日記のブログ

個人的な出来事やニュース及び日記を投稿します

映画監督・市川崑さん死去 92歳・肺炎

2008年02月15日 19時07分45秒 | Weblog
「ビルマの竪琴」「東京オリンピック」「犬神家の一族」などの名作で知られる映画監督で、文化功労者の市川崑(いちかわ・こん)さんが13日午前1時55分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。92歳。三重県出身。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男建美(たつみ)氏。1月下旬に息苦しさを訴え入院していた。

 推理小説とマージャン好きで、小さな毛糸の帽子をかぶり、たばこをくわえたダンディーな姿がトレードマークだった。

 市川さんは1915年11月、三重県宇治山田市(現伊勢市)生まれ。少年時代は画家を目指したが、ディズニーのアニメ映画を見て感動、18歳で京都の映画会社に。動画の下絵描きなどの後に撮影部に移り、48年に野上弥生子原作「花ひらく」で監督デビュー。2作目の「三百六十五夜」がヒットした。

 東宝で都会派の風刺喜劇を撮った後、日活で「ビルマの竪琴」(56年)を撮影し、ベネチア国際映画祭でサン・ジョルジョ賞。大映に転じ「鍵」「野火」「おとうと」など文芸作品を映像化した。

 65年の「東京オリンピック」は、海外の映画祭では高い評価を受け、記録映画に大きな影響を与えた。

 一作ごとにスタイルを変え、独立プロでの「股旅」、大作「細雪」などに取り組む一方、テレビにも進出し、市川崑劇場「木枯し紋次郎」は一世を風靡(び)。斬新な映像美とさえた演出を見せた。

 「犬神家-」「獄門島」など金田一耕助シリーズでも人気を集めた。高倉健主演の「四十七人の刺客」、四騎の会でともに活動した黒澤明監督らとの共同脚本を映画化した「どら平太」、岸恵子主演の「かあちゃん」など、長く一線で活躍。

 80歳を過ぎても製作意欲は衰えず、30年前と同じ脚本でリメークした「犬神家の一族」(06年)が遺作となった。

 二人三脚で映画を作ってきた脚本家で妻の和田夏十さんが亡くなった後も「映画は天職」と語り、衰えぬ創作意欲と実直な人柄で尊敬を集めた。94年文化功労者に選ばれ、01年モントリオール世界映画祭で功労賞を受賞した。

◆芸術か、記録か
 「東京オリンピック」は市川崑さんが総監督を務め、海外でも評判になった。オリンピックを壮大なドラマととらえた。冒頭に施設建設のため姿を変える東京の様子を入れたり、一つのシーンをいろいろな角度から撮影、超望遠レンズで選手の細かい表情までとらえた。

 勝者と敗者を対照的に描くなど、芸術性の高いドキュメンタリー映画として話題になったが、当時河野一郎担当大臣が「記録性に欠ける」とクレームを付け「芸術か記録か」の論争に発展した。当初は黒澤明監督に依頼されたが、予算の関係で断念し市川監督が指名されたという逸話もある。

◆会見中もたばこ離さず
 「東京オリンピック」などを見て感動した、あの市川崑監督に取材したのは94年の「四十七人の刺客」のキャンペーンで、主役の高倉健らとともに名古屋を訪れた時だった。

 「忠臣蔵」を新しい視点でとらえた監督の通算70本目の同作について「一度は『忠臣蔵』をやってみたかった。久しぶりに本格的に映画に取り組んだ気がする」と語った。大監督の風格を備えながら、気さくに記者の質問に答える様子を思い出す。内蔵助を演じた高倉に「健さんと聞いて、これは天の啓示だと思った」と喜んでいた。

 何より印象的だったのは、トレードマークのくわえたばこ姿だった。数年前にやめたそうだが、当時は会見中も決して離さず、ポスターの前で写真撮影した時もくわえたままだった。「朝起きて、いったん火をつけたら、寝るまで絶やさない」と聞いていた話は、本当だったのかと思ったくらいだ。 (上原宏)