おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

土を無くした日本にあるのは土地だけ

2011年03月05日 06時52分07秒 | 日記
今朝は寒い、部屋の温度が4度に下がっているし、畑は霜が降りている。

それでも季節は行きつ戻りつしながらも、ゆっくりと春へ移行していく。

寒いけれど、天気はいいので日中は氣温も上って、作業に適する一日となりそうだ。

今日は久しぶりに畑に下りて、汗を流そう。
この1週間は忙しかった。

昨日も知人の葬式があった。葬儀に言葉は適切ではないかもしれないが盛大なもので、5,6百人位の参列者で、花輪・生花が道路にまで溢れ、受付は屋外の特設テントだった。そして、会場は人で溢れ会場に入れない参列者は2階、3階の部屋で葬儀模様ははテレビで見ながらのものだった。

どんなに栄華を極め、ぜいを尽くした式典であっても、その主人公はただ一人、冷たい御棺に眠っている。裸で生まれてくる「生」と死床に裸で横たわる「死」は万民に平等なのだ。
諸行は無常。栄枯盛衰は世の習い。

昨日の主人公は交通事故であった。帰り着いた家の前の道路で車にはねられた。いつも使われていた会社の専用の送迎車を降りた後だったのだろう。

その前の死者は、神棚に飾る榊の葉を取りに行った山の中で、だれにも看取られないで一人寂しく逝った。心筋梗塞であったという。死体は2日間見つからなかった。

生者必滅とはいうけれど、いのちのなんと儚いことかー

誰かの言葉にあった、死は向こうから来るのではなくすぐそこ、あなたの背後に迫っているのだ。常にこのことを自戒しておくべきだ。何時くるかわからない死を思い、今日を生きること。

先程、住井すゑさんと永六輔さんの共著『人間宣言ー死あればこそ生が輝く』(光文社)を読み終えた。
住井すゑには大作『橋のない川』がある。徹底した(性根の入った)反戦、反差別の人であり作家であった。

この本の中に、「土」と「土地」は違うのだということを主張されている。同感だ。土は個人のものではない。地球が先にあって、生命が生まれ、200万年前に人間が誕生しこの地面を塒(ねぐら)として生活を始めた。創めは洞穴に、そして掘っ立て小屋を建て、いのちを支えるために土を耕し種をまき、作物を育てて食料としてきた。

今、人は横着になって土を育てなくなってしまった。ただお金で買えるだけの、お金を生み出すだけの「土地」になってしまった。
政治の貧困で農業では生きていけなくなった農民は農地の耕作を放棄せざるをえなくなり、農地は次第に荒れていく。不動産業者がこれに目をつけ、安く買い取っていく。

金で結びついた土地を売り買いする業者と結託した行政が存在する。昨日まで米を作っていた田圃に今日はもうダンプが入っている。私の暮らす村、住む山の麓は今別荘開発のブームであれよあれよという間に、風景が変化している。

土は耕して育てていくから土になり、お金に換わる物が土地。ゴルフ場は芝に覆われているからすぐ農地に戻せるとある政治家が言ったそうだ。違う、そこにはたいへんな雑草を殺すための化学薬品を撒いている。

住んでいる場所の土地はいつか地球に返さなければならない。その時に、生きた土のままで返すこと。そのために土を大事にしなければならないけっしてエゴでお借りしている土を殺したり、汚したりしてはならない