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MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

甘えるのは下手

2013-03-04 00:00:00 | 生活・法律

03/04         甘えるのは下手




           これまでの『生活・法律



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                    母を送る
                   第三の家庭
                   相思相愛の友
                  甘えるのは下手
                   甘かった私




 私の手元には、古い本があります。

  ・ 俳句歳時記 春の部 (角川文庫)
  ・ 俳句歳時記 夏の部 (角川文庫)
  ・ 新改訂版 俳諧歳時記 春 (新潮文庫)
  ・ 新改訂版 俳諧歳時記 夏 (新潮文庫)




 上井草園の職員さんたちが、最後まで、母のすぐ
身辺に置いてくれたものです。 どれも、すでに茶色
く変色しかかっていますが。



 「これだけは一緒に持ってきてほしい。」

 母がそう私に命じたもので、独居生活を終え、園に
入所する際の指示です。

 「ほかは全部要らないけど、この四冊だけは…。」



 そのほか、荷物を整理してみると、写真アルバム
が何十冊も! 中から数冊だけを選び、併せて園に
置かせていただきました。

 古い白黒の写真ばかりで、母の少女時代。 その
何枚かは、この場でもアップしたものです。



 では、その大切な本やアルバムを、本人は園で何回ぐらい
開いたろう?

 私は、おそらく一度も見ていないと思います。 右眼の視力は
無く、また手足など、右半身が特に不自由になっていたから。



 「あれを持ってきて、自分に見せてくれ、読んでくれ。」…と、
職員さんに頼もうと思えば、出来たかもしれませんが。

 (別に、遠慮したわけではないだろう。 今この状況を生きる
のに、「本や過去の写真を見ても意味が無い。」 …そう考えた
に違いない。) 私の想像ですが。



 考えようによっては、“意地っ張り”。

 母にはそんな面がありました。




 しかし一つだけ、本人が職員さんに懇願したこと
があります。

 それは、「俳句を詠みたいから、書き留めてくれ」
…というものでした。



 母は、ある句会に所属していました。 月一度の例会に出席
し、事前に投句しておいて、メンバー同士が鑑賞し合うものです。

 あるとき、「FAX の機械が欲しい」…と私に言ってきました。

 「何句かを、お世話係に送る必要があるから」…という事情
だったのです。




 以下は、独居時代の最後の時期に詠んだ句で、身体
が不自由な本人に代わって、私が FAX したものです。

 中には、専門家による選句・短評が、後から付け加え
られたものも。



         2008年2月



   張替えし 障子明るく 春書院



   春の雪 生毛擁して 山の在り



   建ち掛けの 木肌の白さ 春の冷え



   雪国は 春の雪とは 言ひ難し



   椿咲き 川を彩る ために落つ

 咲いて人を喜ばせていた椿が落ちてなほ
川を彩るといふ俳人の目を感じます。




 しかしこの後は、家の中で転倒を繰り返すことになります。
室内の段差を解消したり、壁などに手すりを付けてもらって
も、効果はありませんでした。

 ケアマネジャーさんからたびたび連絡を受け、何度も私
が急行せざるを得なくなりました。 入院、転院を繰り返し、
やがて投句も、句会への参加も不可能になります。




 園に入所してからは、私の顔を見ると、何度か頼んで
きたものでした。 いわゆる “口述筆記” で、それを私が
FAX するのです。

 都心で開かれた句会の例会に、車で連れて行ったこと
も、一度だけありました。 車椅子を園からお借りして。



 しかし、この口述筆記が、だんだん難しくなっていった…。
本人の発音が不明瞭な上、日常生活では使わない語も、
俳句ではあるから。

 不規則な字余りも、私にとっては悩みの種でした。 また
漢字にするか、かなで書くか…という問題もあったし…。



 やがて、私が足繁く通わなくなったので、私には見切り
を付けます。 投句を諦めたのでした。

 でも、ちゃんと言っておいたのに…。 「句が浮かんだら
さ、職員さんに頼んで、電話してもらうんだよ? いつでも
聞き取りに来るからね。」



 この件で電話がかかってきたことは、結局一度もありま
せんでした。 「息子は忙しいから」…と、変に気を遣った
のかもしれない。 でも、却ってやりにくいんですよね…。

 (そんなに大事なことなら、うまく人を動かせばいいのに。
まったく、甘えるのが下手なんだから…。)




 その点、父親のほうが扱いやすかった。 別の施設で、
医療老人ホームに20年間お世話になっていましたが、
頻繁に電話してきた。

 「今度いつ来てくれるの?」



 行ってみると、壁のカレンダーの数字が赤丸で囲まれ、
私の名前も大きく書いてある。 楽しみにしていてくれた
のが解ります。 これでは行かないわけにはいかない。

 こちらは2009年夏に他界しています。




 さて、困った母は、「詠んだ句を、せめて書き留めておいて
ほしい」…と、職員さんに頼むことになります。

 それにしても、大変な労力が要りますよね? 聞き取りに
は、おそらく膨大な時間がかかったことでしょう。



SN3R0396



 しかし職員さんたちは、母が詠んだ句を、ちゃんと残して
おいてくれました。 それも綺麗に書き留め、壁に貼って。

 目の不自由な母も、自分の句が壁にかかっていることは、
ちゃんと解ったでしょう。 台紙の色が鮮やかなので。




 以下は、そこに掲げられた、最後の7つの句です。

 なにぶん素人が詠んだ句ですので、お見苦しい
とは思いますが、どうかご容赦ください。




   おお渡り鳥 鎮守の森に 宿かさん

       2009年12月26日



   見上げたる 駅の屋根より 初烏

       2010年1月28日



   めずらしや 海いつりばし 波しぶき

       2010年3月17日



   ブランコブラブラ蓮池や

          花吹く風の かんばしや

       2010年4月



   梅雨空が 通りすぎれば 夏の空

       2010年6月30日



   夕色の水 底まで見えて 我が同じ

       2010年8月23日



   秋る戸を 石神井池は ともにすみる

       2010年11月




 俳句の素養が無い私には、専門的なことは解りません。
でもそれなりに、母が最後に辿り着いた心境が、少しは
理解できるような気がします。

 独居時代の句が 「“足し算” で構築されている」とすれば、
こちらは自然の事象に自らを委ねつつ、思いを率直に吐露
しているように感じられるのです。



 “全介助” の状態になり、24時間、職員さんの手に自身を
委ねるしかなくなった。 他人や、息子の私にまで、面倒を
かけるのを嫌っていた、あの “強い” 母が。

 自分が “弱い” 存在であることを認識して初めて、人間
は変わる。 …そんなことも、きっとあったでしょう。



 職員さんたちの熱意に対して、少しは感謝の念を覚えて
いてくれたらいいのですが…。




 歩けない、手も不自由、右眼は見えない、舌も回らず喋れ
ない…。 そんな中で、耳と頭脳だけは健在だったようです。



 「こちらの言うことは解っておられるようです。」 職員さん
たちもおっしゃっていました。

 最期は、私の語りかけに対しても、下顎を動かして応えて
くれました…。




 「はばかりながら、教師の娘だい。」

 あるとき、職員さんたちに口走ったセリフ
だそうです。 まだ喋れた頃に。

 バカ…。



 父親は小学校の校長。 二人の兄は、経済学者と
ドキュメンタリー映画監督。

 自分を育ててくれた三人の “男性” に対して、きっと
最後まで、熱い思いを抱いていたことでしょう。



 (そのプライドが、他人 (ひと) を傷つけることもあった
けどね。 表現意欲だけは、大したものだよ。)



SN3R0397




 上井草園の職員さんがた。 ケアマネジャーさん。

 その他、様々な場面で本人に愛を注いでくださった
皆さま、本当にありがとうございました。



相思相愛の友

2013-03-03 00:00:00 | 生活・法律

03/03          相思相愛の友




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                  甘えるのは下手
                   甘かった私




 上井草園にお世話になり始めたとき、母は88歳に
なっていました。



 私が行くと、利き腕でない左手で握り返してきました。
驚くほど強い力で。 脳梗塞で、右手が不自由だった
からです。

 発する言葉も、なんとか聴き取ることが出来ました。

 当初はリハビリにも意欲的。 独力で再び歩行する
のが夢だったかったからです。 しかしリハビリの運動
自体が、徐々に負担になっていきました。




 88歳、入所して最初の夏のこと。 園が毎年開催
する、納涼祭がありました。

 “縁日” を思い浮かべていただければいいでしょう。
屋台があり、あちこちに懐かしい食べ物が。



 【最初は屋台に興味示さなかったが、「綿アメ欲しい」
との言葉を皮切りに、ほとんどの食べ物に手を出す。】

 当日の日記には、こうあります。



 本人が飲食を許されていた中に、ビールがありました。

 ビール、飲んでみる? と尋ねると、「飲みたい!」と
言うのです。



 これは屋内で販売していました。 車椅子を押し、
廊下を通り、ビール売り場へ。 券を渡し、紙コップ
へ、缶の “キリン” を注いでもらいます。

 両手でそれを大事そうに持つと、母はゆっくり
飲み始めました。



 (大丈夫かな? 酔っ払って、カップを落としでもしないかな?)

 私は、いつでも緊急事態に対処できる姿勢を取りながら、一心
に飲み続ける母を見守りました。



 「おいしい!」 ゆっくりとした口調ながら、飲み終わると、
はっきりした声で言いました。 見るとカップには、ほとんど
残っていません。

 決して “酒飲み” ではありませんでしたが、嗜む程度
にビールは好物です。 ひょっとするとこのときが、本人
にとって、最後の機会だったかもしれません。




 91歳を過ぎると、身体は急激に衰えていきました。

 私が訪れても、手を握り返してこなくなり、言葉も
ほとんど発しません。

 そのうちに、顔を背けるようになりました。 意図
的かどうか解りませんが。



 最後の一、二年は、いつ行っても入眠中。 声をかけて
起こしていいものかどうか、いつも迷いました。




 もはや対話は不可能…。 思い付いたのが、猫ちゃんの
カレンダーでした。 壁などに貼り、心を和ませてもらおう…
というわけです。

 右眼がほとんど見えず、始終ベッドで眠っているので、
眺めるのも簡単ではなかったようですが。 猫は、母が
生涯愛した動物でした。



   SN3R0399




 古い写真アルバムの最初のページには、猫チャンを抱いて
いる写真があります。 計算すると、小学校四年生のとき。







 いちいち丁寧にコメントを書き加えるのが、この頃から
の習慣。 辛うじて判読すると、「市ヶ谷にて みいちゃん
を抱っこした?の日 11才」とあります。

 出生地は、“四谷区本村町五” という記録があるので、
おそらく自宅で飼っていたのでしょう。





 私が生まれてからは、父が犬のシェパードを連れてきたり、
母が文鳥を飼ったりしたことがあります。

 母が再び猫を飼い始めたのは、私が高校生になってから。
ちょうど東京オリンピックの年です。







 母の “ネコ好き” は、妹にもうつりました。 もちろん私も
好きですが。

 これらの写真は、すべて私が撮ったものです。 中学の
入学祝いに、母が買ってくれたカメラで。



 妹の暁子は55歳になる直前、2009年に先立っています。

 今頃は二人で、猫の取り合いでもしていることでしょう。





 さて、この子は “とら猫” の雄で、名前はチャコ。







 お茶目で、とてもユーモラスなネコでした。





 小柄で華奢だったチャコちゃんも、やがて貫録が
付いてきます。 それと共に、だんだん私の相手を
してくれなくなりました。

 「お前は外出してばかりだな!? 遊んでほしけりゃ、
もっと家に居付いてみろよ。」 …そう言っているか
のようでした。







 コタツに入り、チャコを抱く46歳の母。 そのときの表情が、
“二人” とも一番幸せそうでした。

 ちょうど私が大学受験を控えていた、寒い二月の夜のこと
で、テーブルにある本は、おそ松くんです。



 チャコは6歳ほどで旅立ちました。 家に “居付かなかった”
私も、このときばかりは涙を流しました。

 以後、母は何度かネコを飼いましたが、茶色いトラねこが
どうも好みだったようです。。




 晩年は、ベッドで眠ることが多く、無反応になった母…。

 (本物のネコちゃんを抱かせたら、どうなるだろう?)

 まさか本当に実行は出来ませんでしたが、真剣に
悩んだものです。



第三の家庭

2013-03-02 00:00:00 | 生活・法律

03/02          第三の家庭




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                   甘かった私




 「自分の取り柄 (とりえ) は健康。 子供たちには、絶対に
心配や苦労をかけないからね。」

 20年余に亘る独居生活を始めた頃の、母の口癖でした。



 しかし人間、寄る年波には勝てません。 70歳、80歳…。



 ふとしたきっかけで、脳梗塞に陥ってしまいました。
高血圧の薬を止めたからです。

 最寄りの行きつけの医者が、遠くに引っ越した。
代わりの医院は、ちょっと遠い。 「えい、自分は
“健康” なんだから、大丈夫だ!」



 多少は過信があったのかもしれません。 ちょっとや
そっとの高血圧ではなかったのに…。




 だんだん不自由になっていく自分の有様を、“子供たち”
には見せられなかったのでしょうか。 その筆頭は、長男
たる私です。

 すると今度は、孫に頼り始めました。 私の妹の息子に
当る孫で、彼は実によく尽くしてくれたのです。



 彼の献身をいいことに、また口止めすることも忘れません
でした。 「私の息子たちには、決して言うんじゃないよ?」

 これ、自分の “体調の悪化” という事態のことだけに
限りません。 私に知れたら、おそらく説教されるとでも
思ったのでしょうか。 そんな問題も含まれていました。



 「なんだよ。 後始末のほうが、ずっと大変なのにな…。」

 後から知った、私のボヤキです。




 本人は大正生まれ。 “あと二日で一歳の誕生日”
という日に、母を亡くしています。 34歳で没した母の
顔を、写真でしか知りません。

 4歳になる直前に、関東大震災を体験していること
になります。



       



 昭和五年、小学校五、六年生の頃。





 家族は、父と二人の兄。 男所帯で育ちました。 強い、
男勝りの面もあったのは、そんな境遇からかもしれません。



     



 後列が二人の兄。 前列左から、本人、父、次兄の妻。





 22歳のとき、父親が自宅の風呂で倒れ、亡くなります。
兄たちとの絆は、ますます強くなっていきました。







 24歳、黒いベレー帽がお洒落。 昭和18年、箱根にて。
男性の服装に “戦時中” を感じます。




 「施設に入るのは嫌だ。」

 老いを重ね、身体が不自由になっても、ほとんどのかたが
そう思うでしょう。 私の母もそうでした。 しかし転倒を繰り
返すたびに、私の車で運ばれ、入院、転院を余儀なくされて
いたのです。



 さすがの母も、「健康問題で自分が苦労をかけている」…と
思ったのでしょうか。 「受け入れてくれる場所が決まったから
ね…」と私が報告した際も、「嫌だ」…とは言いませんでした。

 説得する必要が無かったほどです。




 それは、特別養護老人ホーム上井草園という施設でした。
若い職員さんが多く、どなたも温かいかたばかりです。

 「ここなら間違い無い。 やっぱり良かった…。」と、入所後、
安心したのを覚えています。



 東京都杉並区のこの付近は、かつて本人が自転車で駆け回り、
仕事に励んだ地域です。

 私が小学校高学年から、大学時代まで育った家もありました。
母にとっては、結婚後に構えた “第二の家庭” になります。



 そして上井草園は、第三の家庭。 もはや自分は “頼る
だけ” の存在ですが、ここなら配慮も行き届き、万全です。

 母も、ほっとしたのでしょうか。 お世話していただける
有難さが身にしみ、最初から心を開いたようです。



 しかし後日、職員さんから聞いたところによれば、
「私たちのほうが、感謝しているんです…。」

 ただ介護を受けるだけの母。 意思の疎通さえ
おぼつかないのに、そんな印象を周囲に与える
ことが、本当に出来たのでしょうか?



 「強く、周囲に心配をかけずに」…生きようと努め、
気の張りつめていた時期は終りました。 後から私
が目にした、独居時代の日記には、本人の不安が
克明に記されていたので、それがよく判るのです。

 「だんだん衰えて行く自分の健康。 一体どうなって
しまうんだろう…。」




 



 入所して最初の年の “忘年会” プログラム。 ここでは
私も楽器を弾かせていただきました。

 ピアノやハンドベルなどを担当したのは、すべて職員
さんたち。 日頃は自分たちの介護に携わっているかた
がたが、音楽面でも大活躍している…。

 そんな様子を間近で目にしたため、利用者の皆さんに
とっては新鮮な驚きだったようです。

       関連記事 和気あいあい など。





 



 90歳の誕生日には、職員さんたちが寄せ書きを。





     



 92歳の日には、心温まるメッセージが。




 母は、93歳5ヶ月で亡くなりました。 葬儀は行わず、
近親者のみで送り出しました。

 役割を果たした、一人ひとり…。 「残された者は仲良く。」
それが、せめてもの供養でしょう。





SN3R0398




 さて、職員さんが記した色紙の中には、以下
のような一行がありました。

 「桑野さんといえば、ネコと俳句ですよね!?」



 これ、母のことなんです。



母を送る

2013-03-01 00:00:00 | 生活・法律

03/01           母を送る




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                   甘かった私




 先日、母が他界しました。 93歳でした。

 20年の独居生活の末、最期は特別養護ホームに
お世話になっていました。



 死因は老衰。 年齢を考えれば、「天寿を全うした」
…と言えるでしょう。



 しかし、「健康に問題が無かった」…わけではありません。

 高血圧から脳梗塞を引き起こし、利き腕の右手が駄目に
なっていた。 また家の内外で頻繁に転倒するなど、独居
が難しくなりました。 このとき、87歳。



 加うるに、緑内障で右目はほとんど見えなくなって
いました。 一年ほどケアマネジャーさんのお世話
になりましたが、身体の不自由さは増すばかり…。

 その後、何度か入院、転院を繰り返しましたが、
年齢からして、状況の好転は望めません。



 もはや独居は不可能で、私が引き取るのも困難な状態…。

 ついに施設へ入所してもらうのが最善と決意。 申請から
一ヶ月という短期間で、ホームへの入所が決まりました。

 「緊急度が高い」…と判断していただけたのでしょう。




 園にお世話になった期間は、四年八ヶ月。 最初のうち
は、本人も意欲的にリハビリに励み、独力の歩行回復を
夢見ていました。

 でも、ここでも転倒を繰り返し、移動はすべて車椅子に
限られてしまいます。



 緑内障の持病は好転せず、皮膚の疱瘡なども引き起こし
たので、当初は近くの病院へ通院しました。 しかし、通院
自体が体力の消耗に繋がったので、結局断念せざるを得ま
せんでした。

 脳梗塞で言語も不自由になり、職員さんでさえ、聞き取り
不能になっていきます。 意思が通じないのを悟ったのか、
やがて本人は、まったく言葉を発しなくなりました。




 最後は、あれほど旺盛だった食欲も減退していく…。

 正確には、嚥下機能が無くなり、「食事が苦しい」…
という表情を見せるようになったのです。



 「そんな日を迎えたら、どうするか?」

 おなかに管を繋ぎ、点滴や人工呼吸器で、延命を試みるか?

 それとも、“自然” に任せるか? 私は数年前、園の医師に
呼ばれ、選択を迫られていました。



 私が選んだのは、母の身体が、少しでも “楽な” ほうです。
すなわち延命措置をせず、自力で食物摂取が無理になった
ら、「自然に任せる」…という道でした。

 これには、今でも悔いはありません。




 この二月に入ると、嚥下機能が急激に低下しました。 食物
を完全にペースト状にしても、気管に入りそうになるのです。



 園から私への “第一の電話連絡” は、2月11日でした。

 「数日中に、摂取は水分だけになってしまいます…。」



 第二の連絡が13日夜。 そして、「今晩からは水分だけです」
…という第三の連絡が、16日でした。



 実はこれらのうち、私が直接耳にしたのは、最初の連絡だけ。
私自身が、13日夕方に倒れてしまったからです。

 以後は、すべて家族が受話器を取り、確認の返事をした上で、
入院中の私に報告してくれました。




 人間が “水だけ” で生きられる期間は、通常1週間~10日
です。 母も、9日目の2月24日に息を引き取りました。



 そんな母の状態を知りながらも、入院中の私は歩行禁止。
園と直接、電話連絡をすることが許されません。

 その結果、“母と私” という、親子二人分の負担が、すべて
私の家族にかかってしまいました。



 彼女も働く身。 仕事を終えては私の見舞いに訪れ、夜
帰宅しては “園と電話連絡”…という、超ハードな毎日を
送ってくれたのです。

 幸いにも私の弟が、彼女と連携して対処してくれました。

 「心配要らないから、ゆっくり療養を。 あとは任せろよ。」



 結局私は、自分の療養に専念しました。 母の最期の瞬間
に居合わせることは出来なかったものの、「呼吸が止まった」
…という連絡は、自宅で受けられたのです。

 退院後、6日目のことでした。




 母の最期と、私の入院期間が重なってしまった…。 結果的
には無事に母を送り出すことが出来たものの、もしかすると、
それは不可能だったかもしれない…。

 いや、今回の病状の深刻さを考えると、私が先に逝ってしまい、
母がそれを追う…という事態だって、充分考えられたのです。



 第一の電話連絡の日。 私は自宅に居ましたが、体調が
急激に低下し始めました。

 第二の連絡があった夜。 私は夕方に救急車で運ばれ、
不在でした。 吐血のため、全血液の半分ほどを失って…。




 「きっとお母様は、貴方の退院を待っておられたんですよ。
貴方の手で無事に送り出せて、よかったですね。」

 今回の経緯を私から聞かされた、友人の一人は、このよう
に言ってくれました。

 そのとおりだと思います。



 いや、もしかすると、それだけではない。

 「母は自分の命の、最後の何日か分を、私にくれたので
はないか? その結果、私は自分の命をとりとめることが
出来たのかもしれない…。」

 こんな勝手なセリフを私から聞かされて、園の職員の
お一人は、涙ぐみながら頷いてくださいました。 最後
まで親身になって、母の介護に尽くしてくれたかたです。



 科学的な因果関係など、私には解らない。 しかし
私は今でもそう信じています。

 母から二度、命を与えられた。 …とすれば今後は、
より慎重に生きて行かざるを得ません。




 退院翌日、私はさっそく園を訪れることが出来ました。 私
はベッドの母の耳元で声を出します。

 「ごめんね? 入院沙汰になっちゃってさ。 今までそんな
ことは無かったんだけどね、胃潰瘍になっちゃって…。 でも
もう大丈夫だから、心配しないでね?」

 母は、下顎をワナワナと動かしました。 これ、唯一の意思
表示手段…。 聴力は最後まで健全だったようです。



 「貴女は頑張りすぎる性格だからな。 よく
頑張ってるね。 でも、身体は楽にしてよ?」

 …ワナワナ…。



 私が訪れた数日前に、すでに弟や甥が足を運んでいました。

 みんな、きっと温かい言葉をかけてくれたことでしょう。




 亡くなる二日前には、両眼から涙を流していたとか。

 前日には入浴して、スッキリした表情。 部屋に戻ると、
しきりに口を動かしながら、天井を見つめていたそうです。



 息を引き取った当日、私が到着したのは、ちょうど一時間半後
です。 身体にはまだ温もりがありました。

 それはあたかも、最後の愛情を私に伝えているかのようでした。



本当に退院?

2013-02-26 00:00:00 | 生活・法律

02/26          本当に退院?




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 入院後、回復は順調に進みました。



 出血が止まったのが確認でき、栄養点滴は終りました。
翌三日目から、“食事解禁” です。

 最初は重湯など、ほとんど水分だけでしたが、三分粥、
五分粥と、徐々に固形物が多くなりました。 おすましの
具、野菜の煮物に、魚のすり身…。




 そして輸血は三日間で終了し、止血剤の点滴も
飲み薬に変わりました。



 と言っても、完全に “気分爽快” というわけではありません。
直後の二日間は、軽い頭痛と微熱に悩まされました。

 看護師さんによると、原因は「急に血が増え、体内を循環し
始めたので、全身がビックリしているんですよ。」

 なるほど。




 まだ歩行禁止なので、大半は “寝て過ごす” 状態
です。 そんな生活に、家族が持ってきてくれたラジオ
が潤いを与えてくれました。

 音楽や語学講座。 しばらくご無沙汰していた放送
番組を、ゆっくり聴くことが出来たのです。 もちろん
イヤフォンで。



 分厚い、重いスコアも、家族に運んでもらいました。
こういう機会でないと、なかなか集中できない作業
なので、無理を承知で頼んだのです。




 六日目の朝、歩行が解禁になりました。 家族には、
さっそく喜びの報告メールを送ります。

 しかし朝食前には、嫌な採血が! それも二本分です。

 (痛いなー。 まあいいか…。 これで、トイレまで行ける
んだし。)



 そして洗髪コーナーがあったので、すっきり!
一週間以上、気になっていましたから。



 (でも、あと何日続くんだろう? この入院生活…。)

 私は髪を洗いながら考えました。

 長引くなら、先の予定を早めにキャンセルし、周囲にかける
迷惑を、最小限に抑えなければなりません。



 それにもう一つ、気がかりな事があるのです。




 病室に戻ると、すぐ、主治医の Y先生が来られました。

 「よろしければ、明日、退院されてもいいんですが。」



 (何だって!? 歩行解禁になったばかりなのに?)

 「その代わり、通院していただくことになりますが。」



 私は、喜んでそれに従うことを約束し、身辺の事情
などを話し、退院をお願いしました。

 「解りました。 では明日退院です。」




 私は、またも家族へ報告メールを送りました。 きっと、事態
の急展開に面食らうことでしょう。

 (先ほどの採血の結果が、おそらく良かったからだろうな。)




 さっそく夕食時に登場したのが、新顔の薬です。 ピロリ菌
退治の錠剤で、帰宅後も、これを服用し続けることになります。



 しかし注意する点が一つ。 朝夕の食後、忘れずに服むこと
です。 一週間続けて。 3種類5錠を、取り違えずに。

 そうしないと退治できないばかりか、耐性菌を作ってしまい、
また別の薬を試さなければならないのです。



 退院から一週間経った現在、これは間違い無く
実行することが出来ました。




 さて、明日は退院。 慌ててもしょうがないので、昼食
を摂ってから帰宅することにしました。

 しかし事態は、あまりに嬉しい急展開! 家族の都合
がつかず、一人で帰らねばならないのです。

 心配なのは、荷物が多いこと。 ラジオ、重いスコアも
あります。 短期間とはいえ、家族に運ばせた品物は、
かなりの量になっていました。



 (まあいいや、タクシーで帰れば。)



 しかし幸いなことに、弟に報告すると、「車で送ってあげるよ」
…と言うのです。 平日なのに、仕事を休み、おまけに、朝から
遠くまで運転して来て。

 彼は二度も見舞いに来てくれていました。 綺麗なお花まで
持参し、飾ってくれて。



  SN3R0395



 そのお花、一週間以上経っても健在です。 まるで
私の退院を、一緒に喜んでいるようです。




 七日目、退院の日の朝になりました。

 朝食を摂り終わると、「はい、点滴の続きです。」



 (何だって! これから退院するんだよ? ボク。)



 「退院の日に点滴するかたは、珍しいんですけどね。」

 看護師さんはニコニコしながら、まだ腕に刺さっていた
針にチューブを繋ぎ、点滴を始めました。



      SN3R0387



 見ると、“ブドウ糖…” と書いてあります。 私は素人なので
解りませんが、色からして、おそらく造血剤でしょう。

 (そうか、採血の結果が良好とはいえ、貧血を最後まで心配
してくれてるんだな。)



 事実、日を追うごとに、私の “立ちくらみ症状” は改善して
いました。 以前なら、起き上がったり、首を上へ向けるだけ
でクラクラしたものです。

 しかし今は、恐る恐る上を向いても大丈夫です。

 (だから、歩行許可が出たんだな。)




 さて、昼食が最後の食事になりました。 ご覧のとおり、
三日目の “解禁食” に比べたら雲泥の差です。 何しろ
重湯など、水分だけでしたから。

 日頃、「食べるのが楽しみだ」…とは決していえない私。
でも、このときばかりは嬉しかった。



  SN3R0379




 思えば、入院二日目は、ヴァレンタイン デ―。 “両腕に
点滴” の一日でした。

 でもそのお蔭で、奇跡的に一命を取りとめ、回復できた。
“1~2週間” という当初の見込みどおり、7日間という入院
期間で済んだのです。



 退院から一週間後の今、体調は良好です。 以前よりも
いいぐらいです。 これが、自分に与えられた “プレゼント”
なのでしょうか。

 救命士、救急隊員、医師、看護師の皆さんからの。

 そして、家族や弟たちからの。



 (それにしても、こんなに体調がいいのは、なぜだろう?)

 単に、貧血が改善されただけではないような気がするのです。



 (ひょっとすると出血は、だいぶ前から続いていたのではない
だろうか?)

 少なくとも、この二、三ヶ月間。 あるいは、前回の定期検査
以後、半年間以上も。

 いや、それと気付かないほど、微量の出血が、もっと前から。




 私は、ここ数年の体調の変化を思い起こしてみました。

 四、五年前から高血圧になった。 それまでは低血圧
だったのに。 素人としては、まことに不思議なのです。



 疑われる原因は貧血ですが、さらに、その根本原因は?

 もしかすると、私の胃に長年住み着いた、ピロリ菌のせい?




 憶測の域を出ない、私の素人考え…。 何はともあれ、
健康に気を付けねば。



 5年以上に亘って、毎朝毎晩測ってきた血圧。 高ければ
がっかり。 数値が下がればワクワク。

 しかし、入院当日の朝には[87/52]と、異常な下がり方を
していた。 貧血症状も、急激にひどくなっていました。



 今思えば、これは危険信号だったのに。 少しずつ
出血を重ね、やがて吐血に至ったのです。




 あれだけ几帳面に血圧を測り続けたのに、
今回の深刻な事態を迎えてしまった私…。



 「木を見て森を見ず。」

 (自分の健康状態は、多面的な材料から
判断しなけりゃ駄目だ。)



 救急搬送、胃カメラ、入院、点滴、輸血。

 それまでしたことのない経験を、一瞬に
して味わった私の、愚かな体験談でした。