日記のブログ

個人的な出来事やニュース及び日記を投稿します

2月が終わります

2008年02月29日 23時01分27秒 | Weblog
皆さん、こんばんは。ついに二月が終わり、いよいよ2008年(平成20年)(度)年に入ろうとしています。とうとう、学校・官公庁・各企業で卒業式・人事異動および送別会、入学式・入社・新生活の出会いと別れの時期となってしまいました。
一般社会では年の変わり目 正月 初詣などの準備に負われます。

明日からは年替わりの時期、3月です。3月ですが、5~10日頃までの初めから上旬までは気温や気候は北日本を中心に、冬の終わりまたは春先である「余寒」という寒さが残ります。

それ以降の中旬からは気温は急激に上がり、寒さはだんだん和らぎます。
年末等であわただしくなりますが、よろしくお願いします。

三浦和義容疑者、銃撃事件 殺害 「スポーツニッポン」より

2008年02月27日 23時08分37秒 | Weblog
三浦元社長「サイパンが米国領とは…」

 米ロサンゼルスで1981年に起きた妻・一美さん(当時28)銃撃事件の殺人容疑などで元会社社長、三浦和義容疑者(60)がサイパン島で逮捕された件について、ロス市警が25日午前(日本時間26日未明)、初めて記者会見を行い、2、3年前から本格的な捜査に着手していたことを明らかにした。米検察当局は昨年10月の段階で元社長のサイパン渡航情報を察知。捜査の手は迫りつつあったが、三浦元社長はサイパンが米国自治領だとは知らなかったという。 【ロス疑惑再燃】

 ロス銃撃事件の国内裁判で主任弁護人を務めた弘中惇一郎弁護士によると、三浦元社長は26日午前、サイパンの司法当局の収容施設から同弁護士の自宅へ2度にわたり電話。「サイパンを米国(自治)領だと知らなかったし、そういう意識がなかった」などと話した。

 ロス市警は会見で「この2、3年で本格的な再捜査に着手した」と明かした。日本で無罪が確定するまで、ロス市警は日本国内での裁判を尊重し、見守らなければならず、03年の最高裁での無罪判決後に再び捜査を始めたのでは、と指摘する声が出ている。

 捜査官によれば、三浦元社長が米国自治領サイパンなどに頻繁に旅行しているとの情報をロス市警が得たことが逮捕への糸口になった。サイパンなどでの逮捕が可能かを検討、米本土に移送できると判断した。

 米検察当局は昨年10月、三浦元社長が同年11月ごろにサイパン島を訪問する可能性があるとの情報を入手。ロス市警はサイパン当局に、元社長が来島した場合は逮捕に協力するよう要請、1988年5月発効の逮捕状のコピーも送付していた。サイパンは米国の憲法や法律の権限が及ぶ米国自治領の北マリアナ諸島に属している。

 三浦元社長は弁護士らの忠告を受けて、米本土はもちろん、グアムにも足を運ぶことはなかったというが、当局が入国を待ち構えていたことを知らず、今月18日に旅行でサイパンへ入国。22日の出国直前に空港で身柄を拘束された。弘中弁護士によれば、元社長はこれまでサイパンへは4、5回訪れていたという。

 三浦元社長は26日、面会した外務省関係者に現地で混乱も起きていることに「迷惑を掛けて申し訳ない」と話した。個室に収容され、シャワーや廊下の散歩などは希望すれば可能。係官の対応を「こちらの言うことを理解しようとしてくれるし、他の人(収容者)と平等に扱ってくれる」と評価していたという。

 27日午前11時(日本時間同10時)から、現地の地裁で元社長の弁護士を公選、私選のどちらにするかの審理があり、本人が出廷する予定。

 ◇おことわり 米ロサンゼルスで起きた銃撃事件で逮捕された三浦和義容疑者の呼称を、原則として初出は「元会社社長、三浦和義容疑者」とし、2回目からは「三浦元社長」とします。米当局の逮捕状に基づき逮捕されているため容疑者呼称を維持する一方、日本では無罪が確定していることを考慮したためです。

今年も残り2週間、流行語大賞をお伝えします

2008年02月23日 23時11分43秒 | Weblog
西暦2007年(平成19年)も残り少なくなりました。学校では年(度)末の支度に負われています。今週行われる「卒業生を送る会(予餞会)」と卒業式の準備をしています。合唱曲の発声練習、体育館(講堂)で入学式・卒業式の設営、人事異動などと目白押しです。

世間では新生活・新社員・新入学・卒業式、正月・年賀状・初詣などと春と新年の話題が出てくるようになりました。

今は梅が咲き誇っており、桜の季節が待ち遠しいです。


うちの学年では年明けの4月から高校生になり、新学校での課外活動や部活動、学校行事などに精をを出してがんばって行きたいです。
学校では「来年(=西暦2008年 平成20年のこと)部活や学級構成などはどうしますか?」、「4月から二年生になって楽しく過ごしたい」などのことばが毎日のようになってきました。

「申し訳ない」と謝罪 石破防衛相、漁船家族に(中日新聞)

2008年02月21日 18時52分42秒 | Weblog
石破茂防衛相は21日、海上自衛隊のイージス艦「あたご」と衝突した漁船「清徳丸」が所属する千葉県勝浦市の新勝浦市漁業協同組合川津支所を訪れ、行方不明になっている吉清治夫さん、哲大さん父子の家族らに「本当に申し訳なかったと思います」と初めて直接謝罪した。

 堂本暁子千葉県知事や外記栄太郎組合長らも同席。外記組合長によると、石破氏は「大変大きな事故を起こし、申し訳ない。大臣として、お見舞いとおわびを申し上げる」と述べたという。

 また、外記組合長らが防衛省の事故後の説明が変転していることについて批判すると、石破氏は「情報を精査して公開していきたい」と答えたという。

 石破氏はこの後、勝浦市役所で藤平輝夫市長と面会した。

 勝浦市を訪問中、石破氏が乗った乗用車が、市内の交差点で乗用車とぶつかったが、石破氏にけがはなかった。

映画監督・市川崑さん死去 92歳・肺炎

2008年02月15日 19時07分45秒 | Weblog
「ビルマの竪琴」「東京オリンピック」「犬神家の一族」などの名作で知られる映画監督で、文化功労者の市川崑(いちかわ・こん)さんが13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。92歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男建美(たつみ)氏。1月下旬に息苦しさを訴え入院していた。

 推理小説とマージャン好きで、小さな毛糸の帽子をかぶり、たばこをくわえたダンディーな姿がトレードマークだった。

 市川さんは1915年11月、三重県宇治山田市(現伊勢市)生まれ。少年時代は画家を目指したが、ディズニーのアニメ映画を見て感動、18歳で京都の映画会社に。動画の下絵描きなどの後に撮影部に移り、48年に野上弥生子原作「花ひらく」で監督デビュー。2作目の「三百六十五夜」がヒットした。

 東宝で都会派の風刺喜劇を撮った後、日活で「ビルマの竪琴」(56年)を撮影し、ベネチア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞。大映に転じ「鍵」「野火」「おとうと」など文芸作品を映像化した。

 65年の「東京オリンピック」は、海外の映画祭では高い評価を受け、記録映画に大きな影響を与えた。

 一作ごとにスタイルを変え、独立プロでの「股旅」、大作「細雪」などに取り組む一方、テレビにも進出し、市川崑劇場「木枯し紋次郎」は一世を風靡(び)。斬新な映像美とさえた演出を見せた。

 「犬神家-」「獄門島」など金田一耕助シリーズでも人気を集めた。高倉健主演の「四十七人の刺客」、四騎の会でともに活動した黒澤明監督らとの共同脚本を映画化した「どら平太」、岸恵子主演の「かあちゃん」など、長く一線で活躍。

 80歳を過ぎても製作意欲は衰えず、30年前と同じ脚本でリメークした「犬神家の一族」(06年)が遺作となった。

 二人三脚で映画を作ってきた脚本家で妻の和田夏十さんが亡くなった後も「映画は天職」と語り、衰えぬ創作意欲と実直な人柄で尊敬を集めた。94年文化功労者に選ばれ、01年モントリオール世界映画祭で功労賞を受賞した。

◆芸術か、記録か
 「東京オリンピック」は市川崑さんが総監督を務め、海外でも評判になった。オリンピックを壮大なドラマととらえた。冒頭に施設建設のため姿を変える東京の様子を入れたり、一つのシーンをいろいろな角度から撮影、超望遠レンズで選手の細かい表情までとらえた。

 勝者と敗者を対照的に描くなど、芸術性の高いドキュメンタリー映画として話題になったが、当時河野一郎担当大臣が「記録性に欠ける」とクレームを付け「芸術か記録か」の論争に発展した。当初は黒澤明監督に依頼されたが、予算の関係で断念し市川監督が指名されたという逸話もある。

◆会見中もたばこ離さず
 「東京オリンピック」などを見て感動した、あの市川崑監督に取材したのは94年の「四十七人の刺客」のキャンペーンで、主役の高倉健らとともに名古屋を訪れた時だった。

 「忠臣蔵」を新しい視点でとらえた監督の通算70本目の同作について「一度は『忠臣蔵』をやってみたかった。久しぶりに本格的に映画に取り組んだ気がする」と語った。大監督の風格を備えながら、気さくに記者の質問に答える様子を思い出す。内蔵助を演じた高倉に「健さんと聞いて、これは天の啓示だと思った」と喜んでいた。

 何より印象的だったのは、トレードマークのくわえたばこ姿だった。数年前にやめたそうだが、当時は会見中も決して離さず、ポスターの前で写真撮影した時もくわえたままだった。「朝起きて、いったん火をつけたら、寝るまで絶やさない」と聞いていた話は、本当だったのかと思ったくらいだ。 (上原宏)