おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

さあ歌の決勝大会だぞ

2012年02月13日 09時25分37秒 | 日記
この正月に両親の眠るT市の墓所に参りに行った際に、入ったラーメン屋の店内に一枚のポスターが貼ってあった。

二回目になるという素人歌の大会参加の呼びかけだった。

古い町並みを再現した通りに洒落た蔵作りのホールが作られていて、NPO法人が運営しているという。ここで「のど自慢チャンピオン大会」が催される。

出場料2000円。ちょっと高いなあ・・・

しかし、優秀な成績を上げると豪華商品が用意されているという。40インチのテレビもある家のは32インチだ

なんの躊躇いもなくすぐ出場を決めた。もう周りを気にする立場でも年でもあるまい。

退職して山奥に引っ込んで、ド田舎だからすることがない。週一、山道を仲間と一緒に歩くくらいのもの。

弾き語りだって歌う場所ないこともないのだが、やっぱり億劫になる。どうしても泊りがけで街に出て、なじみのライブ「尚廉」で歌うしかない。

どうも最近足が遠退いている。年齢の所為もあって70年代初頭の歌=フォークが古くなったようだ。自分はこれしか歌えないからしょうがないのだが・・・最近の色恋ばっかしの軟弱な歌には抵抗があるし、プロテストソングに誇りもあるしー

フォークの一方で演歌も好きだし、浪曲だって大好きだ。落語講談も大好きな古いおやじ世代、一度くらい演歌で勝負してみてもいいか・・・って考えた。

姪の結婚式で歌った坂本冬美の「祝い酒」が好評だったことが追い風になって背中を押した。

当日は車で高速を走り、早めに現地入り。早過ぎたのでお墓参りをして桃苑でラーメンとぎょうざを食べてゆったりと会場に入った。

昔、フォークをやっている時、ヤマハのライトミュージックコンテストがあって、バンドで出場。鹿児島の地方大会で優勝し、福岡の九電ホールで九州大会。リードギター担当だったのだが、緊張で手が震えて出来栄えは酷いものだった。ここで結果を残せば全国へー

しかし、そこまでだった。海援隊や財津和夫が活躍を始めたころ。

もうあれから40年(どこかで聞いたフレーズだぞ、そうかキミマロのギャグか)、もう極度の緊張はないだろうと高を括って出たのだが、ステージの裏で順番を待っていると次第に緊張してきた。

私の次の出場者の方がよくしゃべる人で、「去年出た時には、歌っていてふと気付くと大きく腕が震えてびっくりした」という。
まさか?

歌は「酔歌」、吉幾三だ。座席は100人で一杯になるくらいのホールだが、昔の蔵を改造してあって天井が高く素敵な環境だ。

緊張した。途中気付いたがマイクを持つ手が大きく震えているではないか。震えるというよりも無意識に前後15から20センチくらい揺らいでいるのだ。コントロールが利かない。とても困ったけど、何とか指定された2分30秒歌った。

結果は1週間後郵送とある。

その1週間の待ち遠しいこと。その時を過ぎたけど何にもない。

100人中、合格者25人。後日その25人で決勝大会となる。25人に入れなかったのか情けないなあと観念していた時、封書が送られてきた。

決勝大会に「選ばれませんでした」ではなく「選ばれました」に丸がつけられていた。

決勝大会はプロの歌手が審査員に入ること、伴奏はカラオケではなく生バンドという。「生ビール」ならいいけど、演歌を生バンドをバックで歌う・・・どうもイメージが湧かない。その日は朝からバンドとの音合わせのリハーサルをやって、午後大会となる。

どうも歌って競うものではないのではないかと思いもあって、決勝では弾き語りにしようかと思ったけれど、同じ曲でないと
ダメというから「酔歌」でいくしかない。どうも歌詞が覚えられない。生バンドだから歌詞をモニターで見ることはかなわないのだろうか

今毎日5回位歌っているけど、どうなることか。

平々凡々たる日常に確かに刺激にはなっている。

あっそうだ、当日は妻の助言もあって、少しは酒飲んで歌ったらというので、焼酎のお湯割りをポットに作っていく。
なんてたって「酔歌」だもんな