴァイオリン弾くの、覚えてますか?



 「そりゃあ、覚えているよ!」

 先生は答えてくれました。 一笑に付しつつ。



 それが、先生との最後の会話になりました。




 先生の教えに初めて接してから、50年近くが経ち、
先生は旅立たれました。 かけがえの無い存在を
失った、教え子の私たち…。



 そんな折、同じクラスのKさんが、素晴らしい言葉を
みんなにメールで贈ってくれました。



 「人々が行き来し、時が流れ…でもそれは、積み重なる、
のだとも言うようです。 学び舎と恩師と友に恵まれたこと
を、しみじみと感じる、今年のフィナーレです…。」

 「みなさまにとって穏やかな年越しとなりますよう、そして
また元気にお目にかかれますことを心から祈ります。」






 石井秀先生とご一緒できた最後のクラス会。 これから乾杯です。 (A君提供)




 音源は、ラヴェルの 『ハバネラの形をした小品』。
通常は『ハバネラ形式の小品』と訳されています。

 (最初の音が大き過ぎるので、ご注意ください。)

 ピアノ K.Y.さん、ヴァイオリンは私です (2005/11/24)。


 



 最後までお読みいただき、ありがとうございました。


 ここでお伺いですが、貴方は石井先生の教え子など、
関係者のかたでしょうか? また、先生に関する貴重な
画像をお持ちではないでしょうか? もしご賛同くださる
ようでしたら、お手持ちの画像を公開していただけると
幸いです。

 その際は、下のコメント欄を通じてお知らせください。

 あるいは下記のURLへ直接メールしていただければ、
写真は私の手元に届きます。
     u1061127-46d6f@photozou.jp


 よろしくお願いいたします。


 関連アルバム 石井先生』(閲覧用) 『石井先生ご葬儀の場



情熱の表現

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 で、ラヴェルの曲は何がお好きですか? ボレロ?

 「あれはいいねぇ。 曲の持ってる色々な側面が
味わえるから。」



 やっぱり管弦楽曲ですか。

 「だって色彩的じゃない?」



 ラ・ヴァルスなんかは?

 「あれは極致だよ。 ピアノ版もいいけど、
オーケストラ版には敵わないね。」



 やっぱり洒落た曲がいいんですね?

 「いや、“ツィガーヌ” みたいなのも好きだよ。
気違いじみてるところがいい。」




 告別式の後の、会席の場。 そこで、同じ
一年四組だったA君と、隣りになりました。

 「あの時は嬉しかったな。」…と、A君。



 二年になるとクラス変え。 A君と私は、別のクラスに別れ
ました。 二人とも石井先生のクラスではなくなりましたが、
間もなく、彼は転校することに…。

 そこで、送別会が開かれました。 旧一年四組の人間が
集まって。



 それを計画してくれたのが、石井先生だったのです。

 もう担任でもないのに。 先生は、そういうかたでした。




 先生は、誰にも等しく愛情を注いでくれました。

 それは、先生が最初の3年間に担任を務めた、1の4、
2の7、3の6、どのクラスにおいても、きっと同じだった
ことでしょう。 もちろん、その後も。

 でも…。



 入学したての新入生。 それが一年後、二年後になると、
受験が重くのしかかって来ますね。 生徒の意識や立場も
微妙に変わっていきます。



 私たち “1の4” は、“ついていた” のかもしれません。

 また、“最初が肝心” だったからかも…。




 まだオリエンテーション気分の五月のこと、全校の体育祭
がありました。 そこで学年優勝してしまった
のです。




 続く六月のヴァレボール大会にも優勝です。 男女とも!
一学年の人数は500人以上で、クラスの数は10ありました。




 秋になると十月には、沿線近くの湖までピクニック。





 翌月の文化の日には、室内でゲーム大会。 クラスの
ほぼ全員が参加しました。



 新入生たちと、若い新任教師。 いずれも “暇を持て
余していた” のさ…! そう言い切るのは簡単です。




 でも、同じ立場の教師なら、他の誰でも応じてくれる
だろうか? いや、ひょっとすると、“言いだしっぺ” は
先生だったのかもしれないのです。

 今となっては、我々の記憶もあやふやですが…。



 …いずれにせよ、これで私たち “1の4” が纏まったのは
事実です。

 先生は、まるで空気のように見えず、触媒のような存在…。

 そして、誰言うとなく “でこクラス”!



 “でこ” って? ご想像に任せます。




 先生は、そんな強い情熱を秘めながらも、語り口はソフトで
ゆっくり。 一対一でも、こちらが気押されることなど、決して
ありません。

 「こんな事、口にしたら、何か手痛く説教されないかな…。」

 そんな危惧は、まったく不要でした。



 私などは、要らん事まで、ベラベラ喋ってしまいそうでした。
それを黙って聴いているか、言葉が返って来れば、それは
いつも配慮に満ちた、有益な助言。

 その意味でも、先生の姿勢は “対等” でした。 “上から
目線” でなく。




 これが一たび積極的になると、途端に速口に。 声
が時々ひっくり返るほど、甲高くなる。

 授業でも同じでした。 教壇上を、忙しく左右に歩き
回る。 ある時は、茶色の皮のジャンパーを着て。

 そして誕生した、別のニックネームが、“ウォーキング
・ベア”。 歩く熊さんです!




 ところが、これを一旦興奮させてしまうと、エライことに
なります…。

 卒業後、私がヨーロッパ旅行をした際の話を聞いて
いただいたときの話。

 『フランクフルトに行って来ました。 “アム・マイン”
のほうです!』



 私は、かつて地理の授業で先生が使った語句を、
そのまま踏襲しました。 もちろん、喜んでもらえる
…と思ったから。



 でも先生の反応は、まったく正反対!

 「何だって…!? 当たり前じゃないか! じゃあ、もう一つは、
どこのフランクフルトだね! 一体、何を聞いてたんだい?
あそこは、数学さえ出来れば合格できる…っていうけど、
やっぱりね~…。」



 若干解説しましょう…。 私が訪れたのは、当時の西ドイツ、
マイン川沿いの都市です。 東ドイツの “アン・デァ・オーデル”
には、簡単に行けるわけがないのです。



 そこまで明確に答弁できれば、逆に褒められたかもしれない
のに…。 この時ばかりは、しどろもどろ。

 先生から受けた、最大の詰問、非難でした。






           28歳頃の石井先生 (中央)

(二年七組担任当時の修学旅行の際。 旧一年四組 O君提供)。




 音源は、ラヴェルの “ツィガーヌ” からです。

 (最初の音が大き過ぎるので、ご注意ください。)

 ピアノ K.Y.さん、ヴァイオリンは私です (2005/11/24)。



今にわかるよ

2012-12-28 00:00:00 | その他の音楽記事

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 「何、見てるの?」

 あ、先生。 ブラームスのヴァイオリン協奏曲です。



 「そんな小さいの見て弾くのかい?」

 いや、これは勉強用のポケット・スコアです。

 「はー…。」




 先生はブラームス、お好きですか?

 「あんまり暑苦しい曲は駄目だけどね。
ヴァイオリンだったら、まだいいかな。」



 じゃ、ベートーヴェンは? ピアノ協奏曲だと、
『皇帝』あたりですか?

 「あれは甘ったるすぎるよ。 4番のほうが、
まだいいね。」




 へえー…。 じゃあ、作曲家は誰がお好きなんですか?

 「そりゃあ、ラヴェルだね。」



 …ふーん。 洒落てるんだなぁ…。

 「今にわかるよ。」




 このやり取り、私が高校2年夏のときだったでしょうか。

 それを心の中で繰り返しながら、私は開いたメールを
何度も読み返していました。




           “残念なお知らせ”



 旧1年4組の皆様へ

 石井先生がお亡くなりになりました。

 昨年のクラス会ではにこやかに笑っていらっしゃいましたのに
とても残念です。 心よりご冥福をお祈りいたします。

 葬儀・告別式の日程は以下の通りです。

 皆様も時節柄どうぞご健康にはお気をお配り下さいます様。
これにて失礼いたします。




 石井秀(しゅう) 先生は、都立大泉高校、同武蔵高校で、
長年教員として尽力されました。 新任で着任し、担任と
なったクラスが、私たち一年四組でした。

 教えた科目は地理。 二年目からは、世界史も担当され、
その意欲的な姿勢には、誰もが驚きました。



 また写真、録音などの技術に明るく、放送部の顧問としても
尽力されました。

 急遽駆けつけた、かつての生徒の中には、その関係者も一人
いました。 担任として世話になったわけではないのですが。




        ご葬儀の場の写真アルバム




 葬儀に訪れた弔問客は、二日間で300人近くに及びました。
現役を退いた教師としては、かなりの数です。











 貴重な休暇の時期も、先生は休みません。 中近東、アフリカ、
旧ソ連…。 「趣味と実益を兼ね」、地球狭しと歩き回りました。

 遺影の前には、足で書かれたご著書の数々と、彗星の写真…。




 献花の際、直接お顔を見ることが出来ました。 この写真の
とおりの柔和な表情、そして正装…。

 棺内には、ご愛用のピクニック帽子だけが一緒に納められて
いました。 茶色の。



 手にした美しい花の幾つか…。 私は先生の左耳の辺りに、
一つずつ、そっと置きました。

 これがお別れかと思うと、さすがに、それまでこらえてきた
涙が、一気にこぼれ落ちてしまいました。



 棺が閉じられる前、奥様が優しくお顔に触れておられました。




 ご遺族からは、「この三年ほど、アルツハイマー型認知症
を患っていた。 介護中も、逆ににこやかに応対してくれた。
本人が一番無念だったでしょう…。」との説明がありました。

 懸念されていた “誤嚥性肺炎” に祟られ、十月末からの
入院治療にもかかわらず、回復されませんでした。




 音源は、ラヴェルの『フォレの名による子守唄』です。

 (最初の音が大き過ぎるので、ご注意ください。)

 ピアノ K.Y.さん、ヴァイオリンは私です (2005/11/24)。