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マリヤンカ mariyanka

日常のつれづれ、身の回りの自然や風景写真。音楽や映画や読書日記。手づくり作品の展示など。

被災地の人々

2011-03-17 | Weblog
東北の惨状をテレビなどで見るしかなく
テレビの前で涙を流したり震えたりしています。
少しづつ伝えられる現地の人々の様子を見るにつけ嘆いている場合じゃないと思うのですがどうしていいのかわかりません。

被災地の人々が、幾重もの苦しみの中でさえ自分よりもっと悲惨な状況の人のことを思って助け合っているのをみるとその忍耐と精神の気高さに心打たれます。
原子力発電所が最悪の事態にならないことをひたすら祈ります。
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「原発がどんなものか知ってほしい」平井憲夫

2011-03-16 | Weblog
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html#page2

筆者「平井憲夫さん」1997年1月逝去。
1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。
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原子力発電所事故の情報

2011-03-15 | Weblog
高木仁三郎らが創設した
「原子力資料情報室」が下記で事故の情報を解析、
放映しているのを見ることが出来ます。
http://www.ustream.tv/channel/cnic-news
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原子力発電所

2011-03-13 | Weblog
今こそ「高木仁三郎」の言葉をかみしめたい、

高木仁三郎(2000年没)「ライトライブリフッド賞」の受賞スピーチから (一部)

市民の目の高さからの科学を!
『… 私の科学者としての最初の仕事は、核燃料の安全性に関係したことでした。
私は、セシウムやプルトニウムといった放射性元素の核燃料中の振る舞いに興味を持ち、研究を始めました。
数年の後私が知ったのは、核燃料中の放射性物質の挙動が、当初私たちが想定していたものよりはるかに複雑だということでした。
私が驚いたのは、われわれ核化学者が、放射性物質の挙動について、まだいかにわずかしか知らないか、というまさにその事実についてでありました。
 60年代の半ばに、日本の原子力計画は本格化してきました。原発建設予定地での住民の反対や原子力問題に関する人々の憂慮が高まりつつありました。しかし私の同僚の科学技術者たちは、自分たちはすべて分かっているのだと言わんばかりの態度で、住民の懸念は単に一般の人々の側の科学に対する無知から来るものだ、として無視しようとしました。
その当時は、私は原子力そのものにはそれほど批判的ではなかったのですが、私たちがいったいどこまで分かっていて、どこまでは分かっていないのかという点を明確にし、私たちの関係する科学技術プロジェクトに関する不確かさを指摘することが科学者の最も重要な責任の一つだと考えました。そしてこの問題に深く関心を持つようになればなるほど、私はいっそう強く次のように感じました。「原子力産業の科学的基盤というのはなんと不確かなものだろうか!」と。
 これが私にとって、科学者としての人生の転換点になりました。私は市民の側の懸念を共有したいと思い、ずいぶん考えた末ですが、専門家のコミュニティーを離れ、市民としての科学者、ないしは、科学者としての市民として、市民とともに作業をしようと決意しました。当時私は都立大学の助教授でしたが、市民とともにありたかったということと、自分の作業に専心したいという気持ちから大学を辞しました。
 そして、1975年に東京での原子力資料情報室の創設に参加しました。そこでの仕事は、政府や原子力産業の利害とは独立に、つまりは市民の視点、さらに環境を守るという視点から、政府の原子力計画を批判的に検討し、きちんとした根拠に基づいて、原子力問題に関する情報と見解を一般の人々に理解しやすいかたちで提供するというものでした。…』

*ライト・ライブリフッド賞ー/現在の最も切羽詰まっている問題に対し実際的模範的な回答を示した物におくられる最も名誉ある国際的な賞
「高木仁三郎の部屋」 http://cnic.jp/takagi/
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昔の着物

2011-03-07 | Weblog

自転車で通りがかりにアンティークの着物屋さんを発見。
そっとのぞいてみると古い着物や帯や小物がいっぱいです。
しかもセレクトがモダン。
靴を脱いで上がって幾つか眺めるうちに、
我家のタンスに眠っている銘仙の古い着物にぴったりの帯を発見しました。
かなり古びているので私でも買えるくらいの手頃な値段です。
買って帰って、合わせてみたら着物ととても似合います。
60年以上前の着物が再び生き返りました。
この店では着物に関する様々なアドバイスもしてくれて、
着付けなども安価でしてもらえます。
家を改築した時に古い着物を随分処分したのですが、
3棹の箪笥にまだまだいっぱい着物が詰まっています。
母のや祖母のもの、叔母の着物も、
洋服にアレンジしたものもありますが、
やはり着物として着たいと思うものの、
合う帯が無い、○○が無い、と着物は着るまでに一通り揃えるだけで大変、
面倒になって結局また箪笥の中に…
でもこの歳になって今から着付けもちゃんと覚えて着てみようかなと思っています。
古い銘仙や絣、絞りや型染めの帯や着物、半襟の刺繍、帯揚げや、帯締めの組みひも
などなど眺めれば眺めるほど着物は歩く工芸品のようなものだなと思います。
着物を着て自転車に乗る女性もいるそうで、
まだ見たことはありませんし、私にはそんな勇気はありませんが。
でも古い着物の大胆なデザインをどこまで着こなせるか
挑戦してみようと思います。
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沖縄の色

2011-03-01 | Weblog

娘の沖縄旅行のお土産です。
「やちむん」(沖縄の焼き物)とお目出度いときに食べる伝統的なお菓子「まちかじ」(松風)。
お菓子の大きさは握りこぶし大。
京都で見るととても突飛な色合いに感じますが、
沖縄の自然の中でこの色は京都で感じるほどびっくりするような色ではなくて、
むしろ自然の中の美しい色に似せて作ったお菓子なのかもしれません。
味は素朴で甘さひかえめ、ごまが香ばしく、しっかり噛みごたえのあるお菓子です。

私は行ったことがありませんが、2月のこの時期でも、公園には緑が溢れているそうです。
娘は緑が垂れ下がっている、と表現していました。
沖縄の青い海と空、鮮やかな花や木や草、鳥や魚などの生き物、それら自然の色をこそ
沖縄の陶器や染め(紅型)や織物は映しているのだと改めて感じます。
下の写真は市場の魚屋さんの店先、だそうです。
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